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ベアータ・ムジカ・トキエンシス 第15回公演 絢爛たるイタリア ~ヴェネツィア楽派の饗宴~」|大河内文恵

ベアータ・ムジカ・トキエンシス 第15回公演 絢爛たるイタリア ~ヴェネツィア楽派の饗宴~


2024年9月19日 豊洲シビックセンターホール
2024/9/19  Toyosu Civic Center Hall
Reviewed by 大河内文恵 (Fumie Okouchi)
Photos by 沢井まみ/写真提供:沢井まみ

<出演>         →foreign language
ベアータ・ムジカ・トキエンシス:
鏑木綾(ソプラノ)
長谷部千晶(ソプラノ)
及川豊(テノール)*
田尻健(テノール)
小笠原美敬(バス)

ゲスト・賛助出演:
鈴木美登里(ソプラノ)*
森川郁子(ソプラノ)*
宮下宣子(サクバット)
石原左近(サクバット)
直井紀和(サクバット)
長岡英(レクチャー)

*出演予定だった望月万里亜の代わりに鈴木美登里と森川郁子が賛助出演

<曲目>

ジョゼッフォ・ザルリーノ:私はどうしても涙してしまう
アドリアン・ヴィラールト:愛の神は僕を死へ追いやろうとするが
チプリアーノ・デ・ローレ:別れの時に
アンドレア・ガブリエーリ:バラのような乙女(器楽による演奏)
アンドレア&ジョヴァンニ・ガブリエーリ:高貴な血筋のつつましやかで落ち着いた命に
A.ガブリエーリ:バラ色の頬

~~休憩~~

A.ヴィラールト:あがない主を育てた母
C.デ・ローレ:神に向かって喜びの叫びをあげよ
G.ザルリーノ:おお、何と栄光ある
G.ガブリエーリ:私を憐れんでください、神よ
A.ガブリエーリ:神に向かって喜びの叫びをあげよ

~~アンコール~~

G.ガブリエーリ:正しき人よ、主によって喜び歌え(詩篇33編1-5)

 

ヴェネツィア楽派の饗宴とサブタイトルにあるように、ここ数年ベアータ・ムジカ・トキエンシスが取り上げてきた、ザルリーノやヴィラールトといった作曲家を一度に聴けた機会。ヴェネツィア楽派というと、アンドレア&ジョヴァンニの両ガブリエーリで済ませてしまいがちであるが、こうして彼らの音楽を並べて聞くと、共通点とともに、多様性が浮き彫りになった。

19日豊洲と21日新大久保の2回の演奏会が開催され、19日のほうを聴いた。今回降板となった望月の代わりにステージに上がったのが、19日は鈴木と森川、21日は鈴木のみだったということなので、21日はまた少し違った音楽が聴けたことだろう。

開演前と休憩後には恒例となった長岡のレクチャー。毎回新しい知見を得られる貴重な機会で、ヴェネツィア楽派の最大の特徴ともされるコーリ・スペッツァーティ(分割合唱)は聖マルコ大寺院のギリシャ十字の形に由来すると従来説明されてきたが、近年はその説は否定されており、おそらく聖歌を歌う時の交唱から来たものとされているという。

さて演奏に話を戻そう。前半はザルリーノ、ヴィラールト、デ・ローレ、アンドレアの世俗曲とアンドレアとジョヴァンニの共作を1曲。1曲目のザルリーノは対位法的にずっと進んでいくのだが、一瞬だけ揃う箇所があり、ハッとさせられた。ペトラルカによる世俗の詩に基づいているものの、宗教曲を思わせる響きとあいまって、歌詞の奥に込められた信仰の心を思わずにはいられない。

2曲目は鏑木と男声3人によるヴィラールトのマドリガーレ。1曲目もそうだが、あぁこれがベアータ・ムジカ・トキエンシスの響きだなぁと感じる。及川・田尻・小笠原による鉄壁な支えが、女声が一人であることによってさらに際立っていた。鈴木・長谷部・及川・小笠原による3曲目はデ・ローレ。出発という離れる状況と戻ってくるときの喜びという歌詞内容が、音がくっついたり離れたりといった音の動きと呼応しており、音程が自由に伸び縮みするさまが見事。音の動きというのは歌詞内容の心だけではなく、聴き手の心をも動かすのだなと実感した。

