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湯浅譲二95歳の肖像 室内楽作品を中心に|齋藤俊夫

湯浅譲二95歳の肖像 室内楽作品を中心に

2024年8月7日 豊洲シビックセンターホール
2024/8/7 Toyosu civic center hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:石塚潤一

<曲目・演奏>
(すべて湯浅譲二作曲)
ピアノ四重奏曲『トライアル』(2012)
  Vn:石上真由子、Vla:田原綾子、Vc:山澤慧、Pf:大瀧拓哉
『弦楽四重奏のためのプロジェクションII』(1996)
  Vn:成田達輝、Vn:石上真由子、Vla:田原綾子、Vc:山澤慧
『ホルン・ローカス』(2014)
  Hrn:庄司雄大
『芭蕉の俳句による四つの心象風景』(2007)
  Vn:成田達輝、Pf:大瀧拓哉
『弦楽四重奏のためのプロジェクション』(1970)
  Vn:成田達輝、Vn:石上真由子、Vla:田原綾子、Vc:山澤慧
『おやすみなさい』(詞・長田弘)(2013)
  Sp:松原みなみ、Pf:高橋アキ
『内触覚的宇宙II トランスフィギュレーション』(1986)
  Pf:高橋アキ
『領域 Territoty』(1974)
  Fl:内山貴博、Cl:東紗衣、Mb:悪原至、Perc:安藤巴、Cb:長坂美玖、Cond:石川征太郎

 

8月7日の夜は酷い雷雨の日だった。豊洲シビックセンターホールのガラス壁からは稲光が絶えず閃き、しばしば雷鳴も耳にした。夏目漱石の「自然は公平で冷酷な敵である、社会は不正で人情のある敵である」の言葉など思い出し、さて、音楽とは自然と社会とどちらに属するのだろう、湯浅譲二氏が亡くなられたのは自然の公平で冷酷な摂理ゆえであろうかなどと思ううちに演奏会は始まった。

ピアノ四重奏曲『トライアル』、トレモロとグリッサンドの両用で弦楽器が上下動している中にピアノの一打一打が垂直に音を突き立てて好対照をなす。弦楽器がゆったりと長い音価で奏でる表現主義的な場面はベルクすら想起させるが、終始冷たく、悲劇的な表情。この容易に人を寄せ付けない感触は湯浅の電子音楽と相同だ。

『弦楽四重奏のためのプロジェクションII』、第1ヴァイオリン→第2ヴァイオリン→ヴィオラ→チェロと楽器の駒に近い部分を擦りかつハーモニクスらしき奏法を手渡して始まり、そこからグリッサンドがうねりまくり決して定常状態にならない湯浅ならではの「音響エネルギー」の運動体が現れる。厳しい!実に厳しい!硬く、冷たく、触れなば斬れなむ音で4人が蛇のように絡み合い、競い合い、傷つけ合う。いや、高みに昇りゆくのか?凄まじい音の嵐の後、駒寄りのハーモニクスのグリッサンドで了。

『ホルン・ローカス』、音を割る奏法、重音奏法、ハンドミュート、声を出しながら吹く、などの奏法を駆使しつつ、峻厳だが朗々と、音楽の喜びに満ちたホルンの音響が会場に鳴り響く。

『芭蕉の句による四つの心象風景』、ヴァイオリン独奏とピアノ独奏が受け渡されつつ進行する、その受け渡しの部分に凄絶な魂振りが宿る「春」、悲劇的なダイナミズムの魂振りと無常観漂う枯れた音響に2人が振れる「夏」、幾何学的な楽想から、悲劇を憐れみ、何かに憤るような、しかし寂寥感に満ちた楽想に至る「秋」、ピアノの弦を手で抑えての鍵盤の連打からヴァイオリンのハーモニクスに始まり、寒く、寂しく、どこまでも孤独なまま終わる「冬」。ある種マンネリズムを恐れない、どこを切っても湯浅譲二の音楽を聴くことができた。

『弦楽四重奏のためのプロジェクション』、「ギ」「グ」「ゲ」と軋んだ音で4人が点描する中にトレモロやロングトーン(ただしグリッサンドがかかる)などが混じり、次第に点描の密度が濃くなり、奏法も多彩に、音域も広がり、かすれとうねりが共存し、湯浅の音響エネルギーが膨満していく。濁るようで澄んだ音が天上から降り注ぐように、あるいは会場を駆け巡るように現前し、息もできなくなるが確かに喜ばしい音楽。弦を上下に擦りつつの超高音域のハーモニクスの軋んだ音で、了。

それまでの硬質な音響世界から一転しての、東日本大震災後「2013年音楽祭・福島」のために書かれた『おやすみなさい』は温かく人情に溢れた歌曲。「おやすみなさい 森の木々 おやすみなさい 青い闇 おやすみなさい たましいたち」とリフレインされるが、そのセンテンスごとに少しずつ音型が変容していく。始まりから「おやすみなさい 悲しみを知る人」までは短調、その後の「おやすみなさい 子どもたち」から終わりまでは長調。湯浅自身が我々にこの歌を贈ってくれたような、歌ってくれた気すらする。

『内触覚的宇宙II トランスフィギュレーション』、打鍵ごとの音の結晶的硬さで、ピアノの中でハンマーが金属弦を叩いているその物質性を思い知らされ、かつ恍惚と澄んだ感覚を呼び起こす。だが一打一打が音楽的に繋がっているのに、人間的には疎外されている。なんと孤独な音楽であろうか。いや、湯浅の音楽は常に孤独がつきまとってはいなかったか? 寂しい。実に寂しい宇宙だ。

『領域 Territory』、マリンバが演奏の中軸となっているのだが、コントラバスがボディをマレットで叩き、ヴィブラフォンを弓奏するなどの音色の妙によって、5人が音で光を生むと同時に影をも合奏によって現前させ、光即影とでも言い得る、不可思議というよりもはや恐怖すら感じさせる〈領域〉を創り出す。仏教で言う「相即相入」のように多が一と、一が多と一体となるのではなく、5人が一体となりつつも反発しあい、決して一にならない5人の〈合奏〉、これは凄いものを聴かせてもらった。

音楽は自然と呼ぶには温かすぎるし、社会と呼ぶには冷たすぎる。だがまた、その音楽を人間的と呼ぶには湯浅の音楽は厳しすぎる。自然でもなく、社会でもなく、人間でもなく、音楽が音楽以外の何ものでもない、その音楽を聴く喜びを噛みしめられた。ありがとう、おやすみなさい、湯浅先生。

(2024/9/15)