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小賀野久美 ピアノ・リサイタル|丘山万里子

小賀野久美 ピアノ・リサイタル〜三善晃に捧ぐ〜

2017年7月4日 杉並公会堂小ホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:タッシ・アーツ

<曲目>
三善晃:
 ピアノのために〜円環と交差
 アン・ヴェール
 ピアノのためのプレリュード「シェーヌ」
〜〜〜〜〜〜〜〜
モーリス・ラヴェル
 亡き王女のためのパヴァーヌ
 クープランの墓
 夜のギャスパール

 

アメリカ在住のピアニスト、小賀野久美が<三善晃に捧ぐ>として三善作品3曲とラヴェルのリサイタルを開いた。三善逝去からもう4年近く。2015年3回忌の小さな室内楽コンサートでも小賀野は数曲弾き、『シェーヌ』が印象的だった。
1985年『三善晃ピアノ作品集』(CD)は高い評価を受け、三善の信頼も篤かったと聞く。桐朋で三善のパリ時代の仲間、田中希代子にも学んでいる。

「シェーヌ」スコアの一部

その『シェーヌ』。響きはウェット。その分、少し重い。
この作品は、スコアに「速度を含むムーヴメントの指示は、人間の呼吸の仕方で示され、奏者の感性にゆだねられる」とあるように、その時、その場、その人の「息」、あるいは心と身体全てをひっくるめての「存在」そのものが発する音の持続、空間以外に成り立ちえない。いや、これは本来あらゆる音楽に、そうなのではあるが、『シェーヌ』の厳しく、自由な、閉じつつ、開け放たれている、そういう音楽では、あまりにそのことが素裸にされるので、奏者も聴き手も、その容赦ない美に撃たれ続けねばならない。
幽かな Es(変ホ)の連打音の冒頭から、滲む。音の輪郭が、水を含んだ筆でわずかに湿(しと)るように、にじむ。外は雨だしな、と、ふと思う。雨音のようにこの Esは全体に響き続ける。どこか追憶の匂いがして。
けれど24の大小の前奏曲からなる全3部(復帰・綜合・復帰と応照)とそれをつなぐ小さな鎖(シェーネット)の輪はそれぞれに細かく表情を変え、時に鋭利、時に幻惑、抉るような低音の一方で、硬質でひんやりした大理石の高音がばら撒かれ、あるいは、第3部冒頭の最高音部での囁きはオルゴール風に、でもちょっと無機質に響いたりする。この第3部弱奏の残光からattaccaで入る激越な強奏部とリズムの躍動にはもう少し弾力が欲しかったが(重さ、湿りが足を引っ張った)、透徹した全体の構図(連鎖)と持続は、きちんと見えた。
三善はこの連鎖を「因果」とも言ったが、それが纏う情念のようなものに、この夜の小賀野は反応、湿った重さの響き、あるいは通奏低音たるEsを生んだのかもしれない。

通奏低音、といえば、最初に弾かれた『ピアノのために』では第1曲の冒頭と終尾のEs- Zisの響き、第2曲A-Fisの下降音型のリフレインがずっと耳に揺曳する。あるいは『アン・ヴェール』の韻。
そこに、ずっと鳴っていた「何か」。前半で私に残ったのは、それだ(プログラムは予定から前後半入れ替えになり、後半にラヴェル)。

ラヴェルの『ギャスパール』の<絞首台>の鐘の音、<スカルボ>の同音連打を聴くに至って、プログラムを貫く「何か」を再び看取したのだが、それは何であるか。
『ラヴェル ピアノ作品全集』(全音)を監修・解説した三善は、ラヴェルを語りながら、日本語の美しさについて、一茶の句を引きつつこう言った。
「せみ啼くや つくづく赤い かざぐるま。生と死の膨大な風景が、ここにはありますね。」

先ほど追憶、因果と言ったが、この一夜、その一つの大きな鎖・輪であったのではないか。
その言葉に何をまとわせるかは、奏者、聴き手それぞれが自己の内部に見いだすべきものだろう。
ただ私はそこに、小賀野のピアニストとしての強い「意志」(追憶、因果を含む彼女全体の重量)を読み取ったのは間違いない。