エリアフ・インバル指揮 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団 2017年日本公演|藤原聡
エリアフ・インバル指揮 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団 2017年日本公演
2017年3月13日 すみだトリフォニーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
エリアフ・インバル指揮
ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団
<曲目>
ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』より 前奏曲と愛の死
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
インバルが2001年から2006年まで主席指揮者の任にあったベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(以下KOBと略、旧・ベルリン交響楽団)。その間にこのコンビは2回来日公演を行なっているが、首席指揮者を退任してから10年以上経過した2017年になって改めて彼らが来日する、というのもやや予想外、と多くのファンは思ったのではないか。
チェコ・フィルとの来日は叶わなかったインバルの「楽器」は、かつてのhr交響楽団(旧・フランクフルト放送交響楽団)を別とすれば、何よりも我らが都響。インバルの意図を何の衒いもなくストレートに具現化する都響との演奏とはまた違ったテイストを持った演奏を当夜は聴かせてくれるのではないか、期待しつつホールへ向かう(尚、今回の来日ツアー初日のこのコンサートはすみだトリフォニーホール主催によるものであり、同ホールの開館20周年記念公演であると同時に、この2日前に行なわれた上岡敏之&新日本フィルのコンサートと併せて「すみだ平和記念コンサート2017」と銘打たれている。ここには1945年3月10日の東京大空襲と2011年3月11日への追想の意志が込められる。ハーディングと新日本フィルがその震災日当夜に約100人の聴衆を前に敢行したコンサートでの演目がまさにインバルが当夜演奏した曲と同じマーラーの『交響曲第5番』である)。
まずは『トリスタンとイゾルデ』である。この曲において、オーケストラのいささか古雅な音色が耳を引く。重心も相当に低く、艶っぽい音というよりも非常に渋みを帯びた音と言うべきか。そして、その音は皴一つない明晰さ、と言うものではなく独特の雑味成分を含むが故の引っかかり、物質的な肌触りとでも言うべきものが生まれる。これが実に快い。首席指揮者在任中のインバルとKOBの来日公演でもこのような印象が相当に強烈であったが、その時より技術的には機能性が明らかに増加したと思えるにせよ、この「音」は不変だった。インバルの解釈はある意味でかなりドライなものだったが、オケの持ち味とインバルの個性が上手く合わさって非常に聴き応えのある重量感溢れる演奏となっていた。
後半のマーラーにおいても、かつてのフランクフルトや都響とは確実に違った、それでいてインバルならではの表現に満ち満ちた凄演を成し遂げてしまう。オケの個性に由来すると思われるフレージングの膨らみがあり、その歌わせ方にも陰影がある。響きの重量感は縦の線をキッチリと合わせないでいられない都響(もしくは日本のオケ)と違い、いい意味での緩さからくるものだろう。
また、2013年に都響を指揮した演奏ではよりテンポが速く息は短く、含みと遊びのない非常なアグレッシヴさが強調されるのだが、当夜の演奏はもっと落ち着いている。それでいて、マーラー特有の非常に短いスパンでの急激なダイナミクスの変化やアクセントの抉りが都響の演奏以上に生きてもいる。
つまり、インバルの鋭利さとオケの古風な持ち味が相殺されず、むしろ両者の味が上手くミックスされることによって指揮者にとっても、そしてオケにとってもまた別の次元に到達した名演奏に仕上がっているのである。
言葉にしてみるとどうにも不思議なのだが、実際に明らかにそういう演奏になっていたのだから面白いものだ。即物的な技術力、と言う面ではこのKOB、かつてのフランクフルトや都響よりは弱いだろう(この日もミスが散見された)。しかし、それが欠点にならない。いざという時の表現力には日本のオケが叶わない底力がある(スケルツォやアダージェットの濃密さとコクはどうだ)。また、終楽章コーダでの思い切った「溜め」などはここ最近のインバルの解釈の変化だと思うが、齢80を超えながらも依然変わり続ける指揮者の本質的な「若さ」にも脱帽。語弊のある言い方かも知れぬが、インバルに「円熟」は似合わない。