パリ・東京雑感|女の力 誘惑の構造|松浦茂長
女の力 誘惑の構造
text by 松浦茂長( Shigenaga Matsuura)
クラーナハの絵の女たちは見る者をうろたえさせる。挑発?誘惑?いや、こんなありきたりの語では捉えられないミステリーが、私たちの立つ地盤をぐらつかせ、精神のめまいのような反応を起こさせるのではないか。ルーブルには、貴族の肖像画やほっそりしたヴィーナスにまじってルターの娘の肖像というのがあり、妙に気になった。生意気な小娘のようにも見えるし、13歳で死ぬ運命を達観した強靭な自我のようにも見える。見るものを引き付け、同時に突き放し、相矛盾する力で翻弄する。クラーナハの女に見つめられると、たじたじとなり、見れば見るほど謎が深まるばかり。一体あれは何だろう?ずっとこの疑問を抱えて来たので、東京の国立西洋美術館でクラーナハの全体像に迫る大展覧会が開かれたのはうれしかった。
クラーナハ展のサブタイトルは《500年後の誘惑》。会場の説明を読んで<女の力>という言葉を知った。日本語の<女子力>は男に気に入られる媚びを含むのに対し、ドイツに伝わる<女の力>は男を惑わし破滅させる敵対的な力らしい。展覧会の企画者は、その<女の力>の実体を<誘惑>とし、これをクラーナハ晩年の主要なテーマとして展示していた。でもあれを<誘惑>と片付けてよいのだろうか?男に媚びるところがかけらもない、威厳に満ちたヌードを<誘惑>と言う言葉でとらえようとすると、大切なものをとり逃してしまうのではないだろうか。
NHKの美術番組で、西洋美術館の学芸員が、クラーナハのヴィーナスは貴婦人が「はらっと服を脱いだようだ」と言っていた。ボッティチェリのヴィーナスのような神々しいヌードではなく、生身の女が誘うようなヌードだということらしい。
でも誘うヌードが淫らに見えないのはなぜだろう。ケネス・クラークは『ザ・ヌード』の中で「ヨーロッパにおいては、媚薬的官能芸術は、滅多に成功したためしがない。クラーナハの場合は、彼のその普遍的な魅力をもつ主題を開発するのに、彼特有の明確繊細な様式を犠牲にしなかったが故に成功した。彼の描く妖女たちは、斜めの誘惑的視線にもかかわらず、水晶細工や七宝焼のように、誰からも欲望とは無関係に鑑賞され得る<芸術品>であることをけっしてやめないのである。」とクラーナハの様式を賞賛している。
しかし、ケネス・クラークの説明で<誘惑的視線>が<芸術>に高められたことは理解できても、クラーナハの女がなぜ人をうろたえさせるかは謎のままだ。不安の根はよほど深いところにあるに違ない。意識下の深層にひそむ脅威が、あたかも原初的生命から直接迫るかのごとく意識界の秩序を脅かす。人類はこの脅威を、昔から<女>として語ってきた。魔女、鬼婆のたぐいである。しかし、その怖ろし気なレッテルの裏に抗しがたい魅惑が潜んでいるのを、人々は感じて来たし、天才たちはその魅力を明るみに出してくれた。
たとえば、『魔笛』の夜の女王は両義的な<女>の典型である。理性と秩序の神殿の祭司ザラストロにとって、夜の女王はあわれな非合理に過ぎないが、彼女がプレゼントした笛の音には、「悲しい人も喜びにあふれ、女嫌いも恋に落ちる」ほどの<魅了する力>が備わっているのだ。
クラーナハの謎を解くカギは「ユディト」だった。アッシリア軍の総司令官ホロフェルネスの生首が前面に転がるどぎつい図なのに、不思議なほど静かだ。勝利したユディトはもう<誘惑的視線>を用いて戦う必要がないから、その表情には見るものを不安にする両義性がない。誘いつつ突き放す<いかがわしさ>を失ったユディトの顔は、高貴な人格性を表している。クラーナハは<誘惑>の奥にさらに深く強い<女の力>を見て、崇拝に近い気持ちを抱いていたのではないか。そんな空想をしたくなるほど、見るものを素直に感動させる絵だ。
しかし、旧約聖書のユディトは、やもめの喪を厳格に守る倫理性と娼婦的誘惑の両義性があまりに極端なので、おとぎ話を読むような印象を与えてしまう。アッシリアの大軍に包囲され、水も食料も尽きかけたベトリアで、うら若き寡婦ユディトが一計を案ずる。喪服を脱ぎ、化粧して、敵陣に赴き、町の様子を総司令官にお話ししたいと申し出る。その時の兵士たちの反応が面白い。
彼らはユディトの美しさに驚き、また彼女ゆえにイスラエル人に驚いて、口々に隣の者に言った。「これほどの女たちがいる民を、だれが侮れよう。彼らを一人でも生かしておくのはまずい。ほうっておけば世界中を籠絡するにちがいない」
