Menu

サントリーホールサマーフェスティバル2024 ザ・プロデューサー・シリーズ アーヴィン・アルディッティがひらく|齋藤俊夫

サントリーホールサマーフェスティバル2024 ザ・プロデューサー・シリーズ アーヴィン・アルディッティがひらく
Suntory Hall Summer Festival 2024 the Producer Series IRVINE ARDITTI

2024年8月22、25(15:00)(19:00)、29 サントリーホールブルーローズ、大ホール
2024/8/22,25(15:00)(19:00),29 Suntory Hall Blue Rose, Main Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 飯田耕治(22日、25日)池上直哉(29日)/写真提供:サントリーホール

♪8/22 サントリーホールブルーローズ 室内楽コンサート1
♪8/25 15:00 サントリーホールブルーローズ 室内楽コンサート2
♪8/25 19:00 サントリーホールブルーローズ 室内楽コンサート3
♪8/29 サントリーホール大ホール オーケストラ・プログラム

 

♪8/22 室内楽コンサート1

<演奏>        →foreign language
アルディッティ弦楽四重奏団
  Vn1:アーヴィン・アルディッティ、Vn2:アショット・サルキシャン
  Vla:ラルフ・エーラース、Vc:ルーカス・フェルス
ピアノ:北村朋幹(*)
<曲目>
武満徹:『ア・ウェイ・ア・ローン』弦楽四重奏のための(1980)
ジョナサン・ハーヴェイ:『弦楽四重奏曲第1番』(1977)
細川俊夫:『オレクシス』ピアノと弦楽四重奏のための(2023)(*)
ヘルムート・ラッヘンマン:弦楽四重奏曲第3番『グリド』(2000/01)

「ザ・プロデューサー・シリーズ、アーヴィン・アルディッティがひらく」はまず耽美的で頽廃的で死の匂いすら漂ってくる危険な武満徹『ア・ウェイ・ア・ローン』で始まった。ぞくぞくするような色気たっぷりだが、4人の音はソリッドでシャープ。武満の「音の河」の流れとたゆたいをバッサリと切断し過ぎな気もしないではないが、これまでの解釈とは異質なアーヴィンSQ〈らしい〉アプローチに今回のシリーズの期待値が上がる。

ジョナサン・ハーヴェイ『弦楽四重奏曲第1番』は無音と有音の境界線上を歩む不思議な音楽。無音に限りなく近い弱音のハーモニクスで始まり、徐々に徐々にクレッシェンドしてメロディ(だと思う)が開始される。無音と有音、単純さと複雑さ、淡々と激烈、といった相反する楽想を行き来する音楽的迷路の中でこちらの聴感覚が狂わされてくる。終わりそうでなかなか終わらないなあ、などと思っていたら全く前後の脈絡なく終わる。何を聴かされたのだろうか?と、迷子になってしまったような、だが楽しい聴後感。

細川俊夫『オレクシス』イントロ、弦楽器のarcoがうねる地平上に北村朋幹のピアノが静かに縦に音の杭を打ち立てる。上行、下行、クレッシェンド、デクレッシェンドを反復し、次第に狂熱の度合いを増していくのと同時に、零度のような仮死的とも感じられる楽想が奏でられる。孤独で枯れかじけた寂静たる風情と激烈で獰猛な熱気が入り乱れる。終盤は弦楽器が吹きすさぶ嵐を描く中、ピアノの強打がガン……ガン……と打ち鳴らされ、次第に熱気が収まって行き、かすれるほどの弱音で5人が上行して消えゆく。近年の細川は若い頃よりずっと恐ろしい音楽を書いている。

ラッヘンマン弦楽四重奏曲第3番『グリド』、始まりの4人の引きつった最高音域arcoで心がざらつく。そこから楽器のボディを擦る、コル・レーニョなどの特殊奏法による弱音の限界に挑むがごとき極度の緊張状態で会場全体が凍りつく。その弱音の限界の中に通常奏法の楽音が混ざると何故か異常な暴力的な感触を受けざるを得ない。グリッサンドを多用したarcoと様々な奏法が組み合わさってのアンサンブルの中にメロディのようなものが聴こえたような気がするが、それも定かではない。メロディはいつのまにか「ぎゅうううう……」という特殊奏法(駒の上か駒の向こう側を弾いていた?)に変化して、こちらを圧死せしめんとしてくる。重い、重くてたまらない。逃げたい、でも聴かないといけない。この求心力はなんだ? 何故このほぼ無音の会場で我らは耳をそばだてているのだ?ボディ擦りとコル・レーニョの超弱音から「キ!」とヴァイオリンが耳に痛い音を鳴らして了。凄すぎた。

