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五線紙のパンセ|その1)「演じる音楽」という「前衛」|川島素晴   

その1)「演じる音楽」という「前衛」 

text by 川島素晴 (Motoharu Kawashima) 

富山市近郊に「リバーリトリート雅樂倶」というホテルがある。川と自然に囲まれた立地にふんだんにアートを配した全体は、極めて洗練された空間であると同時に、訪れる者に幸福と生の充実を実感させてくれるが、その中でも「前衛的地方料理」を標榜するフレンチレストラン「L’évo」は、シェフ谷口英司による緻密で慈愛溢れる「料理芸術」を堪能できる、画期的な場所である。

地元農家や伝統工芸作家との密接なコラボレーションにより、その土地でなければ成し遂げられない「表現」を実現。全ての皿が、そこに関わる全ての人々の思いの結集した完璧な表現として、舌を、目を、更には耳をも満たす。例えば、落ち葉の中にサーヴされる焼き菓子の食感は、そのまま、落ち葉を踏む秋の足音と連なる。このように、五感に届く全てが、常に四季の織り成す音や風景とも連なっているのである。食が、そして生が、四季折々の表情をなす大地に根差すものであることを噛みしめる…その土地に訪れた人々が、そのときその場所でなければ得られない、「土地」を味わう体験は、文字通り、他の場所では絶対に感じとれない体験であり、そうやって地に足をつけて感受する美的時間こそが、人が文化的時間に求めるひとときなのではないだろうか。

そのような幸せな時間を過ごしながら、音楽の現場はどうか、とふと思う。

今日「音楽」と呼ばれるものの大半がスピーカーやヘッドフォンを通じて聴かれている状況にあって、その聴覚体験は、発音者の存在を伴わないヴァーチャルなものとなって久しい。動画投稿サイトやストリーミング技術の発展により、そこに視覚を伴い得るようになった昨今であってもなお、その本質にはさほど変化はない。かくいう私も、自作品の動画等を告知するのに便利なツールとしてYouTubeを利用しているし、日本に居ながらにしてベルリン・フィルメトロポリタン歌劇場のライヴを疑似体験できる恩恵にも浴している。とりわけ、これら動画メディアやライブビューイングでの配信は、そのクオリティが向上し、ある意味で現実のコンサート以上に充実した体験にすらなり得ることも承知している。しかし、いかに、YouTubeが自作品の公表の場として簡便且つ安価なフォーマットであろうとも、ライブビューイングなるものが、見たい場面が適切なカメラアングルによって切り取られ、すばらしい情報に満ちた充実したものであろうとも、やはり、それらは疑似体験であることに変わりはない。2016年はVR元年と言われるが、ヴァーチャル・リアリティ技術の発展により、収録物の体験が更に現実感を伴った迫力に満ちたものになることは想像に難くないし、それを駆使した表現形式が市民権を得て新たな可能性を見出すことも事実であろう。しかし、そうなればなるにつれ、(少なくとも私は)それがあくまでもヴァーチャルなものであることを強く意識してしまう。空間を、演奏者の行為を、そしてその場の物体の振動を共有することなくして、それは「音楽体験」たり得るのか?
一方、人工知能(AI)技術の発達とともに、「作曲家」の存立は次第に危ぶまれるものとなりつつある。今日の職業的作曲家が作品を納品する際に不可欠である、いわゆる打ち込み技術によるDTMは、ほどなくしてその作成をボタン一つで、専門的教育を受けたことのない素人でも実行できるものとなるであろう(というか、現時点でほぼそのようになりつつある)。映画、TV、CM、ゲームといった、いわゆる映像用に供するものとしての音楽を構築する手段は、もはや専門家の手を離れ、聴き手やクライアントが求めるものを自動的に生み出してしまう装置によって遂行される時代が到来しつつあるのだ。それでもまだ、クライアントの中には、作曲家との人的コミュニケーションを介した制作を大切にし、それを維持しようとする向きも残り続けるかもしれない。しかしここには更に、技術的に致命的な背景もある。旧来の音楽の構造である、旋律と和声の組み合わせは、明らかに有限であり、それを一瞬にして叩き出してしまうAIによるシミュレーションにより、それらが全て著作権登録されてしまう未来は、すぐそこにある。(日本でも内閣府による「知的財産推進計画2016」にてAIによる著作物の権利保護について議論が始まっている。)そうなれば、「新曲」と自称するものは全て、そのようにして収奪された「著作権」の主張によって、著作権侵害作品のレッテルを貼られてしまうのである。(今日の著作権ビジネスは、二次的著作物を訴え削除を要請するのではなく、コンテンツIDによって管理し収益を独占する仕組みに移行しつつあるが、いずれにせよ最初に著作権を登録した者勝ちの状況には変わりない。)

