藤倉大 オペラ『アルマゲドンの夢』|齋藤俊夫
藤倉大 オペラ『アルマゲドンの夢』
FUJIKURA Dai Opera A Dream of Armageddon
2020年11月15日 新国立劇場
2020/11/15 New National Theatre Tokyo
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<スタッフ> →foreign language
台本:ハリー・ロス(H.G.ウェルズの同名小説による)
作曲:藤倉大
指揮:大野和士
演出:リディア・シュタイアー
美術:バルバラ・エーネス
衣裳:ウルズラ・クドルナ
照明:オラフ・フレーゼ
映像:クリストファー・コンデク
ドラマトゥルク:マウリス・レンハルト
合唱指揮:冨平恭平
児童ソリスト指導:米屋恵子
舞台監督:髙橋尚史
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
芸術監督:大野和士
<出演>
クーパー・ヒードン:ピーター・タンジッツ
フォートナム・ロスコー/ジョンソン・イーヴシャム:セス・カリコ
ベラ・ロッジア:ジェシカ・アゾーディ
インスペクター:加納悦子
歌手/冷笑者:望月哲也
兵士(ボーイソプラノ ソロ/交替出演):長峯佑典、原田倫太郎、関根佳都
音楽には、日常では見えない・聴こえないものを見える・聴こえるようにする力がある。だが、今回のオペラ『アルマゲドンの夢』では、〈我々〉が生きる〈アルマゲドン前夜〉の現実の闇、そして〈我々〉の現在の表象能力を超える〈来たるべきアルマゲドン〉の姿はついに現れることがなかった。
『アルマゲドンの夢』の粗筋を記述しよう。
電車内で、若い税理士フォートナムが見知らぬ男クーパーに、自分は夢と現実が入り混じり、夢の中で死んだのだと話しかけられる所から劇は始まる。するとクーパーの夢の中へと舞台が移り、クーパーは夢の中での妻ベラと新婚生活を送っている。この夢の新婚生活と現実の電車内が次第に混じり合う中で、フォートナムは「サークル」というファッショ集団を率いる独裁者ジョンソン・イーヴシャムとなり、クーパーとベラは彼らからの逃亡生活を送っていることがわかる。あくまで逃げ続けようとするクーパーだが、「サークル」の創始者の娘であるベラは、クーパーにイーヴシャムらと戦うよう促す。しかし戦争が始まり、ベラは銃殺され、クーパーもまた冒頭の電車の残骸のようなものの中で少年に撃たれ、倒れる。
本作で〈我々〉に最も近い登場人物は主人公クーパー・ヒードンとその妻ベラ・ロッジアであろう。台本作家のハリー・ロスは「今回の『アルマゲドンの夢』には”リベラルなエリート”に対する私自身の考えを込めています。私たち”リベラルなエリート”は、行動を起こさず、現実逃避をして生活している点で、迫りくるアルマゲドンに直接的な責任があるのではないでしょうか。」(パンフレット18頁より)と述べている。
それに対する〈権力者〉側にいるのがフォートナム・ロスコー=ジョンソン・イーヴシャム、民衆を扇動してイーヴシャムへの熱狂的な支持を集めるインスペクター(1)、ファッショ集団「サークル」だと考えられる。
この〈我々〉と〈権力者〉の表象において、本作品は現実に伍するものではなかった。
逃げるクーパー、戦おうとするベラたちと、現実の〈我々〉との落差は、現実を生きる〈我々〉が不可避的に抱いている〈無力感〉の有無に由来する。ベラは何度もクーパーにイーヴシャムらと戦うことを促すが、そのベラが具体的にどのように戦おうとしているのかは最後まで明らかにならない。逃げるクーパーが何を忌避し何を考えて逃げているのかもまた劇中ではっきりと示されない。さらに2人のラブシーンが度々脈絡なく挟まれたため、彼らの心情と状況の変化が筆者には把握できなかった。
イギリスと日本でどのような差があるのかは筆者にはわからないが、日本に住む〈我々〉を捕らえている〈無力感〉に対し、ベラの「戦え」という単語は空疎に響く。先述のハリー・ロスの言葉と合わせて考えるならば、クーパーは現実逃避をし続けており、演出のリディア・シュタイアーの「幸せであるが故の無知」(パンフレット17頁)に陥っていると考えられるが、〈我々〉は幸せでもなければ(まだ)無知でもなく、また逃避するにもその逃避先もなく、ただ破滅の予兆の前に立ち尽くしているというのが〈現実〉ではなかろうか。
