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〈エスポワール シリーズ 12〉嘉目真木子(ソプラノ) Vol.1―日本歌曲|西村紗知

〈エスポワール シリーズ 12〉嘉目真木子(ソプラノ) Vol.1―日本歌曲

2019年4月13日 トッパンホール
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
嘉目真木子(ソプラノ) / 北村朋幹(ピアノ)

<曲目>
瀧 廉太郎:組歌《四季》より〈花〉〈納涼〉〈秋の月〉〈雪〉
山田耕筰:《嘆き》
藤井清水:《うら畠》
信時 潔:《短歌連曲/茉莉花》
髙田三郎:《ひとりの対話》より〈くちなし〉
中田喜直:《母私抄》
三善 晃:《抒情小曲集》より〈少女よ〉〈五月〉
猪本 隆:《四つの愛の詩》より〈ここに見つめ合う目と目があり〉〈二月〉
木下牧子:《抒情小曲集》より〈夕顔〉/《悲しみの枝に咲く夢》より〈夜の薔薇〉/〈おんがく〉
アンコール曲
山田耕筰:《この道》
別宮貞雄:《さくら横ちょう》

 

トッパンホール主催の、若手演奏家の育成を目的とする演奏会企画シリーズである〈エスポワール〉の第12回目のソリストとして選ばれたのは、ソプラノの嘉目真木子。そして伴奏を務めたのは、〈シュニトケ&ショスタコーヴィチ プロジェクト〉(これもトッパンホールの主催公演シリーズ企画)で活躍し、第10回の〈エスポワール〉でソリストを務めた経験もある、北村朋幹であった。精力的に活動する若き演奏家の出演とあって、期待度の高い演奏会だったと言えよう。
演目はオール日本歌曲。プログラムノートでも指摘されていたとおり、この演奏会は戦前から現代に至るまでの「日本歌曲」を一挙に実演し、日本の近現代音楽史を展望する試みである。

しかし、それはただ博物館のように展望するのではなかった。それでは人に感銘を与えることはできない。日本の近現代音楽史がいかに苦難の道のりだったか、嘉目と北村はその苦悩をいわば再生産していた。「日本歌曲は難しい」と声楽をやる人間が言う場合、発音・発声をその理由とするのだが、実際には困難さはそれに尽きるものではない。一口に言えば、「譜面通りに演奏する」ことが困難なのであって――より正確には、「譜面通りに演奏する」こと自体を反省せねばならないのである。その譜面が破綻している可能性も加味しながら――、もっと言えばその原因は、日本歌曲特有のシンクレティズム(混合主義)にある。この場合シンクレティズムとは、日本歌曲が西洋音楽のフォーマットにのっとり、日本語詞でもってつくられたものという、和洋折衷のことに尽きるものではない。これは歌のジャンルの混淆状態をつくり出す。あるものはリートで、あるものはオペラ・アリアで、またあるものはもっと芝居に近く……といった状況である。それが作曲家ごとに、ともすれば一つの作品においてでさえも異なってくるのだから、演奏者はその都度対応を迫られる。特に、本格的な洋楽受容が始まって間もない時期の作品にあっては、作曲の方向性の模索とあいまって、演奏上の正解を探し出すのも難しい。
作品のはらむシンクレティズムに付き合うこと。これがこの演奏会のいわば通奏低音となっていたのだと思う。あるいはまた、作曲家が表現したかったことと、実際に彼・彼女に可能だった技術的水準との乖離を、直視すること。

