Pick Up (2020/8/15)|「日本音楽芸術マネジメント学会第12回夏の研究会」レポート|丘山万里子
「日本音楽芸術マネジメント学会第12回夏の研究会」レポート
〜After / With コロナ時代を生きる~音楽で明日の社会をひらくために〜
Report : Japanese Society for Musical Arts Management 12th Summer Workshop
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
7/27~8/9の間の4日間、「日本音楽芸術マネジメント学会第12回夏の研究会」として3つの分科会と1つのシンポジウムが開催された。オンラインであれば筆者も全日参加可能となり、コロナ禍で苦境に立たされる日本のクラシック音楽界の現場の声を直に聞くことのできる貴重な機会となった。
テーマは『After / With コロナ時代を生きる~音楽で明日の社会をひらくために』。
概略は以下HPをご覧いただきたい。視聴は各回200人ほどとのことだった。
http://www.jasmam.org/activities/kenkyuukai12
各回での発言から出された問題・事項をメモから個別に列挙する。
◆分科会1 オーケストラ(都響、札響、大響、名フィル、東響)
- 音楽が人生に必要だと一般の人々に思ってもらうにはどうしたら良いか
- 公演中止による損失の大きさ
- 再開後も半分の客席のその半分が客の実数で、公演をやればやるほど赤字が累積
- 感染不安の心理的障壁ができ、客の戻りが悪い
- 海外演奏家の来日困難により国内勢で回すため、指揮者の奪い合い、プログラムの均一化が起き、魅力ある公演が作りにくい
- 楽団員の不安払拭にPCR検査をしても1回しかできない資金力不足
- 公益財団法人であることから自転車操業が常態で、あまり体力をつけてはならない縛りにより、このような危機ではあっという間に崩壊
学校法人、宗教法人のように芸術文化法人ができないか - プロジェクト助成が改定されない限り事業自体の持続的維持が困難(コロナにかかわらず客の減少傾向に歯止めがかからない)
- 国による助成の方向性が見えない
- 動画、アーカイブ配信その他の手段はあくまで補助的で収益性には結びつかず、メインは生演奏、ただ、ライブと配信のハイブリッド公演は将来的な可能性を秘める
- 楽団員の意識の変化
① 客がいてこその演奏の喜び
② アンサンブルにおける自主性(監督不在でも自主的な音楽作りにトライ)
◎各オケで印象に残った発言は以下。
♪都響(国塩哲紀):コロナ禍での大野和士のリーダーシップ(ガイドライン作成のための試演など)
♪札響(中川広一):道内唯一のオケとしての道内外(特に外)からの支援
♪大響(二宮光由):関係者全員のPCR検査実施(1回のみ)
♪名フィル(山元浩):地元に根ざした活動により楽員へのメッセージが多く届く
♪東響(辻敏):動画配信、ノットとのリモート演奏などのチャレンジとフランチャイズ(川崎・新潟)の力
◆ 分科会2 アーティスト
- 演奏家のメンタリティの問題
①表現の場を失いモチベーションが低下
②自己肯定感が強いメンタリティは聴衆による承認欲求を伴うゆえ、場を失うことでそれが保持できなくなる
③ 孤独感
④ 観客の存在の大きさを実感 - 世間の厳しい目:好きなことをして生きているのに支援を求めるのはおかしいという自己責任論
- 演奏家の意識の変化(社会的役割、使命を考えるようになった)
- 現場と行政の間の認識の差
- 動画創作配信による新たな表現領域の開拓
- クラシックの役割、需要、存在意義に正面から向き合う必要性
- クラシック音楽公演運営推進協議会設立の意義と活動:一般社団法人日本クラシック音楽事業協会、公益社団法人日本オーケストラ連盟、公益社団法人日本演奏連盟、全国のクラシック音楽公演を開催する公共・民間ホールの横断的連携
- 感染防止ガイドライン作成のため専門家と連携した科学的検証実験の実施(クリーンルーム@茅野)
◎各報告者の発言から
♪渡邊悠子:子供達相手の活動ゆえ、直接向き合うことが難しく、演奏者も子供達も我慢我慢で心が折れる
