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私がものを書き始めたのは|自分史を振り返りながら|谷口昭弘

自分史を振り返りながら

Text & Photos by 谷口昭弘(Akihiro Taniguchi)

改めて音楽について何かを書こうと思い立ったのはいつの頃かと振り返ってみると、私の場合、意外と遅かったのだと思わされる。幼い頃から音楽教室で電子オルガンやピアノを習っていたし(グループで楽しくやっていたのに個人レッスンになってからが嫌でやめてしまった…)、中学・高校と吹奏楽でホルンは演奏していたものの、ただ技術を高めて楽譜とにらめっこして演奏することばかりを考えていた。中途半端に習っていたピアノも何となく弾いているという感じだった。大学学部は声楽専攻で、毎週のレッスンで歌ったり、サークルは学生オケに室内合唱団。もっぱら楽譜との付き合いだった。

音楽について言葉で書くことに多少なりとも興味を持ち始めたのは学部の西洋音楽史の授業だろう。私が本を全然読んでいない人間であったことは、当の担当教員にはバレていたが、音楽史の授業では学期末に、目の前で鳴った聴いた音楽を言葉にして書くという試験問題があり、そういうのが好きだったようで、成績はいつも上位だった。
次に音楽の文章というものに興味を持ったのは、1992 年の東京でマイケル・ティルソン・トーマスのロンドン交響楽団が演奏したマーラーの交響曲第9番に対する演奏評だった。「酔えないマーラー」という新聞の見出しだったように記憶しているが、当時はこれに猛烈な違和感を感じたのだった。「あんなに心に残るマーラーはなかったのに、何だこれは!」という憤りのようなものを感じ、自分なりに感じたことをまとめた評論らしきみたいものを書いた。しかも、もう卒業した大学の音楽史担当の教員に書き送って意見まで伺った。「こういうのをどこかの媒体に書ける機会があるといいね」という反応をその時にもらったような記憶がある。

ただ当時の自分の関心は、クラシック音楽の演奏ではなく1980年代後半に起こっていたミニマル・ミュージックだった。またクラシック音楽にしても興味の対象は「作品」であり、演奏評を主とする音楽評論というものに関心がなかったというのも正直なところだ。
多少評論というものに興味が出たのは、学部の4年間を過ごした新潟から大学院入学のために東京に出たことがあるだろう。
実は前述した音楽史担当の先生は新潟の新聞に演奏評を書いていたし、彼がアメリカに留学していた頃のプログラムにA-やB+ などの評点や感想をメモが書かれていた。それに感化された私は、上京すると小さなメモノートのようなものを買い、演奏会の感想などを書きなぐるようになった。ただ実際にこの作業をやってみると、評論というよりは聴いたものの記録になってしまう。現代音楽や日本の伝統音楽も聴いたが、舞台上で起こっていたことを、ただただメモしただけ。それらのノートはまだ実家に残っているものの、文字がそもそも判読不明だったり、読めたとしても、どうでもいいことばかり書いてある。世の中に存在する評論というものには遠く及ばないものだった。

その後、アメリカのクラシック音楽について知りたい欲求を満たすため米国フロリダの大学に入るが、大都市とは遠く離れた人口14万の町は、東京のような大文化都市とは全く異なり寂しいものだった。研究環境としては良かったが、世界レベルの演奏に出会うのは、ほぼ不可能といって良いだろう。私はここで、大きく気後れするのであった。
ただ1994年、アメリカ留学後にパソコンを買わねばならなくなり、それはやがて、日本の情報を得るためのパソコン通信へとつながった。初めは Nifty-Serve、そしてインターネットのfj (from Japan) というニュースグループに音楽関係のコミュニティがあり、クラシックや現代音楽の議論に参加することにもなった。どちらも活字媒体への仕事を紹介してもらう方と出会うきっかけになった。英語による毎日の生活の中で日本語に飢えていたということもあり、勉強や研究の合間に、現実に会ったことのない人と対話をする楽しみを覚えた。
さらに物を書きたいという気持ちの捌け口となったのが1990年代後半登場したワールドワイド・ウェブである。初めの頃は大学院生だけが使えるサービスだった。これによって誰でも簡便な操作で情報発信ができ、日本の情報も簡単に得られるようになった。そしてまだ当時は数少ない日本語の「ホームページ」を眺めるのが楽しみになった。そうすると次は個人のウェブサイトを作りたいという気持が芽生えてくる。当時日本語の音楽のウェブサイト自体が少ないこともあり、チャンスだと思ったのだった。また、誰にも制限されることなく、何でも自由に発信できる媒体というのは大きな魅力だった。
当時はアメリカにいたということもあり、自分が関心のあったアメリカのクラシック音楽を録音したCDやレコードを好き放題に書くサイト「音と音楽を考えるページ」というものを作った。基本はアメリカ音楽紹介であるのに我ながら仰々しい名前にしたものだと思ったが、私自身の関心が、単に情報発信だけでなく、日々音楽について考察する発想メモのようなものにしたいという願望もあり、ひどく曖昧なサイト名を考えたのだった。このサイトは2014年3月29日に「アメリカのクラシック音楽 etc.」というタイトルに変更し、現在も閉じないでおいている。いまでも時々、誰も読まないだろう・聴かないだろうCDやレコードについて、まれに更新を行っている。

活字媒体へのデビューは新潟時代の音楽史の先生に紹介してもらった『新潟日報』がデビューだが、おそらくそれ以外では、このメルキュールの編集長である丘山氏が編集をされていた『音楽批評紙Breeze』だろう。ただ書いていた内容は批評というよりは、フロリダ在住時の現地リポートのようなエッセイだった。この時のご縁がいまも続いているのは嬉しいところだ。将来留学の経験を活かした仕事ができないか、ということも考えていたこともあり、書かせていただいたことは光栄であった。この仕事もインターネットの fj グループで出会った方からの紹介だった。
前述の個人サイトから仕事につながった例というのもあった。それは2000年2月のNHK交響楽団のプログラム冊子の原稿だった。レナード・スラトキンがアメリカ物をまとめて指揮するものだった。個人サイトで好きなことを書きまくっていただけの自分に、いきなりメジャーなオケから仕事が入るというのは驚きだった。同時期には『音楽芸術』の後続雑誌として考えられた『ExMusica』(長木誠司氏編集)へもアメリカのレポートを書くことになった。

このように自分の執筆史を振り返ってみると、書き続けられる要因は自分の文章を読んでくれる人の存在だろう。そもそもの契機がインターネット上のバーチャルな対話だったり殴り書きの個人サイトだったりするが、書いたものに呼応してくれる人がいるおり、書くことの喜びを感じ、続けられたのが良かったのだと思う。
今のようにお金をもらう原稿も書くようになってしまうと、ネット上のグループのような即時の反応というものはなくなり、かつての興奮はなくなってはいるものの、いろんな方から執筆の声をかけていただくことに喜びを感じている。

(2020/10/15)