エマーソン弦楽四重奏団|藤原聡
2017年6月2日 ヤマハホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by Eriko Inoue/写真提供:ヤマハホール
<演奏>
エマーソン弦楽四重奏団
ユージン・ドラッカー(ヴァイオリン)
フィリップ・セッツァー(ヴァイオリン)
ローレンス・ダットン(ビオラ)
ポール・ワトキンス(チェロ)
<曲目>
モーツァルト:弦楽四重奏曲第15番 ニ短調 K.421
バルトーク:弦楽四重奏曲第3番 BB93
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調「アメリカ」
(アンコール)
パーセル:ファンタジア第11番 ト長調 Z.742
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 Op.130~プレスト
ドヴォルザーク:弦楽四重奏のための『糸杉』~7.『とある家の辺りをうろつく』
有名団体の割には意外と来日の少ないエマーソンSQ。記憶が確かなら前回は2010年だったように思うが(この際は11年振りの来日だったようだ)、今回も7年振り、と長いスパンである。この間の2013年には団体創設メンバーであるvcのフィンケルが退団、変わってポール・ワトキンスが同パートに就いている。当夜は彼らにとって初登場となるヤマハホールにて。
演奏内容とは直接関係ないことながら、近年はチェロ以外の3人が立ったまま演奏するスタイルとなっているはずの彼らのステージに4人分の椅子が設置してある。当日のパンフレットにもチェロ以外が起立との記載があり、さてどういうことかと訝っているうちに4人が登場。Vnのセッツァーが杖をついて足を引きずっている。怪我だろうか…?
1曲目のモーツァルト(1st vnはドラッカー)は第1楽章からやや遅めのテンポを採用する。Allegro 「moderato」の指示に重点を置いた解釈だろうが、最近ではこの楽章をAllegro moltoのように駆け抜ける演奏が多い中で逆に新鮮に聴こえる。
思えば相当前の彼らの実演でも当楽章はこのテンポであったし、録音でもそうだ。しかし、テンポは別としてこのモーツァルトは技術的には極めて卓越したものでありながら今ひとつコクに乏しい。かつての切れ味に代わって丸みを帯びた円熟味が自ずと表出されていることは理解できる。しかし、ことモーツァルトにおいては颯爽としている訳でもなく、さりとて表情に陰影が格段に増している印象もない。賛否はあれど、彼らのかつてのモーツァルトは爽快だった。当夜は少しどっちつかずの半端なモーツァルトとなってしまった感。この作曲家の作品演奏で真の円熟を聴かせるのはエマーソンSQにとってすら難しい、と言ったところか。
次のバルトークでは1st が入れ替わってセッツァー。エマーソンSQのバルトーク、と言えば誰だってあの鮮烈なDGデビュー盤を思い出す。どうしたって比較対象となるジュリアードSQ盤がバルトークのモダンな側面を冷徹に表出したとすれば、エマーソンSQにとってはバルトークの弦楽四重奏曲ですら他の作曲家の同曲とあくまで等価なものであり、民族的表現vs現代的表現(敢えて雑な二分法で分けたが)という対立軸から自由な場所で思う存分に遊んでいるという印象だった(「とにかく緻密にやってみました」)。
そして当夜の演奏、比喩的に言えば「腹回りには相当に貫禄が付いて音が重くなり、そして細かい所にあまり拘泥しない」演奏へと変化している(あくまで彼ら自身の過去演奏との比較においてだ)。4人それぞれの音は太く極めて健康的であり、その表情は確信に満ちていて陽性、明るい。語弊がある言い方かも知れぬが「大らか」ですらある。そしてテンポの変化を大きく取っていないということもあるのか、楽曲の印象が最初から最後まで比較的一様である。個人的にはより鋭利で殺伐とした緊張感をバルトークの音楽には求めたくなるのだが、そういう時代でもないのか。あるいはエマーソンのかつての独自性が薄れてきているのだろうか(30年も経てば変化しない方がおかしいだろうが)。
最後のドヴォルザーク(再び1stにドラッカー)は当夜1番の名演奏。ここではエマーソンの卓越した音楽性が全てドヴォルザークのメロディや懐かしい響きを十分に生かすことのみに奉仕され、作品とのある種の齟齬を感じさせない。ローカル色を感じさせるような演奏ではないが、全く物足りなくない。
アンコールは3曲、パーセルは彼らの最新譜にも収録されていたもので非常にノーブルな響き。最後の『糸杉』からの1曲は恐らく当初の予定になかったのではないか。楽譜に関するやり取りでちょっとメンバー間に認識違いがあったように見受けられた。
先述したように、どんな演奏家でも年月が経てば変化するのは当然だ。エマーソン弦楽四重奏団の変化は、良くも悪くもより一般化して普通に近くなって行ったということだろう(でも、歳を取ってより「異常に」なる人だっているのだ)。これをどう取るかは聴き手それぞれの問題だが、かつての彼らの演奏を好む筆者としてはいささか寂しい、と正直に記しておく。