♪閔鎭京:音楽教育でのオンライン授業につき学生は継続希望が多い。教育におけるオンラインの重要性(音大生はパソコンに弱いのでそこを補強の必要)
♪本山秀毅:合唱人口の多さ(40~50万人)とともに情報の共有ができていない現状(情報の取捨選択の困難)、感染予防と復活の困難
♪入山功一:
①生の演奏会スタイルは普遍(同じ空間、時間、心を通わす場)
②グローバルとローカル(外来と邦人)の問題の背後には日本の教養主義があり、コロナとは別次元のローカリゼーションが必要では
③マネージメントの存在意義とは
④芸術団体がそれぞれの利害・分断を乗り超え足並みをそろえたい
⑤従来のスタンダードを破り新たなスタンダードを、の意識を持って
⑥客を信じる
⑦演奏家こそが拠り所
◆分科会3 劇場・音楽堂
- 自分たちで作り上げてきたものを自分たちで壊すやり切れなさに心が折れる
- チケット返金などの作業に追われフリーズ状態だった
- 海外アーティスト招聘のめどが立たない
- 合唱の再開の遅れ
- 主催事業の存在意義が問われている
- チケットの売れ行きが鈍く、興行的に苦境
- PCR検査ができるような制度を
◎各報告者の発言から
♪京都コンサートホール(高野裕子):地元のアーティストをステージに。周辺地域との連携をもっと強くする必要
♪神奈川県立音楽堂(永井健一):劇場を支えるのは「人」である
♪兵庫県立芸術文化センター(古屋靖人):
①科学的情報の整理と対応を管理する体制が必要。
②文化芸術に冷淡な日本社会との関係の見直し(自負、拍手、笑顔が持続的な力になるかどうか)
③再開ありきでなく、無理に進まず、確信を積み上げる
♪愛知県芸術劇場(水野学):地元のネットワークが大切(オンラインワークショップ、オンライン講座などの取り組み)
◆シンポジウム「After / With コロナ時代を生きる~音楽で明日の社会をひらくために」
各回のまとめ(本稿では省略/上記参照)と、以下のメンバーの報告とディスカッション発言
- 榎本剛(文化庁政策課長):文化庁補正予算についての説明
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/sonota_oshirase/2020020601.html#info00
どーんと500億あまりの画期的な補正予算をつけたのだから、どんどん申請、利用してほしい。使い切らないと不要と思われてしまう。 - 入山功一(日本クラシック音楽事業協会):上記(分科会2)に準ずる。
- 鈴木順子(東京芸術劇場):
① 現場におけるガイドライン作成は珍しい。8/6現在全23業種、161種類のガイドラインが作られた
② 合唱領域における東混開発の「歌えるマスク」の工夫
③ 映像配信は新たな消費行動と観客聴衆の創造開拓となる
④ 有料コンテンツ配信はクラシックはまだ少ないが、可能性は大
⑤ 音楽は不要不急のものではない、という根強い認識をどう変えるか - 平井俊邦(日本フィル):
① 公演中止による巨額の損失で、楽団存亡の危機
② 夏休みなどを含む子供たちとのプロジェクト停止によるコミュニケーションの喪失
③ 東北の夢プロジェクトなど復興プロジェクトの停止によるコミュニケーションの喪失
④ 経済的毀損と芸術上の毀損の大きさ
⑤ 社会—経済—文化を同列に。効率と利益追求に走る社会に文化を
⑥ 経営手法の研究が必要(資本性劣後ローン)
以上全4回を視聴して筆者が感じ、考えたのは以下。
全員に共通していたのは
1. 資金困窮
2. 日本社会におけるクラシック音楽の必要性への問い
1. 経済・行政に関して筆者は全くの門外漢だが、シンポジウムの文化庁榎本氏が500億補正予算に胸を張り、列席3氏の「金がない」連呼を聞いた後の応答でうっすら笑みを浮かべつつ「今回は貴重なご意見を伺いました。補正予算、どんどん申請、使ってください。残してはダメ、足りなくなったらまた考えますから」的発言をするのには、首を傾げた。
特に日フィル平井氏の「存亡の危機」の悲鳴に近い声に並んで、こんなに用意してるんだから使いなさい、はどう考えても変だ。
使えるならとうに申請、使っているのでは?
一体どういう仕組みになっているのか?
そんなんじゃ現場は焼け石に水、なのであれば、では、どうしたらいいのか?