瀧廉太郎の《四季》は、日本人なら誰でも知っていると言われる〈花〉にはじまる。折り目正しいもののやはりとうに古臭くなった組歌であるが、ここでは見事に蘇生されていた。〈花〉は全体的にテンポが速めで、強迫と弱拍をなるだけ平らにして、土着っぽいビート感を消し去った伴奏の上に歌われる。その中で生み出される大きな流れは、さながら隅田川の生き生きとした描写のよう。〈納涼〉もまた、伴奏にひと工夫あって、一拍目の裏拍の2つの音符を二拍目に近付けることにより、ぐっと躍動感あるテンポに。〈秋の月〉の真にリリカルな前奏は、弾き始めるまでたっぷりと時間を置いて、卓抜した集中力で演奏され、よくもこれほど少ない音から魅せる音楽がつくれるものだと驚嘆した。
山田耕筰の〈嘆き〉では、嘉目のコントロールの冴えた歌唱技巧が光る。高音部への声の切り替えが心に沁みる。曲調は宗教声楽曲そのもので、山田耕筰もアヴェ・マリアを書いていたのか、などと思った。
藤井清水の〈うら畠〉は筝曲風の前奏が特徴的な、まさに「日本」歌曲で、歌と右手の伴奏がヘテロフォニックに絡み合いながら、全体としては穏やかに進展していく。
これに比べ、激情の表現を志向していたのが信時潔の〈短歌連曲〉及び〈茉莉花〉である。それにしてもこれらは、今回のプログラム中では最も難解に聞こえた二作品であった。詞として用いられた短歌ごとに曲調と調性が変わる〈短歌連曲〉には、メドレー形式のような単調な形式感と、特に長い前奏の中で顕著な、無調への取り組みが同居している。加えて最後の絶唱は、オペラ・アリア風だ。〈茉莉花〉は大楽節ごとに調性が変わる複合三部形式の歌曲、といったところであろうけども、筆者は作品中の変奏の技法に理解を及ばすことができなかった。その後の髙田三郎〈くちなし〉が幾分か穏当なキラーチューンだったので、人心地ついたのだが。
休憩を挟んで続く中田、三善、猪本の作品は、言葉をきちんと聞きとれるものにしつつ内省的な表現が要求される傾向にあり、これにも嘉目はしっかり応えていた。中田喜直の〈母私抄〉では、私的に訥々と語るように歌い、三善晃の〈五月〉では死への不安を実直に歌い上げた。
特に印象に残ったのは、猪本隆の〈二月〉である。一人の女性が嫁ぐことが決まった旨を切々と書き上げる、その手紙が詞の内容となっており、この音楽が流れるのははたして手紙の書き手である女性の側なのか、それとも送り先の相手なのか、想像力が刺激される。旋律の起伏の少ない言葉を聞かせる作品とあって、嘉目の芝居の能力が存分に発揮された。
その後、内的な語りに起因する閉鎖的な空気をがらっと変えたのは、木下牧子の作品群であった。〈夕顔〉は涼やかで風通しのよい音楽。伴奏にある、離れた配置の和音が心地よく響く。調性で書くことを選び取った作曲家の本領発揮といったところだ。合唱作品の形式感がより強い〈おんがく〉は、純粋無垢で無邪気な心情そのもの。おかげでこのコンサートは和やかな空気に包まれたまま、終演をむかえることとなった。

最後になったが、懐古趣味に帰することなく、今の音楽として「日本歌曲」に取り組んだ演奏者二人に拍手を送りたい。

(2019/5/15)

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西村紗知(Sachi Nishimura)
鳥取県出身。2013年、東京学芸大学教育学部芸術スポーツ文化課程音楽専攻ピアノ科卒業。のち2016年、東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻美学研究領域修了。修士論文のテーマは、「1960年代を中心としたTh. W・アドルノの音楽美学研究」。研究発表実績に、「音楽作品の「力動性」と「静止性」をめぐるTh. W・アドルノの理論について —— A. ベルク《クラリネットとピアノのための四つの小品》を具体例に——」(第66回美学会全国大会若手研究者フォーラム)、「Th. W・アドルノ『新音楽の哲学』における時間概念の位相 音楽作品における経験と歴史に関して」(2014 年度 美学・藝術論研究会 研究発表会)がある。現在、音楽系の企画編集会社に勤務。