♪8/25 室内楽コンサート2

<演奏>        →foreign language
アルディッティ弦楽四重奏団
<曲目>
エリオット・カーター:『弦楽四重奏曲第5番』(1995)
坂田直樹:『無限の河』弦楽四重奏のための(2024、世界初演、サントリーホール委嘱)
西村朗:弦楽四重奏曲第5番『シェーシャ』(2013)
ハリソン・バートウィッスル:弦楽四重奏曲『弦の木』(2007)

エリオット・カーター『弦楽四重奏曲第5番』ほぼ繋がって演奏される全12セクションは山あり谷ありの物語的構造を取っており、第1セクションで提示された断片がその後展開・変容されて構成されていると筆者は聴いた。だが断片が全体を成すようでいながらそれぞれが他を拒絶しあい、こちらの心が休まる時がない。ナニカの群れのように4人がワサワサと動き回るときの気味の悪さ、4人が慟哭するような痛切なフォルテなど、聴きどころ満載の贅沢な音楽であった。

坂田直樹『無限の河』、特殊奏法によるササクレだった噪音に始まり、その後もササクレが持続する。とんでもない手数のとんでもない書法の冴えは三善晃もかくやと思わせる。だが三善が持ち続けてきた情念、情熱、熱気といったものが全く感じられない。金属的、昆虫的とも言い得る感触。冷たい音楽だ。共感も、歓喜も、笑顔も、怒りも拒絶して、ただひたすらに音楽を純粋な音楽のままにしようとする非人間的とすら言い得る恐るべき意志によって書かれた音楽。尺八の響きを拠り所として書いたとプログラムノートには書いてあったが、その感触は筆者は持てなかった。だが、全く新しい音楽であったことは保証する。

冷たさの極限的坂田作品の後で南アジア的熱風をまとって現れたのは西村朗、弦楽四重奏曲第5番『シェーシャ』である。4人がうねり、粘り、捻じれ、悶え、酔い、歌い、狂い、絡まり合い、恍惚とした表情で昇天へと進む。西村グリッサンド、西村トレモロ、西村ヘテロフォニーによる濃密にして濃厚な愛の歌。愛といっても西洋の脱肉化し観念的になったものではなく、東洋の肉体的な歓喜に満ちた愛。愛欲、かもしれない。音の粘りはやがて静かな光となって会場に充満し、静かな寂静に至って終曲する。プログラムにも書かれたアーヴィン・アルディッティの「このコンサートを西村朗の思い出に捧げる」の一文も含み、感無量の音楽であった。

ハリソン・バートウィッスル弦楽四重奏曲『弦の木』、これまでの万全の選曲に比して、この大作はアルディッティの力量と作品の内容において役不足(役者不足ではない)であった感は否めない。約30分間、物語的構造を持ち、手を変え品を変え色々な楽想や奏法が出てきたが、それらの骨法とも言うべきものがなく、うわついたまま何となく続いて終わってしまった。残念。

 

♪8/25 室内楽コンサート3

<演奏>        →foreign language
アルディッティ弦楽四重奏団
エレクトロニクス:有馬純寿(*)
ピアノ:北村朋幹(**)

<曲目>
ブライアン・ファーニホウ:『弦楽四重奏曲第3番』(1986~87)
ジェームズ・クラーク:『弦楽四重奏曲第5番』(2020)
ロジャー・レイノルズ:『アリアドネの糸』弦楽四重奏とコンピュータ生成の音響のための(1994)(*)
イルダ・パレデス:『ソブレ・ディアロゴス・アポクリフォス』ピアノ五重奏のための(2024、世界初演、サントリーホール委嘱)(**)
ヤニス・クセナキス:『テトラス』弦楽四重奏のための(1983)

ブライアン・ファーニホウ『弦楽四重奏曲第3番』、幽霊じみた、仄かな光で始まったと思ったら痙攣的な強音で斬り掛かってきたと思ったら鬱屈した楽想に引っ込み等々目まぐるしく変わる音楽の表情。音楽に運動性はあれども肉体性はない形而上学的音楽。しかし――いや、アルディッティによるファーニホウの場合は「やはり」と言うべきか――書法の精緻さは飛び抜けている。古典的とも言える構造(対位法に似た所も?)、モチーフ間の関係性、などもしっかり聴き取れ、さらにはベルク的情念や歌心すら感じられる。心がいくつものか細い蜘蛛の糸で絡め取られたような、心地よいのか悪いのかわからないがとにかくファーニホウ=アルディッティSQでなければありえない体験をした。

