Books|わが友、シューベルト|柿木伸之
2023年2月25日刊
アルテスパブリッシング
定価6000円
Text by: 柿木伸之 (Nobuyuki Kakigi)
シューベルトのミサ曲第2番の「キリエ」では、聴く者を包むように柔らかく流れる歌に続き、憐れみたまえと希(こいねが)う切々とした祈りがソプラノの声で浮かび上がる。こうして始まるト長調のミサ曲(1815年初演/D167)に、早くから親しみを覚えてきた。ある機会にその「クレド」の章の楽譜を目にしたとき、カトリックの影響の強い環境で哲学を学んだ者としては、特別な感慨を抱かざるをえなかった。そこには、「一つの聖なる普遍(カトリカ)の/使徒伝来の教会」を信じるという信仰告白の一節が記されていなかった。
作曲者が18歳の時に書いたこのミサ曲だけではない。その前の年に書かれた最初のミサ曲(D105)から、死の年に書かれた変ホ長調の最後のミサ曲(D950)に至るまで、この一節には一度も音楽が吹き込まれたことがない。では、なぜシューベルトは三位一体の教義を確かめるうえで欠かせないはずの言葉を、彼のミサ曲に取り入れなかったのだろう。堀朋平の近著『わが友、シューベルト』は、避けられてきたとも言えるこの問題に正面から向き合いながら、その根に、作曲家が同時代人とともに抱えていた虚無の影を見て取っている。
この虚無は当時、著者によると、カントの『純粋理性批判』(初版は1781年)が突きつけていた現象の世界の必然性と、倫理的な自由の断絶として口を開けていた。キリスト教の求心力が弱まり、1806年には神聖ローマ帝国が解体し去った後の世界に生きる者にとって、一面で自然現象の一つでしかない個々人の生に、自由でかけがえのない人格のそれとして意味を与えてくれる軸はもはやなかった。この神のいない世界で、それでもなお自由であるためには、自然の生を賭けて道徳に生きるほかはない。そして、このことは悲劇でしか描けない。
悲劇こそ、主人公の死によって自然界の必然性に対する人間の勝利を、そして人間の自由を、美的現象として証し立てる芸術なのだ。そうした悲劇の思想が影響力を強めつつある時代に芸術への関心を深めたシューベルトは、友人たちとの交流を深めながらその音楽の領野を開拓していく。『わが友、シューベルト』において特徴的なことの一つは、その過程が当時の「サークル活動」──作曲家はサークルの一つ「ナンセンス協会/狂騒クラブ」に属していたようだ──との接点とともに生き生きと描き出されていることである。
こうして周囲に生まれた共同性に、シューベルトは「教会」に代わるものを見ていたのだろうか。彼はそのなかから、シラーらの悲劇とは異なった性格を示す音楽劇を生み出すことになる。とりわけクーペルヴィーザーとの交友からは、歌劇《フィエラブラス》が生まれた。本書は、シューベルトが完成させた最後のオペラの成立過程に光を当て、作曲と並行して台本の改訂が進められたことを明らかにしている。それによって、宗教を越えた和解に終わるこの作品が、現代のオペラの協働の産物としての姿を先取りしていることも示唆される。
その主人公フィエラブラス──フランク王国の捕虜になったムーア人の王子である──が怒りの震源としてドラマを動かしながら、やがて若者たちの恋愛関係を媒介する役目を帯びる一方で、カール大帝の娘エンマが狂気の闇に沈んでいくことをシューベルトの音楽から浮き彫りにする議論も興味深い。それは、神が去った世界に求められる宥和と、それを媒介する精神──シューベルトが関わった「サークル」における友愛が目指したのはこれだろう──の姿とともに、このような世界にこそ浮かび上がる人間の深淵も指し示している。
