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読売日本交響楽団 第566回 定期演奏会|藤原聡

読売日本交響楽団 第566回 定期演奏会

2017年1月31日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡( Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮:シルヴァン・カンブルラン
コンサートマスター:長原 幸太

<曲目>
メシアン:『彼方の閃光』

 

なるほど、巨大編成ゆえのエキストラ参加によると思われる合奏やハーモニーの若干の乱れ、オケ内でのテンポ感の僅かなズレなどの細かい瑕を拾っていくことも出来ようが、それらは大した問題ではない。カンブルランと読響のコンサートにはそれなりの回数足を運んでいるが、それらの中でも当夜の演奏は特別に素晴らしいものであったと断言できよう。この難曲をコンサートのプログラムに乗せ、かつこれだけの水準の演奏を聴かせてくれたカンブルランと読響には感謝あるのみだ。

『彼方の閃光』、1987年~91年、メシアン最晩年の大作。超・大人数の管楽器群に(コントラバスクラリネット、などという楽器も用いられる)多種多様な打楽器(但しティンパニはない)、弦5部は16/16/14/12/10、総楽員数は128名(ハープはなし)。ステージ狭しと並べられる椅子の多さは滅多に見ることの出来ないものだ。
『トゥーランガリラ交響曲』などに比べると、その響きはより研ぎ澄まされて地味になり、ダイナミズムよりは全体的にゆったりとして静謐な音楽が多くを占める。巨大オーケストラを用いながら、パート毎に使用されることが多く限定的であり(ちなみにコントラバスは第8楽章で始めて登場、しかも演奏時間は5分ほど。コントラファゴットも第10楽章で少し出て来た以外にどこで使われたのか? 弦楽器も全プルトが参加する箇所は少ない)、全体が咆哮する箇所はほぼない。
にもかかわらず、ここでオーケストラから聴こえて来るのは紛れもないメシアン特有の非常に色彩的な響きである。楽器の使用が抑制されているが故により聴き手の想像力を喚起することとなっているようにも思えるが、「重要なことはこの作品が〈彼方(来世)〉および〈天上の都(エルサレム)〉への瞑想の総体であり、〈ヨハネの黙示録〉に負うところが多いということである」(ポール・グリフィス)。そう、「瞑想」である。

瞑想。その意味で言えば、第5楽章<愛の中に棲む>と第11楽章の<キリスト、天国の栄光>の両緩徐楽章が疑いなく当演奏の白眉であった。前者は、録音に聴くラトルやチョン・ミョンフンの演奏が約10分ほどであるのに対しやはり録音でのカンブルランは何と約15分も掛けている。後者も前二者の8分ほどに対して11分だが、この夜の演奏でもカンブルランは録音と同様のテンポを取っていた。ここでの無時間性というか、息が止まるかのような静けさの表現はカンブルランにのみ成し得たものと思われる。全く弛緩せず、テンポは絶妙に保たれる。
第11楽章では弦楽合奏の背後に6人の奏者が「ピアニッシシモ」で最初から最後までトライアングルのトレモロを奏し続けるが(指定は3人らしいが、カンブルランの指示で倍にしたそうだ)、この効果の素晴らしさはいかばかりのものか。弦楽器が全休止となる瞬間に響くトライアングルのみの音…(尚、この楽章終結部では最後の音がゆっくりと虚空に溶解するかのように終わってもカンブルランはしばらく手を下ろさず、サントリーホールは水を打ったような静寂に包まれる。20秒くらいしてからだろうか、ようやく拍手が徐々に湧き起こったのは。当夜はまた聴衆にも恵まれた。こういう瞬間は何物にも替え難い)。

18の木管楽器が25種類の鳥の鳴き声を模倣する第9楽章<生命の木に棲む多くの鳥たち>ではその音響はまるである種のミュジック・コンクレートのように響く。一歩間違えば単なるカオスに陥りかねないこの楽章を、タクトを置いたカンブルランは指で数字を示しつつ見事に統率していたが、ここはカンブルラン自身の録音と比べるとやや雑然とした印象が勝っていたか。

もう1ヶ所だけ印象深かった楽章を挙げれば第10楽章の<見えざる道>。ここでのメシアンは、『トゥーランガリラ交響曲』を彷彿とさせるような迫力を聴かせるが、それだけに全曲の中ではやや浮いて聴こえる。しかし、それゆえに聴き易いとも言える。

冒頭に記したように瑕がなかった訳ではないが、ここでカンブルランと読響が聴かせた眩いばかりの色彩的な響きはそれ自体で特筆に値する。この秋の『アッシジの聖フランチェスコ』にいやが上にも期待は高まろう。