ジェームズ・クラーク『弦楽四重奏曲第5番』、「ギギギギギ……」という軋んだ音の特殊奏法が通常奏法のarcoと並行して奏でられ、さながら壊れたスピーカーから聴こえてくるサイレンの音のような音響を呈する。その壊れたスピーカー音が時折噴出したりよじれたりハーモニクスを伴ったり轟音となったりしつつも持続音のように最後までずっと続き、時が止まったかのような空間を形成する。息の音すら許されないような音楽であった。

ロジャー・レイノルズ、弦楽四重奏とコンピュータ生成の音響のための『アリアドネの糸』、これはいささかイージーゴーイングな作品であったと言わざるを得ない。弦楽パートにまず個性がない。コンピュータ音響が交じって少し珍奇な味わいを聴かせるも、コンピュータ音響も今となってはありがちなものとなってしまった表層的な珍しさにとどまり、深みがない。作曲された1994年には新しい音楽だったのかもしれないが、もはやその輝きは過去のものであろう。

イルダ・パレデス『ソブレ・ディアロゴス・アポクリフォス』、これは北村朋幹がアルディッティSQに勝ってしまったというか、作品自体の内でピアノが弦楽よりはるかに強い存在である。ファーニホウを目指したのかどうかは知らねども、なんとなくそれっぽい特殊奏法などまぶして複雑な書法で書かれているが、ただ複雑なだけで面白みがない。北村のピアノの音の輝きに救われたが、だったらいっそのことピアノ独奏曲にしてくれればよかったのになどと意地悪なことも考えてしまう。消化不良のまま終曲を迎えた。

今年のサマーフェスティバル、筆者の目的の一つであるヤニス・クセナキス『テトラス』、アーヴィンが嬉しそうな表情で軽々と最初の〈クセナキスグリッサンド〉(筆者の造語)を弾き、他3名もクセナキスグリッサンドで続く。上行、下行、上行、下行、クセナキスグリッサンドは動きを止めることなく続き、超高速痙攣アルペジオグリッサンドや超高速鋸歯階段状グリッサンドとでも言うべき奏法まで飛び出してくる。微細なものが巨大なものと二重写しになって現れるクセナキス世界の豊穣な「うた」――もちろんそこにはクセナキス的なメロディ感覚やハーモニー感覚やリズム感覚がある――を弦楽四重奏が謳う。なんと雄大で自由な音楽であることか。同音連奏からハーモニクスグリッサンドでの堂々の完結を聴き終えるとどっと拍手が沸き起こった。

♪8/29 オーケストラ・プログラム

<演奏>        →foreign language
指揮:ブラッド・ラブマン
東京都交響楽団
弦楽四重奏:アルディッティ弦楽四重奏団(*)
ソロ・ヴァイオリン:アーヴィン・アルディッティ(**)
<曲目>
細川俊夫:『フルス(河)~私はあなたに流れ込む河になる~』弦楽四重奏とオーケストラのための(2014)(*)
ヤニス・クセナキス:『トゥオラケムス』90人の奏者のための(1990)
ヤニス・クセナキス:『ドクス・オーク』ヴァイオリン独奏と89人の奏者のための(1991、日本初演)(**)
フィリップ・マヌリ:『メランコリア・フィグーレン』弦楽四重奏とオーケストラのための(2013、日本初演)(*)

細川俊夫『フルス(河)~私はあなたに流れ込む河になる~』、超弱音の弦楽器、鈴、ドラが3,4回反復で奏され、そこから弦楽四重奏が流れ込むかのように現れる。流れは渦を巻き、オーケストラもまた流れに合する。ずっと持続音的な音(プログラムノートによるとesの音らしい)が存在し続け、全てはそこから生まれ、そこに帰るかのように聴こえる。しかし驚くべきはその流れの変容の緊張感と生命力のダイナミズム。弦楽四重奏の言わばカデンツァ部分では4人が張り詰めた流れを生み出し、オーケストラもそれを広げていく。なんという迫力か。弦楽四重奏が最高音域に消え、オーケストラも急激に鎮まり、冒頭と同じ鈴の音で了。

クセナキスの古い友人であるToru Takemitsuの文字をギリシャ語風にしたアナグラムをタイトルに持つ『トゥオラケムス』、金管楽器のファンファーレ(?)で始まり、木管楽器→弦楽器→金管楽器と音の塊が移動していく。音の塊ながらベタベタした団子状になることがない。室内楽的楽想から金管のポリリズムを伴った謎のメロディが現れ、トゥッティの濃密なテクスチュアでのハーモニー(もちろんクセナキス的な)で了。これが3分間の音楽だったのか!?

