大阪フィルハーモニー交響楽団 第502回定期演奏会|藤原聡
2016年9月27日・28日 フェスティバルホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
<演奏>
指揮:エリアフ・インバル
<曲目>
モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K.183
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
名指揮者の「仕事ぶり」をつぶさに確かめるにはまたとない絶好の機会だろう。周知の通り、インバルは2008年から2014年まで東京都交響楽団のプリンシパル・コンダクターの地位に就いており、この期間中には日本のオーケストラでは都響しか振っていない(不文律として他のオケは振らないのだろう)。しかし、それ以前にはN響や読響、日本フィルの指揮台にもしばしば立っており、都響特別客演指揮者の任にあった期間中の1998年と2000年ですらそれぞれ読響とN響に客演している。言うまでもなく、都響での立場はあくまで客演指揮者であるからフリーに動けるためだ。そして大阪フィル。この関西を代表する名オーケストラは、長年(と聞くが、具体的にいつ頃からなのかは知らない)客演指揮者としてインバルを呼べないものか画策していたという。それが、インバルが都響プリンシパル・コンダクターを辞任して桂冠指揮者といういわば「名誉職」的な地位に就いて身分がフリーとなったために、ようやく今回の大阪フィル初客演が実現したのだ。インバルにとって25年もの間協演を続けている都響は、いわば「マイ・オーケストラ」。指揮者とオケが互いの手の内を知り尽くし(そこからはみ出る場合も勿論あるけれど)、阿吽の呼吸が出来上がっている。対して、初めて振るオーケストラでは互いに白紙の状態だ。指揮者はどう自分の解釈をオケに伝えて実際に音にしてもらうか。オケは、その指揮者はどういうやり方で何を求めてくるのか。双方期待と不安が入り混じっている(はずだ)。聴衆にとっては初客演の際にしか味わえない「化学反応の妙味」。それを確認するために遠路大阪入りした―以上、このコンサートの意義の確認。
さて初日の27日。本当にインバルがフェスティバルホールに現れた(当たり前)。モーツァルトの小ト短調はこの作曲家の交響曲の中でも明らかにインバル向きであると思うが、果たしてその演奏は小気味良いテンポで剛直に滑り出すものの、弦楽器の鳴りが悪く、弦と木管群のフレーズの受け渡しがスムースではない。よろしくないのはホルンの絶不調さで、両端楽章でしばしば音を外す、音程が悪い、鳴らない。このホルンが全体の足を引っ張ったのは間違いなかろう。それゆえか、インバルは明確なアーティキュレーションによるメリハリのある造形を求めているのがありありと分かるが、オケが追従出来ていない。演奏全体は決して悪くはないが、インバルとしてはピリッとしないし、大阪フィルも本来の実力を出し切れていない感。筆者は演奏において技術的な傷をあまり気にしないタイプであるが、このホルンは演奏全体へ悪影響を及ぼしているという点で看過しにくい…。まあ初共演の初日であるし、緊張しているのだろう。演奏終了後のインバルはそれでもいつになく上機嫌(初共演ゆえ盛り上げようとしているのだろう)、ステージを去る際に後半で使われるハープをポロンと爪弾いたり、お茶目なところを見せる。
後半のマーラーの第5。インバルの名刺代わりの勝負曲だろう。それゆえこちらも大いに期待するというもの。しかし、冒頭トランペットが派手に外してしまう。ホルンは概ね好調だが、ここでも弦楽器の鳴りは思いのほか悪く、例えばヴァイオリンではコンサートマスターの田野倉氏が大きな身振りで引っ張らんと身を挺している中で、後ろのプルトは不動のまま極めてクールに弾いている感があり、これが全体としての鳴りの悪さと音の「ばらけ」の原因か、と思ったものだ。木管群はなかなか好調で音の立ち上がりと技巧も冴えている(が、音は溶け合わない。マーラーではこれもよい)。