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横地美穂写真展 椰子の実Ⅲ|言水ヘリオ

横地美穂写真展 椰子の実Ⅲ

Text by 言水ヘリオ(Kotomiz Helio)

 

電車でおよそ一時間半。展覧会を見に行った。展示するとか、展覧会を開くとかって何だ、と考えてしまった。都内に戻ってきて、そうしたらまだ夕方だった。もやもやとした気持ちは車中の読書でほぼ解消されていた。さて、どこかに寄ってみようか。以前、知人からおすすめの展覧会として案内状を手渡された写真展のことを思い出し、行ってみることにした。

会場内には、展示に関するテクストや、個々の写真がどこで撮られたものかなどの解説はなかった。あったけど見逃しただけなのかもしれない。銀縁のフレームにマットを切っておさめられた横位置のモノクロ写真。写っているのは、そこに海のあることがわかる景色や、海の近辺ではないかと想像できるような風景。そして、そこに人々、人、がいる。人々や人は、被写体になることなど予期していなかった、あるいは気づいてさえいない、そんなようすに見える。

 

 

海と陸地。それらの境界は常にゆらいでいる。波と呼んでいる海水の動き。風景と呼んでいる生命体の活動と痕跡と大気。空は光を放散してときに暗く、海もそれを反映している。風が吹きつける。船に乗り込む人々の行く先。町角。

会場に、『椰子の実』というタイトルの写真集が何冊か積まれていた。一番上には一冊の見本。この展示のタイトルは「椰子の実Ⅲ」であり、のちに調べると2018年に「椰子の実Ⅰ」、2019年に「椰子の実Ⅱ」が開催されている。それらの展示で発表した作品をまとめた写真集なのだろう。ギャラリーという一つの際で、手にして開いたこの本に、いま見たばかりの写真が重なる。途中までページを繰って閉じ、元の場所に置いた。この本はじぶんのじかんのながれでゆっくり読みたい。そう感じた。だが手持ちがなく、その日はそのまま帰った。ちょうど、海へ行きたいという気持ちを抱いていた時期でもあり、その後もこの写真集のことがずっと頭に残っていた。やしの実が一つ、会場に置かれていたことには帰宅してから気がついた。

七日ほどたってから、同ギャラリーで写真集を購入する。二日後、部屋で本の扉を開く。遠くに大型船を望む一面の海。丸みをおびた岩場には、流木に見えるものが雑然と転がり、あるいは突き刺さっている。静かに立つ女、追いかけっこでもしているように移動する髪の長い二人の子、海を眺める男。四人の見知らぬ人が偶然ここに集まっているのだろうか。それともこれらの人々は家族なのであろうか。広い空には空しかない。そんな一枚の写真。撮影地は、愛知県の渥美半島、伊良湖岬とある。

次のページ、次のページと、ゆっくりページをめくりながら、眠ってしまった。目を覚ますと、飲みかけのコーヒー牛乳が汗をかいていた。1ページ戻って、終わりまでめくっていく。彼方に運行している船を、見えなくなるまで見ていようと試みるが、いつまでも消えない。だから本を閉じ、片手で持って重さを感じて、枕の上にそっとほうった。どこかの島に行きたくなった。いくつかの土地の写真を見たという記憶は、すでにじぶんの現実に沈殿している。その現実は、モノクロで静止している。

 

 

海と陸地の際で、ことが泡だつように起こっている。目の前に広がる光景をながめる。物陰から垣間見える気配を感じる。営み、憩い、旅。視界の向こう側。写真機を使おうという人が、このような土地でたまたま出くわした人々、人と通り過ぎて、写真が残る。

海辺の町に来た。島への船を待つあいだ、どこかで食事でもしようと思う。できればカレーライスのある店がいいのだが。いくら歩いても、誰かとすれ違っても、次の瞬間にはもう角を曲がっている。いつまでたっても店はみつからず、戻ろうにも来た道は消えている。波の音も聞こえない。船はもう出てしまっただろうか。あたりは暗く、もう動くことができない。するとそこは海だった。そのまま船を待つことにしたが、来る見込みがないことは知っていた。行き交う土地で、人が佇んでいる。

 

 

横地美穂写真展 椰子の実Ⅲ
ギャラリー蒼穹舎
2021年7月12日(月)〜7月25日(日)
https://yokochimiho.com
写真:©YOKOCHI Miho

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言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
1964年東京都生まれ。1998年から2007年まで、展覧会情報誌『etc.』を発行。1999年から2002年まで、音楽批評紙『ブリーズ』のレイアウトを担当。2010年から2011年、『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』の編集。現在は本をつくる作業の一過程である組版の仕事を主に、本づくりに携わりながら、『etc.』の発行再開にむけて準備中。