現場の「悲鳴」と文化庁担当官の「余裕」の間にあるこの乖離、ざっくりでも素人にわかるような説明をしていただける方がいたら是非、本誌にご寄稿ください。
なお、行政その他の動きは本誌5/15号より特別企画『新型コロナウィルス感染症と日本の音楽文化』 (戸ノ下達也氏執筆)の克明なレポートがあるのでそちらをご覧いただければと思う。上記疑念については今月号で多少触れておられる。
特別企画|新型コロナウィルス感染症と日本の音楽文化|戸ノ下達也
2. クラシック音楽の社会的役割云々は愛知トリエンナーレのゴタゴタでも出てきたことで、文化芸術なんぞ生活必需品じゃない、という世間の声。ましてや金のかかるクラシック、我々の税金回す理由がどこにある。公益?誰の?
この問題、民主党政権での事業仕分けの時も大騒ぎだった。その前は公立文化施設(美術館、博物館、国立大学など)の独立行政法人化の時。バブル崩壊後の不況にあって、文化保護などやってられるか、と国が放り出した。
など、あげつらうのは簡単だが、入山氏が言っていたように「答えは見つからない。ただ、意識することは大切」。
が、こういうとき、すぐ「西欧は」と持ち出すのが定型であることに筆者は都度、疑念を持つ。
クラシックはそもそも教会・宮廷という権力のお飾り・サポート的存在から、サロン、市民社会へと移行、市民権を得たように見えるが、西欧がつまるところ今なお階級社会であることを鑑みれば(その階級に属していれば感じないであろう段差)、「巷の人々」にとっては縁遠いというのが一般の感覚だろう(彼らの日常に教会があるにせよ)。
日本はそれを明治期に「文化的近代化」の一環として摂取したのであれば、背景が異なる。入山氏の「教養主義」の指摘もそこにあろう。その「教養主義」が時代とともに「商業主義」となり音楽が商品化され、経済の効率利益の消費路線に絡め取られてきたのが現状であるなら、私たちは繰り返し繰り返し、自分たちの音楽営為について「向こうはこうだから」など言わずに、「私たち(日本でなく、世界)はどうしたらよいか」から出発すべきではないか。おそらく、現在、若手アーティストたちに生まれている自主的自発的な活動は、彼らが「向こう」でなく「私たち全体の音楽世界」を等視する目を持ちつつあるからではないか。
グローバルもローカルも全てそこにつながる問題で、その流通経路を絶たれた今こそ、原点(西欧のではない、音楽の、だ)に立ち戻り足元から土台を組み直す時ではないのか。
兵庫の古屋氏の「無理に進めない。いつでも止める覚悟。パーティーは一緒に、未踏の登山を。」を含蓄ある言葉と聞いた。
と、急ぎまとめたところで本日、トッパンホールのランチタイム、若手のトリオ(毛利文香vl、田原綾子va、笹沼樹vc)でベートーヴェンを聴いた。そして改めて思った。
要は、「人」だ。わくわくする音楽に出会えば、誰だってわくわくする。そういう演奏を創ることが、何よりまず先決ではないか。集客するための演奏家や演目や方法を考えるのでなく、客を呼ぶ演奏家を自前で育成、蓄積して行かねば、土台なんて出来るものではなかろう。
人はモノを作れるが、モノは人を決して生み出せない。人を生み出すのは人だけだ。今回、登壇の方々も「拠り所は人」と言ったではないか。
演奏家と、彼らを支える現場の人々こそ私たちの宝であり、財産なのだ。
コロナ禍によって、皆、自分たちの存在への問いを突きつけられた。苦境に陥って初めて、見えたものがそれぞれにあるはずだ。だから、私たちは変われる。若いデジタルネイティブ世代のセンスを生かし現場の経験をそこに繋いでゆく。
満身渾身の音楽に寄せられる久々の喝采に若い3人が見せたとびきりの笑顔に、筆者は日本のクラシックはこれからだ、と思ったのだった。
(8/12記)
追記:本誌は創刊から5年間「Back Stage 」という枠で、オーケストラ、ホール、 マネジメントの方々の現場の声をお寄せいただいてきた。全49団体となる。 そこから見えることについては、稿を改めたい。
(2020/8/15)