Books|『破壊しに、と彼女たちは言う』 柔らかに境界を横断する女性アーティストたち|藤原聡
『破壊しに、と彼女たちは言う』 柔らかに境界を横断する女性アーティストたち
長谷川祐子 著
東京藝術大学出版会
本体2800円+税
text by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
言うまでもなく本書のタイトルはマルグリット・デュラスの小説とも戯曲とも、あるいは映画の脚本とも言いうる特異なテクスト『破壊しに、と彼女は言う』から取られている。デュラス作品では「破壊しにね」と18歳の若い女性、アリサが言う。「主要(おも)な破壊は、まずアリサの手によって行なわれる」(田中倫郎訳)。しかし、アリサは「破壊せよ、とアイラーは言った」(中上健次)のと同じ意味で「破壊」という言葉を用いた訳では恐らくない。男性中心主義=ロゴス中心主義的な既存の秩序を転覆させるという文脈で中上がアイラーを引き合いに出したのは、いわばマニフェストでありステートメントだ。しかしデュラスの場合は「大文字の歴史」にあからさまに関わる事象ではなく、女性の身体性の発露と感覚、亀裂。それまでの既成概念に対する「根本的な居心地の悪さ」が自ずと突きつけた「ノン」だろう(但し、それは男性原理からするならば狂気とも映りかねないが)。「女は存在しない」と書いたのはラカンだが、別の仕方で存在すること。大上段に振りかぶって革命を起こすのではなく、「ずらす」こと。ずらすこと自体が目的、というよりも自ずと「ずれていく」。そして、それが結果として革新を生む。
本書はキュレーター/美術批評家である長谷川祐子が1989年から現在までに執筆した女性アーティストたちについてのテクストのアンソロジーである。青山ブックセンター本店において長谷川がChim↑Pomのエリイ、スプツニ子!と行なったトークイベントで、長谷川は「女性アーティストばかりをまとめて論じることはしてこなかった。なぜならそれ自体には特に意味がないからだ」と述べる。しかし、時期をおいて折に触れ執筆されたこれらのテクストをまとめて読むと、そこに共通する視点は明らかだ。というよりも、これは長谷川の「お眼鏡」にかなったアーティストのテクスト集成だから、選ばれたアーティストと作品を通して長谷川祐子という「個体」の嗜好性が明確に表れていると言える。ここで長谷川は安易なジェンダー論やポリティカル・コレクトネスの文脈に乗ることなく、それぞれの作家のコンセプト(という言い方はいかにも男性的だが)の出自、それらが具体的にどのようなアクションもしくは作品として結実し、結果的に男性中心主義的であった現代アートの世界に対しての「オルタナティヴ・ファクト」足りえたか、を具体的に検証していく。
冒頭、コム・デ・ギャルソンの川久保玲についてのテクストでは、1970年代が視覚的フォームから言説に置換していった過程の時代とみなす。ここにモダニズムの自己批判的・弁証法的な理論展開からポストモダンへ移行する変化を指摘し、「服」そのものを分析し、解体あるいは脱構築する川久保がその活動を1970年代から開始していることを重要視する。乱暴に言えばポストモダニズムは主体の否定または絶え間ないずらし、であるが、服に穴を開けたり非=シンメトリックにデザインしたり、あるいはポケットや下着を大胆に移動させたりする行為はそれ自体ユニークであっても何物をも意味しない。それを着る者との関係において意味が流動的に生成する。しかし、ここで詳細を記述する余裕はないが、これは単にポストモダニズム、と言うよりも川久保玲という個人の皮膚感覚に負うところが大きい、ということは長谷川のテクストを読めば把握できよう。
あるいは草間彌生。余りに有名なあの水玉や敷き詰められた男根を象徴するソフト・スカルプチュアはことごとく彼女のオブセッションの産物だが、例えば後者は父への畏怖から来る性的な抑圧と逆説的にそれを乗り越えようとするための過剰な表現となって表れる。草間にあっては、その作品群は戦略的かつロジカルに構築された上でアウトプットされているというよりも、彼女の生身の身体感覚から直に出力されているという方が正しい。最終章、妹島和世と西沢立衛のユニット「SANAA」についてのテクストでは、妹島独特の「イデアルな概念としてではなく、身体的なリアリティを重視する」アティテュード(妹島のあの「再春館製薬女子寮」や昨年開館した「すみだ北斎美術館」などは妹島の生身の身体感覚を抜きに語れない)について師匠の伊東豊雄や西沢との関係、対比で論じられ、非常な説得力を持つ。
帰納的に全ての女性アーティストに共通する特質、など導き出せる訳でもない。本書に登場するアーティストたちが「女性であるがゆえに」このような作品を製作していると明確に言える訳でもない。だが、確実に言えることは、反=中心的、反=イデオロギー的、反=観念的などなど、仮にそれを「女性性」と呼ぶとして、そのようなアーティストたちの一つところに留まらないある種の「軽やかさ」 の多彩な相貌を的確に描出した長谷川祐子の本書は、「女性」云々にこわだる必要もなく非常に優れたアート作家論となっているのは明白だ、ということ。現代アートに興味のある向きはぜひ一読されたい。全12章、先述の3アーティストのテクストはそれらのそれぞれ1章を占めるが、本書で言及されているアーティストは40名を超える(あとがきではエリイとスプツニ子! にも触れられる)。その広がりに目が眩む頃には、恐らくアイヒェンドルフの詩に登場するローレライにも似た広大な現代アートの「コンテクストの森」から出られなくなることだろう。これを愉しみと言わずして何と言う。