クセナキス『ドクス・オーク』、始めから木管楽器の音が微分音で互いにずれながら軽快に現れる。そこにアルディッティのソロが粘っこく微分音で絡まり、やがてオーケストラも現れる。オーケストラの音がリゲティの『ヴォルミナ』や芥川也寸志『響』のパイプオルガンのような音響体を成している。微分音と倍音と差音のマジック? 宇宙的スケール、人間にあらざる存在の思考による音楽。どういう耳と頭を持っていたらこういう音楽・音響がコンポジションできるのだ? 室内楽の時もそうだったが、アルディッティはクセナキスをとても嬉しそうに輝くように奏でる。金管、木管、弦楽、オーケストラとアルディッティが対話する時の楽しそうな顔と音楽ったらない。カデンツァとそこにオーケストラが加わる部分はソリストとオーケストラが異星人の言語で語り合うような異形の舞台。だが実に美しいメロディを謳っている。最後は星の誕生のような壮大なスケールの音響体が作られ、圧巻のフィナーレを迎える。ブラボー!

このシリーズの最後を締めたフィリップ・マヌリ『メランコリア・フィグーレン』だが、これは役不足(役者不足ではない)と筆者には聴こえた。クセナキスより丁度30歳若い〈前衛〉作曲家マヌリによる〈前衛〉音楽は既にして〈前衛〉以後の化石的な何物かと化している。かつて〈前衛〉だったものの残滓を追ったクリシェの集合体から我々は何を聴けばよかったのだろうか。轟音、静謐、運動、静止、協和、不協和、通常奏法、特殊奏法、etc…etc…これらが束になっただけの〈前衛〉音楽を「前衛音楽」と筆者は呼びたくない。最後の最後に残念な音楽を聴いてしまった。

概して、アルディッティたちが喜色満面となればなるほど面白い作品が輝きを増すシリーズであった。細川、ラッヘンマン、坂田、西村、ファーニホウ、そしてクセナキスたちとの出会いはまさに一期一会の舞台だっただろう。ありがとう、アーヴィン・アルディッティ。

(2024/9/15)

—————————————
♪8/22 Chamber Concert 1
<Players>
Arditti Quartet
 1st Vn: Irvine Arditti, 2nd Vn: Ashot Sarkissjan, Vla: Ralf Ehlers, Vc: Lucas Fels
Piano: Tomoki Kiatamura(*)
<Pieces>
Toru Takemitsu: A Way a Lone for String Quartet
Jonathan Harvey: String Quartet No.1
Toshio Hosokawa: Oreksis for Piano and String Quartet(*)
Helmut Lachenmann: String Quartet No.3, “Grido”
♪8/25 15:00 Chamber Concert 2
<Players>
Arditti Quartet
<Pieces>
Elliott Carter: String Quartet No.5
Naoki Sakata: Infinite river for String Quartet
Akira Nishimura: String Quartet No.5 “Shesha”
Harrison Birtwistle: String Quartet No.3, “The Tree of Strings”

♪8/25 19:00 Chamber Concert 3
<Players>
Arditti Quartet
Electronics: Sumihisa Arima(*)
Piano: Tomoki Kitamura(**)
<Pieces>
Brian Ferneyhough: String Quartet No.3
James Clarke: String Quartet No.5
Roger Reynolds: Ariadne’s Thread for String Quartet and Computer Synthesized Sound(*)
Hilda Paredes: Sobre Diálogos Apócrifos for Piano Quintet
Iannis Xenakis: Tetras for String Quartet

♪Orchestra Program
<Players>
Conductor: Brad Lubman
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra
String Quartet: Arditti Quartet (*)
Violin Solo: Irvine Arditti (**)
<Pieces>
Toshio Hosokawa: Fluss – Ich Wollt’, ich wäre ein Fluss und Du das Meer – for String Quartet and Orchestra (*)
Iannis Xenakis: Tuorakemusu for 90 Musicians
Iannis Xenakis: Dox- Orkh for Violin Solo and 89 Musicians (**)
Philippe Manoury: Melencolia – Figuren for String Quartet and Orchestra (*)