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ラッヘンマンの肖像|齋藤俊夫

ラッヘンマンの肖像

2017年6月17日 水戸芸術館コンサートホールATM
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 田澤 純/写真提供:水戸芸術館

<演奏>
アルディッティ弦楽四重奏団(*)
ソプラノ:角田祐子(**)
ピアノ:菅原幸子(***)

<曲目>
(全てヘルムート・ラッヘンマン作曲)
プレトーク:ヘルムート・ラッヘンマン「これまでの創作を振り返って」(通訳:蔵原順子)
弦楽四重奏のための音楽『グラン・トルソ』(1971/76/88)(*)
高音域のソプラノとピアノのための音楽『ゴット・ロスト』(2007/2008)(**)(***)
『マーチ・ファタール』(2016、世界初演)(***)
弦楽四重奏曲第3番『グリド』(2000/2001)(*)

監修:ヘルムート・ラッヘンマン

 

「音楽でない、という言葉は褒め言葉だ。街中に溢れる<音楽>と言われるものの同類ではないのだから」「常に新しい作品を作るのだ、大量生産の車ではなく、一から自分の手で作り出す芸術作品を」「音楽によって新しい状況を作り出し、それを聴き、自分自身を観察し、そして冒険に出発するのだ」
今回の演奏会のプレトークでのラッヘンマンの言葉である。御歳81を越えてその芸術家としての気概にうたれ、そして同時に彼の音楽的挑戦を受けて立とうという気になった。どんな音楽を聴かせてくれるのか、と。演奏者は現代音楽のエキスパート、アルディッティ弦楽四重奏団に、ラッヘンマンの演奏で世界的な実績を誇るソプラノ・角田祐子とピアノ・菅原幸子である。

ラッヘンマンの弦楽四重奏曲第1番に当たる、弦楽四重奏のための音楽『グラン・トルソ』。バルトーク・ピチカートや弓の木の部分で弦を擦り叩くコル・レーニョはもちろんのこと、楽器の駒の近く、駒の上、さらに駒の下を擦ってギリギリとした音を鳴らす、弓で楽器の木の部分を擦る(楽器の側面だけでなく、なんと楽器の弦の張られた面の裏の面も擦る)、そして、中盤から終盤にかけて、ヴィオラが弾いているはずなのに音が聴こえないという弱音の限界を越えたロングトーンを延々と持続する、など、噪音もしくは騒音そして無音が奏されては消えていく。しかしそのきしんだ音と沈黙の中にあって、筆者は自分が安らいでいるのか緊張しているのかわからないアンビバレントな感覚に陥っていた。
美しいのか?美しくないのか?あるいは美という範疇を超えているのか?これは音楽なのか?この問いは解答を出すのではなく、永遠に問いかけ続けることに意味がある。永遠に問いかけ続ける運動、それこそが前衛音楽であろう。1971年の作品なのに全くその挑戦性、新しさは失われていなかった。

高音域のソプラノとピアノのための音楽『ゴット・ロスト』、これもまたピアノ奏者の息の音で始まるという形で挑んできた。ソプラノが「シュー」「フー」「シュッシュッフッフッ」と無声音を発したり、「ヴー!」「アー!」と絶叫したり、「ルルルルルル……」と巻き舌で発音したり、ピアノの弦の上に身を乗り入れて声で弦を共鳴させたり、口腔の大きさを変えつつ頬を叩いて出す音で旋律を奏でたりと、自由奔放に音楽的冒険を繰り広げる。ピアノも内部奏法などでそれに合する。
しかし、筆者は本作に先の『グラン・トルソ』のような新しさは見出すことができなかった。2007年に作曲された作品だが、このような作品は「現代」音楽と呼ぶには古いと感じられたのである。特殊奏法は使われているものの、根源には古典的な音楽への志向が強く感じられ、つまり、保守的な音楽に聴こえたのである。

そして世界初演のピアノ曲『マーチ・ファタール』、作曲者は「老いの至り。特に言うことはない」と演奏後コメントしていたが(今回の演奏会ではプレトークだけでなく曲間にも作曲者のコメントが挟まれた)、プログラムではかなりの長文で、「陳腐」なものを受け入れるという作曲コンセプトを語っていた。
実演はいかに、というと、前古典期の音楽をはるかに劣化させたような、確かに「陳腐」極まりない行進曲が演奏され、恥ずかしそうに途中でブツ切りされて終わった。
なるほど、「陳腐」である。そして、本当に「ただひたすらに」陳腐であり、なんの挑戦も批判もアイロニーもない。例えばプログラムで言及されていた、リゲティの『ハンガリアン・ロック』は、陳腐なロック調の音楽でありつつ作曲者がこめたアイロニーによって只者でない「現代音楽」となっていたが、本作はただ陳腐な行進曲でしかない。筆者は本作は評価に値しないと考えた。

最後の弦楽四重奏曲第3番『グリド』、ここにおいて『ゴット・ロスト』で感じたラッヘンマンの保守性が、『グラン・トルソ』の前衛性と共鳴し合い高め合っていることを知った。本作品も『グラン・トルソ』のような特殊奏法による、きしみに満ち、旋律など一切ない音楽なのだが、その音楽の構成原理、音の紡ぎ出しは全く古典的な「変奏曲」であり、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスらの変奏曲の伝統に連なるものなのである。
そして、その特殊奏法による変奏曲は、謎に満ちながらも、美しく、次にどんな響きが来るのかと期待させられ、作曲者が言う所の「音楽のエネルギー」に満ちたものであった。評論家ヴィリー・ライヒがシェーンベルクの伝記の中で「保守的革命家」と彼を形容していたが、まさにラッヘンマンも保守的革命家であり、西洋音楽の歴史を受け継ぎつつ革新していたことがはっきりとわかった。
美に問いかけ、美に帰る。現代音楽の真髄を知る演奏会だった。