インバルの解釈は、以前にも増して音楽の「枝葉」を削ぎ落とし、推進力に満ち満ちた、非常にシンプルなものとなっている。流れを犠牲にしても細部の表情に異常に拘るかつてのインバルとは別人。とにかくパワフルである。しかし、以前ほどではないにせよ、マーラー特有の細かい表情記号の掘り下げは健在である(インバルに比べれば他の指揮者は多かれ少なかれ平坦な演奏をしている)。この両者―流れと細部の掘り下げ―を融合させるにはさすがのインバルといえども初客演では無理であるし、大阪フィルも大いに健闘はしたものの、あちらこちらで崩壊しかかってしまい、満身創痍である。インバルの解釈をガッチリと音化するには、度重なる共演とオケの基礎体力の向上が不可避、という感を持つ。
通常はあまり行なわないという2日目本番前のリハをみっちり実施するようだ、との関係筋の話を聴き、2日目には大きく改善されていて欲しいもの、と思いながら2日目の28日。驚いた。モーツァルトからして音に芯があり、鳴りは豊かかつマッシヴになっている。聴いた席は1つ違いであるから、席の違いによるものではあるまい。但しここでもホルンは絶不調であり、一体どうした? と心配になるレヴェル。また、根本的なアンサンブルの悪さも昨日とはあまり変わっていない。しかし、明らかにかなり良くはなっている。後半に期待。
マーラー。冒頭のトランペットはやや不安定ながら今日はしっかりと決まるが、27日との大きな違いは、音の密度とそれに伴う鳴りの良さ、決然とした響きである。フレージングはより統一され、楽器間の受け渡しも有機的に。1日でこうも変わるものか。当夜のマーラーは尻上がりに好調度が増して行ったのだが、その契機は第2楽章の再現部以降であり、ここで音の厚みと全体の響きのまとまりは一段と向上(田野倉コンマスの捨て身の弾きっぷりには胸が熱くなりました)。終楽章のコラール予告では前日では濁り気味であった総奏ははるかに響きが整理され、であるからうるさくないのに迫力が増す。その後のコーダへ続く移行部への転換も鮮やかに決まり、何か表現に確信が増しているのが明らかである。
スケルツォではホルンが素晴らしい。洗練味はないが良く鳴り、とにかく豪快に決まる。この楽章は目まぐるしく変化するテンポと楽想をどう指揮者が処理するか、がキモとなるだろうが、インバルは自然に聴かせようとするのではなくその不連続さをそのままあぶり出す。主部とトリオ部の表情の変化と断絶の表現も、27日よりメリハリに満ちて秀逸。大阪フィル健闘。
アダージェットは2013年の都響での演奏は相当にテンポが速く、また中間部でヴァイオリンに付けられた急激なクレッシェンドを大きく生かしていたために、とてもではないが『ベニスに死す』には使えない(笑)強面な演奏となっていた(これは褒め言葉である)。ここではそれに比べれば若干テンポは遅くなり、凹凸よりも滑らかな歌に寄った解釈となっていた感。しかし剛直な点に変わりはない。大阪フィルの弦が骨太な歌を奏でる。
そして最終楽章。インバル流儀でテンポはかなり速めであるが、ここではフーガの各声部がインバルの常としてしっかりと整理され、それぞれの「出し入れ」が手に取るように聴き取れる。都響の明晰さには及ばぬまでも、これは紛れもないインバルの音である。ロンドの回帰ごとにアンサンブルの緊密度と白熱度はいやが上にも増し、コーダでは熱狂と正確さがかなりの精度で合致して爆発、「インバルのマラ5」としての面目を十分に保った名演奏となっていた。終わりよければ全てよし…?
なるほど、27日の項に記載したヴァイオリン群の不統一、管楽器の音色の洗練と統一感、金管の基礎力の向上などの課題は山積しているだろう。しかし、短い共演期間でインバルが「鬼のしごき」(?)を行ったことにより、大阪フィルはその良い意味での粗野な持ち味は保たれながらも別の次元に踏み込んだ演奏をするに至った。これは紛れもない潜在能力の証明だろう。インバルは28日の終演後非常に上機嫌だったと聞くし(マーラーの後にカーテンコールの拍手が収まりかけてオケのメンバーが去ろうとし始めた時、袖で待機していたインバルが「もう1度出させろ」と言わんばかりに飛び出てきたのは笑ってしまった)、大阪フィルをまた振って頂きたいと切に願う。