女の誘惑に圧倒され、恐れを抱き、殺すしかないと考える思考パターンは、タリバンが女性にブルカを着せ、頭の先からつま先まで袋のような布で隠さないと、誘惑から男を守ることはできないと思い込む否定的思考法と似ている。男性支配の原理主義は、昔も今も禁欲的戒律を厳守させたがるものらしい。
さて、兵士たちの心配した通り、総司令官ホロフェルネスはあっけなくユディトの魅力に無力化され、酔いつぶれて寝入ったところを討ち取られ、翌朝首のない総司令官の死体を発見した18万のアッシリア軍は恐怖にかられて逃げ惑う。そして『ユディト記』はこう結ばれている。
ユディトが生きている間、またその死後も長い間、イスラエル人を脅かす者はだれも現れなかった。
攻撃的なアッシリアと大国エジプトにはさまれた小国イスラエルに平和などあろうはずはないから、この1節は、著者の夢である。武力によって平和を得る可能性が全くない時、女が誘惑によって平和を獲得した奇跡の物語。<女の力>が男を打ち負かす夢の物語である。
夢あるいは寓意的フィクションと考えれば、ホロフェルネスの首から一滴の血も流れていないうえ、彼の顔が恨めし気ではあっても服従の表情を浮かべているのも不思議でない。女が英雄の首を切り落とす男勝りの殺戮を文字通りとるのではなく、寓意・象徴として読み直せばよいのだ。ユディトがホロフェルネスの頭に手を当てているのは、命を守り育む女性原理が、荒ぶる男性原理を手なずけ、すっかりおとなしくしてしまったことを意味する。
かくて<女の力>が男性原理を圧倒したとき、この世に真の平和が訪れるという理想世界のビジョンなのである。黙示録文学とされる『ユディト記』の精神を見事に視覚化したといえるだろう。
男性原理による解決が破綻したとき、女性原理がかわりに突破口を開く物語は、旧約聖書に他にもいくつか見られる。
ヤコブの子ユダに3人の息子があった。長男にタマルという嫁を迎えたが、息子はすぐ死んでしまう。次男は兄のためにタマルに子を産ませる義務があるのにそれを嫌い、「兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した」。この行為が神に憎まれ、次男も死ぬ。ユダは三男までタマルと結婚すれば死ぬのではあるまいかと恐れ、嫁を実家に帰す。何年か後、タマルはいくら待っても三男の妻にしてもらえないのを知り、死んだ夫の跡継ぎをつくるために娼婦のみなりをして、ユダが通るのを待つ。ユダはタマルだと気付かないまま、彼女の下に入り、タマルはユダから印章と杖をもらう。3か月後、ユダに「あなたの嫁タマルは姦淫をし、しかも姦淫によって身ごもりました」と告げる者があり、ユダは「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ」と言う。それに対し、タマルはユダの印章と杖を見せるので、ユダは彼女の正しさを認めざるを得なかったというストーリーである。
タマルの全人生は亡き夫を継ぐ命を生むことにかかっていて、そのためには掟を破ることも、娼婦としての辱めを受けることも障害にはならない。命の原理を貫徹するために律法を粉砕し勝利するのだ。タマルの場合もユディトと同じように、<女の力>が男性原理を飲み込んでしまう。
ところで、ヘブライ語の<タマル>はヤシの意味であり、ヤシはバビロニア神話の<エデンの園>に生える<生命の木>であり、また偉大な女神イシュタルを指す語なのだそうだ。ヤーヴェの厳格な一神教の聖典に異教の豊饒神が紛れ込んだのだとしたらすごい。
『マタイによる福音書』冒頭の系図を読むと、アブラハムから5人目にタマルの名がある。あまり上品とは言えないタマルの冒険がなければ、ダビデ王もキリストも生まれなかったわけで、<女の力>がこれほど高く称揚されていることにあらためて驚かされる。
もうひとつショッキングなのがロトと娘の物語だ。神が不品行なソドムの町を滅ぼしたとき、ロト一家だけ逃がしてやった。生き残ったのは独身の娘2人と、年老いた父の3人だけ。姉は妹に「この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう」と言い、子孫を作るのである。
タブーを犯さなければ命が絶えるとき、法に縛られる男性原理を突き破るのは<女の力>の役割であり、その行為は義とされる。クラーナハの描く娘たちの晴れやかな顔は、ロトの不安げな表情と対照的だ。