〈権力者〉表象の古さは、独裁者(扇動政治家)、扇動者、ファッショ集団という3つの審級を隔絶したものとし、この3つが絡み合い繋がった現代の隠微・淫靡なファッショと暴力を捉えられていなかったことにつきる。確かに彼らはマスメディアや集団での示威行動といった、いわば生の大声の活動も盛んに行うが、インターネットが生活の中で必須となり、その中で独裁者、扇動家、ファッショ集団の構成員が繋がり合い、その誰もが権力と一体となり、集団的な暴力を、物理的には間接的だが、影響を及ぼすことにおいては直接的に振るうことができるようになった現代において、本作品の「サークル」集団の描き方は時代錯誤的と言わざるを得ない。あえて昔(ウェルズの原作は1901年)風のファッショ集団にした、とも考えられるが、それでは今現在の作品として片手落ちであろう。
この〈アルマゲドン前夜〉表象の浅さは、台本・演出・音楽が舞台上で目に見え、耳に聴こえる、〈具体的なもの〉――例えば独裁者の顔の映像、ファッショ集団の銃を持っての整列行進、おどろおどろしくも現代音楽のクリシェ的な音楽――だけで表現しようとしたところに由来すると筆者は考える。〈具体を超えた表現〉によって、現実世界の目・耳では捉えられないものを表現する、それがオペラやSFという表現形式の存在意義ではなかろうか。
〈来たるべきアルマゲドン〉表象においても上記と同じく、実際の、つまり既出の戦争の映像を映し、藤倉節と言えばそうとも言えるかもしれないが、従来の藤倉と変わらぬ語法の音楽を書いた時点で〈来たるべき〉未来の戦争の姿だけでなく現代の戦争の姿も表現することに失敗していた。
しかし、前奏曲の合唱と終曲の少年兵の歌の中の「わたしたちのアルマゲドン」という歌詞にはハッとさせられるものがあった。アルマゲドンは〈権力者〉側が欲望しているだけでなく、もしかすると〈我々〉もそれを期待しているのではないか、自分の現実世界での無力感が、現実世界をひっくり返すアルマゲドンへの期待にすり替わっていないか、と気づかされたのである。だが、作品内にそのような掘り下げも見当たらず、本作品がアルマゲドンという壮大かつアクチュアルな主題に拮抗できたとは思えなかった。
(1)扇動家が「インスペクター」と呼ばれる理由は明示されなかったが、日本語訳では「検閲官」が近いと思われる。独裁者の情報を検閲して操作する人物、つまり検閲官なのだと筆者は考えた。
(2020/12/15)
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<staff>
Libretto by Harry ROSS (after the short story “A Dream of Armageddon” by H.G.WELLS)
Composed by FUJIKURA Dai
Conductor: ONO Kazushi
Production: Lydia STEIER
Set Design: Barbara EHNES
Costume Design: Ursula KUDRNA
Lighting Design: Olaf FREESE
Video: Christopher KONDEK
Dramaturg: Maurice LENHARD
Chorus Master: TOMIHIRA Kyohei
Children Soloists Master: YONEYA Keiko
Chorus: New National Theatre Chorus
Orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra
Artistic Director: ONO Kazushi
<cast>
Cooper Hedon: Peter TANTSITS
Fortnum Rosco/ Hohnson Evesham: Seth CARICO
Bella Loggia: Jessica ASZODI
The Inspector: KANOH Etsuko
The Singer / The Cynic: MOCHIZUKI Tetsuya
The Soldier(Boy Soprano solo / in rotation): NAGAMINE Yusuke, HARADA Rintaro, SEKINE Keito