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Pick Up (2024/10/15)|齋藤秀雄先生没後50年メモリアル・コンサート|丘山万里子

齋藤秀雄先生没後50年メモリアル・コンサート〜小澤征爾さんへの哀悼とともに〜

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

 

齋藤秀雄(敬称略)は1923年21歳で近衛秀麿について渡独、クレンゲルにチェロを学び帰国、1930年に再び渡独、フォイアマンの教えを受けた。チェリスト・指揮者として活躍ののち、戦後の荒廃から1948年井口基成、吉田秀和らと「子供のための音楽教室」を創設、今日の桐朋学園大学の礎を築いた。ここから多くのスターが巣立って行ったのは周知のこと。当夜はその1期生だった小澤征爾への哀悼公演(本年2月逝去)ともなった。
齋藤の徹底厳格スパルタ指導はつとに有名だが、直接教えを受けた5期生秋山和慶の棒で桐朋オケの十八番モーツァルト『ディヴェルティメント』、チャイコフスキー『弦楽セレナード』を。7期生堤剛は公演冒頭、総勢12名の齋藤門下特別編成チェロ・アンサンブルでクレンゲル『賛歌op.57』を聴かせ、後半にドヴォルザーク『チェロ協奏曲』のソリストを務めた。指揮は29期生沼尻竜典。
見知ったチェリストの面々(山崎伸子、長谷川陽子、宮田大、古川展生ら)に続き、最後に出てきた堤がトップに座しての『賛歌』、極限ppppp…、どこからともなく響きあがってくるそのチェロの音声(おんじょう)は幽けく淡くぼうっとした虹の光となって広がり、その夢幻の繊細には本当に胸打たれた。筆者は卒業後、母校と関わることはなかったが、2008年2日間の「三善晃作品展」を企画・開催のおり、やはり特別編成オケのリハーサルに三善門下の作曲家が、ああ、桐朋の音だ…と感慨深げに言うのに、桐朋の音ってなんだろう、と思った。
が、この虹の響きに、これがそうか、と何だかわかった気分になったのであった。

いわゆる齋藤伝説を筆者は知らないし、桐朋の弦楽合奏団渡欧の際(小澤指揮)、当時ウィーンに居た筆者はそれを聴き、翌日だかに「お見事、一糸乱れぬ完璧な合奏ぶり。それで?」といった評が出たのを読み、「やっぱり」などと頷いたのである。この時、リハも見聞しており、小澤の後輩への的確かつフレンドリーさに、これも「やっぱり」(人気があるはず)と頷いたものだ。彼は客席の3歳の我が息子を目ざとく見つけ、君も音楽やるの?など頭を撫でてくれた。息子の記憶にはないけれども。
と、回想しつつ、だが虹の響きはウィーンのきっちり完璧とはぜんぜん違う、自ずから生じる光の束であって、響きが溶ける、というのはこういうことではないか、と思う。
そうして堤の、仏顔みたいな、音楽への敬意と仲間たち(弟子たち)への愛情に満ち満ちた眼差し、全員の堤への敬意と音楽への熱情に満ち満ちた眼差しが溶け合い生み出す至福の、まさに「賛歌」にただただ陶然としたのであった。とりわけ中央の宮田大が見上げ、堤が音の呼吸を伝えるその応答の姿には、ほとんど崇高と言えるほどの美しさが溢れる。
それは「桐朋の音」ではなく、個別を超えた人と音の織りなす真のうつくしさと思えた。

*   *   *

筆者は大学から桐朋、しかも専攻が音楽学、弦の学生とも接触はほぼないから齋藤がどれほどの人か全く知らずにいた。井口基成は演奏解釈という講義があり、それに1回出席したが、口をぱくぱくさせて弾くピアノ科学生に、「口じゃなく、ピアノで歌え!」と一喝するのに、おお、さすが、と思ったくらい(当時、ピアノスコアは井口版がメイン)。齋藤はこれもたぶん演奏解釈か演奏論で、やはり1回だけ出席のおり、交通機関の遅れで遅刻、シーンと静まり返った大教室にノコノコ入って行ったら、立っていた齋藤がサッと教室を出て行く。凍りつく空気のなか、慌てて後を追う学生に、何なんだ?とか思った。しばらくのち、教室に戻ってきた齋藤の講義はスコアをどう読み、音にするかについて理路整然、その分析と実演への方法論の確かさは、音楽学の小難しい抽象論よりずっと生き生きとしており、ものすごく新鮮だったのを覚えている。トーサイと呼ばれる彼の人がどんな人物であるか、自分が何をしでかしたかは助手で大学に残った2年間で知るのである。

