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東京二期会オペラ劇場《蝶々夫人》| 岸野羽衣

東京二期会オペラ劇場《蝶々夫人》
Tokyo Nikikai Opera Theater 《Madama Butterfly》

2024年7月20日 東京文化会館
2024/7/20 Tokyo Bunka Kaikan
Reviewed by 岸野羽衣(Ui Kishino) :Guest
Photos by 寺司正彦/写真提供:公益財団法人東京二期会

〈キャスト・スタッフ〉            →foreign language
指揮 : ダン・エッティンガー
演出 : 宮本亞門

蝶々夫人 : 大村博美
スズキ : 花房英里子
ケート : 杉山由紀
ピンカートン : 城宏憲
シャープレス : 今井俊輔
ゴロー : 近藤圭
ヤマドリ : 杉浦隆大
ボンゾ : 金子宏
神官 : 大井哲也
青年 : Chion

管弦楽 : 東京フィルハーモニー交響楽団
合唱 : 二期会合唱団

衣裳:髙田賢三
装置:ボリス・クドルチカ
照明:喜多村 貴
映像:バルテック・マシス
美粧:柘植伊佐夫
合唱指揮:粂原裕介
演出助手:澤田康子
     彌六
舞台監督:飯田貴幸
公演監督:永井和子
公演監督補:大野徹也

 

1人の男をひたむきに待ち続ける典型的な日本の女と、それを踏みにじる放浪癖持ちの典型的なアメリカの男。まるでそれぞれの国の性質を擬人化したが如く究極的に対を成す1組の男女が垣根を取り払って愛し合い、結晶を産んだにも拘わらず、男は女を裏切り、女は死ぬ。女は男を呪って死んでいったのか。最期に彼女が叫んだのは我が子への愛であったので、真相は闇の中だが、今回の舞台によって浮かび上がったのは、息子による、両親への「赦し」である。

この昔話を相手取り、これまでに幾人もの演出家が解釈に挑んできたが、男の非情で身勝手な仕打ちによって、そのあまりにも甘美なるメロディーが誘う涙を観客の怒りが打ち消してしまう事例が多く、私自身もかつてその一端を担った1人であった。

宮本亞門演出による「蝶々夫人」においての最大の特徴は、成長した蝶々さんの息子の視点から物語が進行することだろう。舞台は誰もが思いを馳せたであろうオペラの後日談からスタートする。

幕が開くと老衰により余命わずかと思われるピンカートンが「お前の母親のことを話したい」と手紙を通じて成長した息子に訴えかける。病室で継母ケートが彼に送る視線の冷たさから、異国の血を引き、ケートの実の息子ではない彼にとってアメリカのピンカートンの家という空間が安息の地ではないことや、母からの愛に飢えていることが想像される。その「母」に関する手紙を彼が手にした瞬間、静止していた時間を突き破り、急き立てるように序曲が展開され、息子は母の半生の目撃者となるのだ。

時は数十年前に遡り、蝶々の「家」である小さな箱状の東屋の中でドラマは起こり続ける。彼女はそこで愛し愛され、喜び悲しみ死に至る。その空間の狭さは、叔父のボンゾやヤマドリ公などの、世間から見た彼女という存在の小ささを表現しているように思われた。

蝶々という女性は息子を持ったもののあまりにもその年齢が若く幼く、彼女が母として成熟するには3年という時間は短すぎた。言動もどこか子供じみていて、思い込みが激しい。その言葉回しの幼さはピンカートンの放浪癖と対比されるようだが、もはや狂気とも思えるほどの信念の強さを併せ持っているのだ。蝶々役である大村博美が劇中を通してワンピースを着用し、全てを賭けて日本人を逸脱しようとする様や、東屋の屋上でそのワンピースからむき出しになった脚を仁王立ちにして「ある晴れた日に」を絶唱する蝶々の姿は一種の野生美さえ見受けられる。ピアニシモから滲み出る果てしない「待つ」ことへの恐怖に必死に抗いながら、アメリカ人の妻として、そして母として歩もうとする彼女の今にも壊れそうな、絞り出すような強さを現したワンシーンであった。

物語終盤、ピンカートンの裏切りを受けて彼女は自刃する。これは彼女の敗北なのか。いや違う。物語が現在へと戻り、最期を迎えたピンカートンが叫んだのは蝶々の名だったのだ。優しく微笑む蝶々の亡霊に連れられて天へと昇るピンカートンの姿はゲーテ著『ファウスト』の、生前裏切ったヒロインの霊に救済されるタイトルロールを彷彿とさせる。つまり踏みにじられた女は、最後まで無償の愛を貫き通したと本演出は主張している。誰よりも日本人を逸脱したいと願った蝶々の超人的ともいえるひたむきな日本人らしさが具現化されてしまったのだ。

ピンカートンと蝶々にはそれぞれ罪がある。言わずもがなピンカートンは蝶々に対しての夫としての罪、そして蝶々には、多様性が認められぬ時代において、自らのエゴイズムで異国人の血を引く子供を世に産み落とし、守ってやらなければならない自分という存在を自らの手で消し去ってしまった母親としての罪がある。自刃のシーンで「かわいい坊や」と息子への愛を叫びながら死んでいく母親を見て、息子は物心ついてから得たことのなかった母からの愛が自分の中に存在していたことを確認する。彼の中で蝶々が赦されたのかは観客の解釈に委ねられる部分があるが、居心地の悪い人生を送ってきた彼が、確かに存在した母からの「無償の愛」によってこれからの人生を歩んでいくことが想像されるラストシーンであった。

赦しとは、これまで多くのオペラのテーマとして扱われてきた。アルマヴィーヴァ伯爵夫人もロザリンデも、愛する人を赦すことで世界は救われる。だがドン・ホセのように赦すことができなかった際にはその先で死が発生する。この作品においても死は起こったが、今回の舞台では死の先に長い時間をかけて全ての人が救済され、蝶々とピンカートンは神話となった。

私がどれだけこの物語に異議を唱えようとも、三人の間には、立ち入ることが許されない「無償の愛」という聖域が存在するのかもしれない。

(2024/8/15)

関連評:東京二期会オペラ劇場公演 プッチーニ:《蝶々夫人》|藤堂清

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岸野羽衣 (Ui Kishino)
2003年生まれ。20歳。兵庫県三田市出身。
神戸山手女子高校音楽科を経て、大阪音楽大学声楽専攻3年在学中。
名前の由来は羽衣伝説から。
趣味は温泉巡りと旅行。

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〈Cast&Staff〉
Conductor : Dan ETTINGER
Stage Director : Amon MIYAMOTO

Madama Butterfly : Hiromi OMURA
Suzuki : Eriko HANAFUSA
Kate Pinkerton : Yuki SUGIYAMA
B.F. Pinkerton : Hironori JO
Sharpless : Shunsuke IMAI
Goro : Kei KONDO
Il Principe Yamadori : Takahiro SUGIURA
Lo zio Bonzo : Hiroshi KANEKO
Il commissario Imperiale : Tetsuya OI
Young Man : Chion

Chorus : Nikikai Chorus Group
Orchestra : Tokyo Philharmonic Orchestra

Costume Designer:Kenzo TAKADA
Set Designer: Boris KUDLIČKA
Hair & Make-up Designer:Isao TSUGE
Lighting Designer:Takashi KITAMURA
Video Designer:Bartek MACIAS
Chorus Master:Yusuke KUMEHARA
Assistant Stage Directors:Yasuko SAWADA
Miroku
Stage Manager:Takayuki IIDA
Production Director:Kazuko NAGAI
Associate Production Director:Tetsuya ONO