サクバット合奏による4曲目に続き、5曲目は前半がアンドレア、後半がガブリエーリによる作曲で二人の合作である。聞いていると、前半と後半とでがらっと雰囲気が変わる。そして後半の2節めでテンポが速くなり、歌詞も曲調も劇的になる。全部で5分にも満たない曲のなかに小さな演劇を1つ見たような充実感があった。

前半最後はアンドレアの作品。向かって左側に小笠原・及川・田尻・森川、右側に鈴木・長谷部・サクバットの3人という配置で、サクバットがテノールとバスを担当しているのが視覚からもわかる。この曲はニンファと愛による対話からなっており、それが左右のグループに振り分けられていて、最後の節だけは全員で演奏された。左右のやり取りから劇的要素が感じられ、後にオペラの主要都市となるヴェネツィアの源流を垣間見た気がした。

前半全体を通して、1曲1曲がすべて異なっており、それは編成や作曲家の違いだけでなく、曲のもつテクスチャーや曲の作りの違いでもある。ヴェネツィア楽派と一括りにしてしまうことはもはやできないと強く思った。

後半は女性たちが黒い上着を羽織って登場し、ここからは宗教曲なのだなと気を引き締める。1曲目のヴィラールトではサクバットの歌声の溶け込みかたが印象的だった。長岡のレクチャーで、サクバットが教会で使われたのは、(息を使わないことから不純だとされた弦楽器を除くと)倍音列に縛られずすべての音を出すことができるためと説明されたが、それだけではなく、人間の歌声との親和性もあったのではないかと思えた。2曲目はデ・ローレ。彼は聖マルコ寺院の楽長となるもうまくいかずに翌年には解任されたというが、この曲を聴く限り、宗教曲を書く才能がなかったからではないことは確かである。

2曲目の後、宮下によって、実演付きのサクバット講座が開かれた。楽器の歴史から実際に音を出しての説明は非常にわかりやすく、なるほどと思わせるものだった。今回はアルト、テノール、バスのサクバットが使われていたが、ソプラノの音を出したい場合にはツィンク(コルネット)が使われたという。たしかにツィンクも歌声との協和性が高い楽器であるから、やはり器楽っぽい響きが教会の中に入るのは良しとされなかったのだなと思った。

ここからの3曲はすべてサクバットが入った編成で、いずれも楽器の音と歌う声とが自然に混ざり合って、満たされた音空間を作り上げた。教会で使用される楽器というと、オルガンが思い浮かぶが、サクバットが入ることによって、ベアータ・ムジカ・トキエンシスがもつ音世界がさらに豊潤さを増した。次回は来年3月にベーバーの受難曲を演奏する予定だという。ビーバーでもヴェーバーでもなくベーバーですという宣伝文句をきいて、さらに楽しみになった。この団体は普段あまり取り上げられない作曲家あるいは作品を積極的に取り上げているがゆえに、集客に苦労しているようだが、丁寧に選曲をし、誠実に音楽を練り上げているその姿勢は、聴き手にも伝わる。落ち着かない世情や日々の憂いを忘れられるひとときを、 彼らの音楽でまた味わいたい。

(2024/10/15)

9月21日撮影

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<performers>
Beata Musica Tokiensis:
Aya KABURAKI soprano
Chiaki HASEBE soprano
Yutaka OIKAWA tenor
Takeshi TAJIRI tenor
Yoshitaka OGASAWARA bass

Guest
Midori SUZUKI soprano
Ikuko MORIKAWA soprano
Nobuko MIYASHITA sackbut
Sakon ISHIHARA sackbut
Norikazu ISHIHARA sackbut
Megumi NAGAOKA lecture

<program>

Gioseffo Zarlino: I’ vo piangendo I miei passata tempi
Adrian Willaert: Amor mi fa morire
Cipriano de Rore: Ancor che col partire
Andrea Gabrieli: La verginella
Andrea & Giovanni Gabrieli: In nobil sangue vita umile e queta
A. Gabrieli: A le guancie di rose

–intermission—

A. Willaert: Alma Redemptoris Mater
C, de Rore: Jubilate Deo
G. Zarlino: O quam gloriosum
G. Gabrieli: Miserere mei Deus
A. Gabrieli: Jubilate Deo

-encore—

Giovanni Gabrieli: Exultate justi in Domino