カデンツァ|「この道」は、|丘山万里子
「この道」は、
text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
本誌《五線紙のパンセ》vol.6で<冬の時代>と題して、寺嶋陸也氏が「戦争前夜」を思わせる日本の今日的状況を指摘しつつ、以下のように書いている。
幸い、音楽活動が制限されるようにはまだなっていない。スポンサーがつくとか、商業的な公演の場合はともかく、そうでない場合には自由に曲目を選び演奏することもできるし、作品も自由に発表することができる。しかし、マスコミが次第に萎縮しているように、自主規制のような形で「これこれの内容の演奏会にはホールを貸せません」などといわれるようになる日も遠くは無いかも知れない。
この一文で、ありありと思い出した。ずいぶん前のことだが、自分の体験を書かせていただく。
2001年2月、私は山田耕筰についての音楽講座2回とレクチャーコンサート1回を東京文化会館に頼まれ、引き受けた。山田耕筰論を刊行すべく、長年、資料を読み込み、すでに脱稿していたから、いわゆる研究者とは異なる、自分なりの視点を明確にした話とコンサートにしよう、と思った。
しばらくしてから、当時の文化会館館長、三善晃氏から電話があり、レクチャーについて話があるので会いたいとのこと。何事か、と出向くと、氏は簡略に、内容についてクレームが届いていることを説明された。クレームとは、ざっとこんなものだった。
「この講座は東京文化会館、東京都教育委員会の主催である。にもかかわらず、このように日本のベートーヴェン山田耕筰を貶め、批判するような、思想的に偏った人物にレクチャーさせることはけしからん。即刻中止せよ。」
私は少なからず驚いたが、すぐ、なるほど、そういうことか、と合点した。すでに配布された音楽講座のチラシに、私はこう書いていたから。タイトルは「山田耕筰 光と影」で、第1回「日本と西洋の間で」、第2回「時代を泳ぐ山田耕筰」、内容説明文は以下だ。
「山田耕筰はベルリン留学ののち、交響楽運動に、オペラに、また、北原白秋と『詩と音楽』を創刊、日本語と西洋音楽の融合による歌曲創造に、とまさに日本における西洋音楽の先駆者として大車輪の活躍をし、輝かしい功績を残した。
が、一方で、大戦期には音楽挺身隊を結成、旧満州国では甘粕正彦とともに文化政策の中枢をになった。
彼の辿った道の光と影は、音楽もまた国策と時代とともにあることを私たちに示す。その創作行為における民族意識の変化の過程を、留学以降の彼の音楽のなかに探りつつ、今日、グローバル化する世界と、国旗国歌法制化や、<神の国>発言などに見られる一連の日本の空気とを重ね、新世紀の今後をも考えてみたい。」
国旗国歌法の成立は1999年、森喜朗元首相の<神の国>発言は2000年。当時、私は君が代問題についても自分の考えを述べていたし、山田の軌跡にこれら「日本の空気を重ね」て考える、というスタンスが、偏った思想なのだろう。
私は右も左も、イデオロギーも嫌いだが。
どうするか、と三善館長に尋ねられたが、私はこのままやらせていただきたい、と答えた。それからどのような処理がなされたか知らないが、第3回にあたるレクチャーコンサートのプログラムを書き換えることもなく(その要請もなく)、無事に講座・コンサートを終えた。ただ、聴衆の中にいるであろうクレーマーと何かあったら、という不安があったのは事実だ。
私の場合、スポンサーが東京都(石原慎太郎が都知事の教育委員会)であったから起きたことだが、為政者や権力について、やはり考えないではなかった。言論の自由など、時の権力がその気になれば、ひとたまりもなかろう。
三善館長は2004年、石原都知事の文化行政が自分の理念と相容れない、として辞意を表明、退任している。
今年初め、朝日新聞の「文化・文芸」欄に「今こそ 山田耕筰」という吉田純子編集委員の記事が載った。「今こそ」というのは、「過去の作家や芸術家などを学び直す意味を考えます。」だそうだが、「戦争に、音楽の灯を消させてなるものか。軍の懐で音楽家を守るという<反戦>もあった」「<音楽を未来へ>覚悟の軍歌」という見出しに、違和感を持った。