著者は、この深淵をライプニッツが語った「魂の根底」と結びつけながら、そこにうごめく力──それが主体の能力に対置されるかたちで論じられてきたヘルダー以来の隠れた系譜を描くのが、クリストフ・メンケの『力──美的人間学の根本概念』(杉山卓史他訳、人文書院、2022年)である──が作曲家を衝き動かしていたことにも向き合っている。ただし、これを「霊感」のようなものに還元することはない。意識の統御を逃れていく次元に開かれながら紡ぎ出されたシューベルトの音楽そのものの特徴を解明しようとするのだ。
その導きの糸になるのは、彼のソナタ形式における副次主題の独特な重みと、その絶えざる回想である。彼の音楽は主要主題から導き出されるのではなく、むしろ副次主題から織りなされていくという。しかもそれによって、ベートーヴェン的な、素材を従属的に展開させながら前進するソナタとは別の、素材の並列的な変奏によって歌を絶えず反響させていくソナタの姿が浮かび上がる。このことを著者は、最後の長大なト長調の弦楽四重奏曲(D887)や、同じ調の「幻想」ピアノ・ソナタ(D894)などを例に鮮やかに示している。
とりわけ後者の冒頭の楽章には、時が歩みを止めてしまったかのように感じさせる瞬間があるが、このような音楽における時間の消滅が主要主題の溶解と一つになっていることを示した弦楽五重奏曲(D956)の分析は、本書の白眉と言えよう。副次主題の変奏が主要な役割を果たす第一楽章に続くアダージョの第二楽章では、もはや主旋律のありかも定かではないが、それもまた先行楽章の副次主題の変奏であるという。内なる他者からの歌の喜びが時を止める。しかし、ここにある音楽の進行が、そのまま狂気の噴出に反転するのである。
シューベルトが書いた旋律のなかでもとくに魅力を感じていた弦楽五重奏曲の冒頭楽章の副次主題に、これほどまで重要な意味があることに、本書の議論をつうじて初めて眼が開かれた。そして副次主題の変奏こそ、彼の音楽そのものの、その歌による組成のアレゴリーであると同時に、そこにある素材のアレゴリー的とも言える脱中心的な変転を指し示しているのだ。著者は、そこに神が不在の世界における音楽の特徴も見て取っている。それはカントが突きつけた世界の亀裂を抱え込みながら、副次主題という歌を不断に回想し続ける。
このことのうちに精神分析で言われる反復強迫があることも、著者は見逃していない。シューベルトは、傷を抱えた自身の影に付きまとわれているのだ。この不気味なものは死を指し示している。そのことをも作曲家は響かせる。このような音楽の突き詰められた姿を示すのが、歌曲集《白鳥の歌》(D957/965a)の「ドッペルゲンガー」であることはつとに言われてきたが、本書の議論は、そこにあるハイネの言葉遣いと音楽の展開の緊密な結びつきを解き明かすことによって、そこにある亡霊との和解への歩みにも光を当てている。
こうして死と向き合いながら、シューベルトは愛することを止めなかった。自然を、そして友人たちを。そして、愛を満たし、異なったものを結びつけていくものに、もはや「教会」を信じられなくなった──ミサ曲における典礼文の削除は、まずはこのことを暗示していよう──時代における信の場所を見いだしていたのだろうか。いや、その場所を作曲家は、みずから音楽のうちに切り開こうとしていた。著者が序章で語る一つの「宇宙」として。本書は、そこへ向かう人間の器用とは言えない歩みにも光を当てている。
ミサ曲第2番の「アニュス・デイ」における憐れみを渇望するソプラノの歌は、歌曲集《冬の旅》(D911)の「勇気」に至って、自分が神になるのだという瀆神的な叫びに変わるのかもしれない。とはいえ、そこにある音楽の身ぶりはどこか憎めない。これを響かせる作曲家の生きざまを同時代の風景──それを描く図版はいずれも興味深い──のなかに浮かび上がらせ、その音楽の美を解き明かす本書は、思考の軸が失われ、闇に包まれつつある時代をともに歩む友として、シューベルトを新たに、そして実に魅力的に紹介してくれる。
(2023/7/15)