齋藤の業績については、『齋藤秀雄・音楽と生涯〜心で歌え、心で歌え!!』(1985/民主音楽協会)にまとめられているが、当時学長だった三善晃の「《型》―認識の枠と情熱」の寄稿文からいくつか拾おう。音楽教育の持つ問題を的確に指摘し、かつ齋藤のなんたるかを説いているから。
上記、ウィーンでの評についての筆者の「やっぱり」は、齋藤の言葉「型に入れ、そして型から出よ」の前半、「型に入れ」止まりで終わるゆえの「お見事、それで?」だ。三善はその型入り方法を「習得すべき基本を古今の楽曲の実体の中から抽出し、分類し、系統立て、最も合理的な習得の方法論として整合させた」と述べるが、筆者が齋藤の講義に見聞したのもそれ。三善はこれを「経済科学や自然科学で用いられるシミュレーション」に似ており、だからこそ徹底的実践と習得が求められた、とする。指揮伴(指揮練習のためのピアノ演奏)という「便宜的方法を併用する齋藤指揮法で訓練された日本の若い指揮者の棒は、たしかにおしなべて精緻かつ器用である。が、小澤征爾氏も言うように“それだけ”の場合が少なくない。不器用な若い外国の指揮者が、指揮台の上に立っただけで感じとらせる、何をどのように表現したいのかというイメージの喚起力――直截な伝達力・音楽力とでも称ぶべきか――が希薄、ときには皆無なのである。」
「型止まり」問題はこれに尽きる。数々のコンクールでの日本人優勝者の実演が、「お見事、それで?」止まりであるのを筆者は痛感していた。
では、「型から出よ」とするには何が必要だったか?
三善はさらに齋藤が「型とはそこから出るために入るものであって、型に入っただけでは――はっきり言えば、そこから出られないものは――“芸術家とは称べない”と付言している」ことを指摘する。そうして、それは齋藤自身がその方法論の合理性を見切っていたことを意味すると。「その有効性の中にいる限り、芸術の自発的な実為には到達できないということである。それは、型の有効性を否定するものではなく、型たることの本質を正しく穿った認識である。」

では、どうしたら「出られるか」。それには触れず、三善は最後をこう締めくくっている。
「先生の像と生についてそのように述べるのは、先生に対するオマージュを、いま先生をとりまいている賞賛とはいささか異なったところで私が抱いているからである。私のオマージュは、時代が自分だけに与えている意味の重さをさとることのなかで、先生の内部の強烈な欲求と自負と克己が多様な落差をつくっていたに違いない、と思うことから捧げられる。先生固有の人懐っこさやアイロニーも、その落差から生まれていたのではないか。」

筆者は三善の「時代が自分だけに与えている意味の重さをさとる」に強く共感、それはあらゆる人に当てはまると考える。三善もまたそういう作曲家だったし、真の意味の芸術家とは、常にそれを悟り、そうあることの責を果たす。その意味で、齋藤の音楽教育の思考実践が戦後の高度成長と同期したのは「時代」への鋭敏なセンスに他ならないと思う。
だが一方で、「型に入り、型から出よ」が日本の伝統芸能の教えの真髄であり、師の芸は教わるのでなく「盗め」と言われることをも思う。
常に外来文化の流入咀嚼に追われてきた島国日本の位置、異文化受容におけるそれこそ「型に入り、型から出よ」は、いわば日本文化の伝統的王道でもあるということだ。
では伝統的王道に日本の何があるのか、はここでは触れない。
ただ三善の言う「落差」は、おそらく自分自身も抱えるものであったに違いないと思う。

*   *   *

あちこちを埋める満杯の同窓生たちの賑やかな輪の熱気にあって、筆者もまた幾分うわずりながら、一つの時代の幕が降りてゆくのを思う。
今、いや、パンデミック以降、「型止まり」の若手はほとんど見かけなくなった。
演奏の場を失った飢餓が音楽を教えた、とも言えよう。
そうして、12人の光の束、『賛歌』に、「出よ」の一つの応答、自ずから、を筆者は聴く。
何がどう、とは説明できないけれど、確かに、継いでゆく命、繋がれてゆく命があること。
それが、桐朋とか日本とかを超えた命であること。
この時、この場に集ったそれら全てが生む、やはり一つの奇跡としか言い得ないものを、筆者は心から愛おしく思う。

(2024/10/15)

――――――
齋藤秀雄先生没後50年メモリアル・コンサート〜小澤征爾さんへの哀悼とともに〜
2024年9月18日 サントリーホール

<出演>
指揮:秋山和慶/沼尻竜典
チェロ:堤剛 齋藤秀雄門下特別編成チェロ・アンサンブル
管弦楽:齋藤秀雄先生没後50年特別編成メモリアル・オーケストラ

<曲目>
クレンゲル:賛歌
W.A.モーツァルト:ディヴェルティメント K.136
チャイコフスキー:弦楽セレナーデ op.48
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 op.104