「かく語りき」の枠には山田の青春自伝の中の言葉「過ちの道でもよい。その道をひた走る勇が貴いのである」を引用している。(2016年1月18日付朝日新聞)
私は戦時の山田の発言を丹念に追い、日本近代音楽館の山田耕筰文庫に蒐集されている資料、スクラップなど全てに目を通したつもりだ。
1938年4月2日付の中央産業組合新聞に掲載された「時局を語る」で、彼はこう発言している。
「我が日本が國力伸張に伴ひ、海外に雄飛發展するのに、何の躊躇遠慮が要らうか。己が是と信ずるところに從ってどしどし果敢に進出すべきである」ただし武力だけでは足らない。「武力は山野の伐採であり、文化工作はその開墾、種蒔きである。」「此の意味に於て所謂文化戦線の強化擴大が緊要缺く可からざることゝ思ふ」
「今度の事變で、日本の藝術界は全面的に立ち上つて總動員運動に参加した、國家的意識の目醒めが強いことを立證してゐます、世間には“音樂こそインターナショナルだ”等と唱へる似面非者が居るが、私は“音樂こそ絶對に非インターナショナルだ”と絶叫します」(1939年12月13日付東京朝日新聞)
1941年太平洋戦争突入直後の12月14日付都新聞「藝能陣の決意」では、
「いゝですね、今度の戦争はいゝですよ、米英との戦ひで一應古い文化を破壊し、その破壊によって新しい文化が必ず建設されますよ、破壊の次に來る新しい文化、その新しい文化の巨砲は、我々の手で打ちあげなければなりません、根本にこの心構へを持って、我々は戦時體制下の文化建設を考へるべきです」
山田は<身内>の音楽家を守ったかも知れないが(吉田氏は畑中良輔の言葉を引いている)、これらの発言に明らかなように、彼が戦時に果たした役割と事実は重い。
吉田氏は「誰もが音楽を音楽として、自由に楽しめる。そんな未来を夢見た山田の精神がいま、国と国とが対極的な価値観できしみあう現代社会をひたと見据えている。」と記事を結んでいるが、私たちがひたと見据えなければならないのは、まずは、私たち自身の歴史であろう。山田の眼差しが、戦前、戦中、戦後とどう変化したか、その事実を検証することこそが「今こそ」の意味ではないのか。
「過ちの道でもよ」くはないのだ。
私は山田の音楽的偉業に大きな敬意を抱いているが、同時に、戦時の彼の言動もまた直視したい。
この2月に、高市早苗総務相が、 政治的公平性を欠く放送を繰り返した放送局には電波停止を命じる可能性もある、と言い、問題になった。以来、報道の自由・自立をめぐって論議が続いている。
規制だ、脅しだ、との抗議の声もあれば、TV報道の偏向を言い立てる声もある。どちらも放送法の遵守を叫ぶが、法というものは解釈によってどうにでもなるということだ。
NHK、TBS、テレビ朝日の看板キャスターの相次ぐ交代。国際 NGO「国境なき記者団」が、2016年の「報道の自由度ランキング」を発表、日本は前年61位から72位に下がった。特定秘密保護法の実施から、「多くのメディアが自主規制し、独立性を欠いている」との指摘も受けた。
言論の自由とは。
15年前、私が経験した些細なことがらが、知らぬ間に拡大、蔓延したら。
ジャズの排撃を筆頭に挙げ「米英撃滅の為の音楽文化戦線の確立強化」(音楽文化新聞第45号/1943年4月10日付)を山田が叫んだのは、つい70年ほど前のことなのだ。
時代にどう向き合うか、山田耕筰を見るまでもなく、それは簡単なことではない。
だが、過去に学び、自分の手で探り当てた事実(事実の選択と解読には畢竟、個々のフィルター、すなわち偏向があるが)からのみ語る「責任」と「自由」とを、私たち、ものを書く人間は常に強く、深く、自覚したい。
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今回はもう一つ、書かせていただく。
私の母の郷里は熊本である。
「おてもやん」を、よく歌ってくれた。
「あとはどうなときゃあなろたい」「げんぱくなすびのいがいがどん」
子供の耳には意味不明の呪文のような言葉の連なりだが、ほっかむりして踊りながら歌うユーモラスな母に、いつもほっこりした気持ちになった。
東京生まれの私には、ふるさと、ってこういうものか、と羨ましくもあった。
その熊本の地震、被災。
言葉もなく、ただミシミシと胸が裂ける。
(2016/5/15)