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コンポージアム2016 一柳慧の音楽 |藤原聡

コンポージアム 2コンポージアム2016 一柳慧の音楽

2016年5月25日  東京オペラシティコンサートホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮:秋山和慶
ピアノ:一柳慧
ソプラノ:天羽明惠
バリトン:松平敬
東京都交響楽団

<曲目>
ビトゥイーン・スペース・アンド・タイム(2001)
ピアノ協奏曲第6番『禅-ZEN』(2016)
交響曲『ベルリン連詩』(1988)

今年のコンポージアムは「武満徹作曲賞」の審査員に一柳慧を迎えた。その一柳の音楽世界を紹介する一夜。最新作のピアノ協奏曲(2016年)や、こういう言い方が許されるのならば前衛からある意味で伝統回帰を果たした後の(そう単純化できるものでもないが)代表作とも言いうる『ベルリン連詩』(1988年)など近年の作品がバランスよく3曲配置され、「一柳慧入門」として最適なコンサートと言える。

1曲目の『ビトゥイーン~』では演奏者が15人。聴いてのイメージは、音塊が凝集されていくような箇所と、無方向的に拡散していくような箇所がランダムに現れていき、何らかの明確な指向性や求心性が意図的に宙吊りにされている感。このイメージはなかなか言語化しづらいけれども、作曲者自身の言葉で「…時間と空間の境界領域や、両者の相互の浸透域」に関心を持ったと記し、当曲はこの観点から書かれた作品と記される。これは、平たく言えば西洋的な時間概念に必ずしも囚われない、そこからの離脱の試みということと理解するが、実際の音楽もまさにそういう印象だ。音が虚空にポン、と放たれる瞬間は、何か時間の流れからは逸脱していると同時に、音それ自体が即物的な物質性を帯びて聴こえる。
音楽はむろんそういうものだが、これは何らかの言語化しうるメッセージ、というものとは異質のものだろう。非常に興味深く聴いた。

2曲目はピアノ協奏曲『禅-ZEN』。正直に書けば何が『禅』なのかはいまひとつ理解できずも(研ぎ澄まされたピアノとオケの関係性か、あるいは「余白」か)、曲は面白い。作曲者ご自身も言うように、この曲はいわばピアノという楽器を「異化」する目的で書かれている。
ピアノを弾く一柳は、曲頭スネアドラムのスティックのような棒でピアノ内部の弦を縦に滑らせ、これが倍音成分や雑音をも加味された、なんとも不可思議な音響を撒き散らす。他にも(遠目で確実には見えなかったが)ハーモニクス奏法やプリペアドピアノ奏法も登場。
オーケストラは弦楽器群の重々しい楽句で演奏に参入するが、この協奏曲では大体においてピアノとオケは通常の意味での「協奏曲」然とした掛け合いをほとんど行なわない。それぞれが互いの領域に勝手に口出ししてくるような印象。
曲後半ではピアノも通常奏法になるが、ピアノのアルペッジオの連続からオケは猛烈なクレッシェンドで高潮し、その後にはピアノソロの、図形楽譜によるフリー・フォーム的なパートに入る(ほとんどフリー・インプロヴィセーションのように聴こえる)。ここでは一柳がとても御年83歳とは思えぬような打鍵とテクニックを披露、大いに暴れまくるが、これには驚愕である。
その後はピアノ内部奏法に戻るが、最後のピッコロとピアノの掛け合いからの静かな終結は大変に美しい(バルトークの「オケコン」第3楽章を思わせる)。
しかし、繰り返すが今年の作品であり、かつ御大自身が弾くハードなピアノ。この力はどこから来るのだろうか。

最後に『ベルリン連詩』。久しぶりに聴いてみて、これは名作だと思った。なんと言っても表出性が抜群に高い。敢えて抽象的な言い方をすれば、表現の方向性に明確なコアがあり、それが具体的にテクニカルな冴えとして結実し、であるから聴き手にストレートに音楽とその表現したい内容が伝わる。これはいわゆる「現代音楽」ではある意味で稀な、こう言ってよければ幸せな事態だと思うのだ。前衛が保守化した、などという卑小な批判を曲の強度がはるかに超えている。本作の初演は1988年だが、それから28年経過した2016年に接してみてもその力は衰えていない。むろん詩句も示唆的だ。第7節の大岡信の詩「世界的な生化学者の談話―」などは余計にアクチュアリティを深めてはいまいか。
演奏はほぼ万全ではなかっただろうか。あの第2楽章後半の長大なクレッシェンド。秋山が数字の書かれた大きな札をオーケストラに示しながらどんどん膨れ上がって行く音響は実に戦慄的だった。実演で『ベルリン連詩』を聴けたことに感謝。

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