今峰由香 シューベルト最後のピアノ・ソナタ |能登原由美
2017年12月21日 ザ・フェニックスホール
Reviewed by 能登原由美 ( Yumi Notohara)
写真提供:Kojima Concert Management Co.,Ltd.
<演奏>
今峰由香(ピアノ)
<曲目>
シューベルト《ピアノ・ソナタ第20番イ長調D959》
シューベルト《ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D960》
〜〜〜アンコール〜〜〜
シューベルト《4つの即興曲Op. 90 D.899 No.3》
長い対話を見たような気がした。静かに、淡々と進む対話。けれども交わされる内容はこの上なく厳しい。題材はシューベルト最後の2つのピアノ・ソナタ。では、対話の相手はシューベルト?違う。ピアニスト自身だ。彼女が繰り出す音の向こうにもう一人の彼女がいる。安易な妥協を許さない自己との対話。一人の演奏家の孤独な内省。その果てに紡ぎ出される音楽の、なんと優しいことだろう。
今峰由香のピアノ・リサイタル。日本の大学で文学を専攻した後に名門ミュンヘン国立音楽大学に入学。若干32歳の若さで同大学ピアノ科教授に就任したという異色の経歴をもつ。要は、その音楽が本場ドイツでお墨付きを与えられ、15年を経た今もなおそうであるということ。そのことが、日本人ながらもドイツ的感性があるということなのか、ドイツ人にはないアジア的感性が評価されたということなのか、あるいはその属性とは関わりなくその音楽性が認められたということなのかはわからない。ただ、彼の地で日々絶え間なく積み重ねられてきたであろう、地道で孤独な作業がこの音楽を形作っていることは想像できる。その真摯な音楽に脱帽した。
まずは『第20番』のソナタ。冒頭の和音に意志の強さを感じさせる。ただし、その堅固な意志はこちらに向けられたものではなく、彼女自身に向けられていることに気づく。そうだ、彼女は自らと対話しているのだ。では、第2楽章の突き放したような冷徹さ、感傷を排した乾いた眼差しも彼女自身に対するものなのだろうか。だとすれば、あまりにも孤独すぎる。ただ、それがまさに彼女が今この瞬間に表出させようとしているシューベルトの最後の世界なのかもしれない。彼女自身がプログラムで語っているように、死と向き合うシューベルトの孤独な祈りの境地。
その分、第3楽章に入って見せた遊び心に俗っぽさを感じてホッとする。あるいは、和音やポリフォニックな動きにおける中声部の生かし方など、妙に現世的な気がして嬉しくなる。第4楽章に至っては、その朗らかな音の流れが空虚になっていた心をどれほど和ませてくれたことか。フレーズを丁寧に重ねながら終盤へと突き進む中、第2楽章で感じたような死への誘惑に駆られることはもはやない。
『第21番』のソナタ。いよいよ最後のソナタだ。ここで、彼女は音色をガラリと変えた。いや、変えたのではなく、結果的に音色が変わったというべきかもしれない。これが、彼女が描き出そうとしているシューベルトの世界なのだろう。20番で感じられたあの冷たさはもうどこにもない。時には固すぎると感じたほどの意志の強さももう見当たらない。全てが柔らかく、優しく包み込まれるかのようだ。それもそのはず。いずれの音も慈しむかのように、一つ一つの音に意味が与えられ、一つ一つの音に命が吹き込まれていく。今峰の描きだすシューベルト最後のソナタ。「最後」とはいえ、今目の前に広がる音楽には、終末というより新たな生の始まりといったニュアンスの方がふさわしい。
決して派手な演奏ではない。強いインパクトを与える身振りがあったわけでもない。けれどもこのように、一人の奏者の孤独な自己対話と、そこから一つの世界が紡ぎ出されていくのを目の当たりにする機会は、この後もそう多くはないだろう。
(2018/1/15)