では、これからの作曲家はいったい、何をなすべきなのか。

2016年10月28日、神奈川県民ホールで開催されたシンポジウム「日本・フィンランドの音楽事情と展望」に出演し、登壇したフィンランドの若手作曲家ペルットゥ・ポロネンとともに自作を1曲ずつ紹介した。楽典教育システムを12時間の時計の文字盤になぞらえたMusiClockなるアプリケーションを15歳のときに開発したことで、21歳にして既にフィンランド随一の著名な存在である彼だが、そのシステムを、その会場では木でできた道具で説明したことに好感が持てた。友達に楽典を教えるために開発したというその道具で、手を介して説明する姿が根幹にあってこそのスマホアプリであり、自然と寄り添うフィンランドの国民性を感じた。
%e3%81%8b%e3%82%8f%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%b6%e3%81%9f%e3%81%84私は、うら若い彼が登壇すると知って、自分が若かった頃(それでも26歳のときだが)の作品、《And then I knew ‘twas Toccata》(1998)を、18年ぶりに再演することとした。これに関する詳細や上演の様子は、私自身のブログ記事や演奏者の神田佳子のブログ記事その1その2で紹介されているので参照して頂くとして、概略を言えば、トレモロのようでいて、実は非常に複雑なリズム定型となっている音型を様々に変奏していくこの作品で、ヴィブラフォンを演奏する神田佳子に対する黒衣として、私自身が様々な異化作用をもたらす(簡単に言えば邪魔をしたりする)作品である。後方にいる黒衣が鍋を上げると同時に奏者も上がってしまう(画像参照)とか、斜めになったヴィブラフォンの上にクラヴェスを転がす、といった様々な仕掛けは、現場で目撃しなければその面白さは確実に半減する。このような作品の仕掛けは、「演じる音楽」という、私自身の創作における基本コンセプトから導かれたものである。

「演じる音楽」とは、そもそも音楽とは「音」の連接である以前に、「演奏行為」の連接である、という観点から作曲する手法で、「演奏行為の共有体験化」を実現するためのメソッドである。
また、この手法の前提には、真に知的な文化体験の本質としての「笑いの構造」がある。

私はこのようなコンセプトを1994年から掲げているが、その当時と今とでは、音楽やメディアをとりまく環境は著しく変化した。当時既に、「あなたのコンセプトは、本来の音楽が具えていることを言っているだけなのではないか」という指摘を受けていたし、私自身、それについては肯定している。そしてその後のネット環境やツールの発展を経て、私の主張は更に後ろを向いているかのようである。しかし、これまで述べてきたように、どのように状況が変化しようとも、或いは、変化すればするほど、私自身のこのスタンスは、いっそう強固なものとなっているし、むしろ、意味のあることだったと、確信するに至っている。

ライヴに人が入らないということで、ライヴでの収益をアテにできなくなった時代を経て、CDが売れなくなった今、音楽業界は再びライヴでの収益にシフトしている。(ただし、本当に売れ線のアーティストを回転させることに終始するわけだが。)「応援上映」の実施でアニメファンが映画館に足繁く通う現象や、「ポケモンGO」によって自宅に引き篭っていたゲームオタクをリアル世界に引っ張り出したとか、2016年は、VR元年であると同時に、「リアル世界で盛り上がる」元年でもある。CDへの投資をしなくなった音楽ファン層は、余った予算を、自らが足を運ぶ様々なイベントに投資することにシフトさせている。
このような傾向がただちに現代音楽の状況に移転するかどうかはわからないが、私は、私なりにやってきた、ライヴであればこそ初めて意味を体感できる表現の可能性としての「演じる音楽」のあり方を、これからも実践し続けていきたい。

%e3%81%8b%e3%82%8f%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%a1%e3%82%89%e3%81%972その空間に足を運んでこその時間体験を、人工知能には抽出できないと目せる独創性をもって実行すること。それこそが、これからの作曲家に求められている表現なのではなかろうか。

冒頭に紹介したフレンチレストランが掲げる「前衛的地方料理」なる看板における「前衛」とは、1960年代の前衛のそれではなく、21世紀における真の意味での「前衛」(人が人として生きることを見据えた先にある新しい表現世界)なのだなと、再び感心した。
私自身も、そのような意味での「前衛」を、生き続けたい。

★公演情報
2016年12月25日(日)16時 東京文化会館 小ホール
「アンサンブル室町 ~MERRY CHRISTMAS MR. ERIK SATIE!」
川島素晴《ギュムノパイディア/裸の若者たちによる祭典》
6〜9名の西洋古楽器奏者、6〜9名の邦楽器奏者のための
(2016/アンサンブル室町委嘱)初演

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川島素晴(Motoharu Kawashima)
1972年東京生れ。東京芸術大学及び同大学院修了。1992年秋吉台国際作曲賞、1996年ダルムシュタット・クラーニヒシュタイン音楽賞、1997年芥川作曲賞、2009年中島健蔵音楽賞、等を受賞。1999年ハノーファービエンナーレ、2006年ニューヨーク「Music From Japan」等、作品は国内外で演奏されている。1994年以来「そもそも音楽とは『音』の連接である前に『演奏行為』の連接である」との観点から「演じる音楽(Action Music)」を基本コンセプトとして作曲活動を展開。日本作曲家協議会理事。国立音楽大学准教授、東京音楽大学及び尚美学園大学講師。2016年9月、テレビ朝日放送「タモリ倶楽部」で現代音楽の特集が行われ、解説者として登壇。タモリとシュネーベル作品で共演した。
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