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NDT – Kill me! Feel me! Dance me! |チコーニャ・クリスチアン

NDT 1 – Japan Tour 2024        →Italian Version
オランダで生まれ、国際的に活躍する伝説のNDT(ネザーランド・ダンス・シアター)が5年ぶりに来日
コンテンポラリーダンスの最前線を走るNDTは年間約10の新作を発表しているが、今回のプレミアム・ジャパン・ツアーでは、それぞれの振付家が手掛けた5作品から公演ごとに3作品が選ばれ上演される。

2024年7月13日 愛知県芸術劇場 大ホール
2024/7/13 Aichi Prefectural Art Theater
Text by Cristian Cicogna
Photos by 瀬戸秀美/写真提供:Dance Base Yokohama

 

第一部
ラ・ルータ / ガブリエラ・カリーソ
La Ruta by Gabriela Carrizo

演出: ガブリエラ・カリーソ
コラボレーター: クロエ・アルバレト、アレクサンダー・アンディソン、タリア・クリンブル、
セザール・ファリア・フェルナンデス、スコット・ファウラー、福士宙夢、ボストン・ギャラハー、チャーリー・スクイ、髙浦幸乃
アーティスティック・アシスタント: ルイ=クレメント・ダ・コスタ
音楽ドラマトゥルギー: ラファエレ・ラティーニ
音楽・作曲: ラファエレ・ラティーニ
ドミートリィ・ショスタコーヴィチ『交響曲11番(永遠の記憶 – アダージョ)』
レオポルド・ストコフスキー指揮、ヒューストン交響楽団
『交響曲14番ト短調(自殺者)』
照明: トム・ヴィッサー
美術: アンバー・ヴァンデンヘッケ
衣装: ガブリエラ・カリーソ、ヨランダ・クランプストラ、イザベル・ブロクランド
NDTリハーサル・ディレクター: フランチェスカ・カロティ
上演時間: 35’

真っ暗な舞台から少しずつ露わになるのは、どこかの国道沿いにぽつんとあるバス停。真夜中。黄色の二重線が舞台を斜めに横切っている。
La Rutaというのはスペイン語で「道」を意味するが、ここはおそらくアメリカ合衆国を横断する国道を指している。カリーソがアルゼンチン出身であることから、南米のどこかの国道かもしれない。その黄色の線は舞台を超え、ティエラ・デル・フエゴまで続きそうだ。
魔女が吐く呪縛のように濃霧が這って来る。スピードを出して走る車のヘッドライト、クラクションを鳴らす長距離トラックは、照明と音響だけで表現されているのに、目に浮かぶ。間隔の広い街灯が辛うじて道路を照らし、ものの輪郭を曖昧にする。
薄汚れたガラス張りのバス停の周りで幽霊のように様々な人物が突然現れ、何らかの形で絡み、ダンスを披露する。
関西弁で独り言ちる着物姿の女性に、槍でジャグリングをする怪しげな侍。
退屈なパーティーを逃れてきたような正体の分からない男。
車から乱暴に降ろされ置き去りにされた売春婦らしき若い女性。
近づくトラックの下に投身自殺する、レインコートの女性。

カリーソは2000年にダンスカンパニー ピーピング・トムを設立し、芸術監督を務めている。ユーモアと過酷なシーン、超人的な身体能力と奇想天外な物語の展開。これらがピーピング・トムの作品の特徴だが、私は昨年、兵庫県立芸術文化センターで上演された『マザー』を鑑賞した際に衝撃を受けた記憶がある。パフォーマンスはダンスなのか、演劇なのか、ストーリーは恐ろしい現実なのか、悪夢なのか、はっきりしない。敢えて観客を混乱させ、不安な気持ちにさせる複雑な作品だった。
『La Ruta』はそれと共通点が多い。演劇というよりは、タランティーノ監督の作品や80年代に盛んだったゾンビ映画を思わせる。
照明が弱く、登場人物も小道具も闇に浮いているように見えるのに、ダンサーたちの動きは迫力に満ち、抜群の存在感を見せている。
不安を引きおこす音楽と何かの機械が発する音、闇に呑み込まれた池から響く蛙の鳴き声、蚊取り器が出す耳障りな音、パトカーのサイレン。開けっ放しの冷蔵庫のように見える配電盤や点滅する街灯が登場人物のいや増す孤独を伝える。
車に引かれた山羊の周りに野次馬のように集まってきた何人かが死体から心臓を抉(えぐ)り出し、バスを待っている若い男を取り囲み、彼の心臓を取り替えるシーンから、『La Ruta』は完全にホラー映画の様相を帯びる。
本物と見紛(みまご)う白鳥がバス停のガラスに衝突し、血が鮮やかに滴(したた)る。作業員が感電死してしまい、次々とダンサーたちがゾンビに変身する。人間の男が一人だけ残るが、怪力で路傍の巨岩を持ち上げ、襲ってくるゾンビを一人ずつやっつける。骨が折れ関節がはずれる不快な音を立てながら、ゾンビが倒れて行くダンスはスローモーションで、見る者に息を呑む効果をもたらしている。
ハッピーエンドと思いきや、突然の稲光を合図に、リモコンの巻き戻しボタンが押されたかのようにダンサーたちが後ろ向きに走りながら退場してしまう。運命の時計の針が凄まじい速さで逆回りし、すべてのものが異次元へ連れて行かれたかのように。あるいは、悪魔の鉤爪(かぎづめ)に捕まえられ地獄に引きずりこまれたように。
最後は、バス停が消え、残った巨大な岩がお墓になる。夫婦らしい二人がお墓参りに来た様子で丁寧にお辞儀する。
もしかすると、『La Ruta』は、私がイメージしたように幽霊たちのダンスなのかもしれない。
辺りは真っ暗だ。夜明けまで時間はまだたっぷりある。

第二部
ソロ・エコー / クリスタル・パイト
Solo Echo by Crystal Pite

ステージング: エリック・ブシューヌ
音楽: ヨハネス・ブラームス『ホ短調 Op.38 よりアレグロ・ノン・トロッポ』、『ヘ長調 Op.99 よりアダージョ・アフェットゥオーソ』
エマニュエル・アックス & ヨーヨー・マ演奏
照明: トム・ヴィッサー
美術: ジェイ・ガワー・テイラー
衣装: クリスタル・パイト、ジョーク・ヴィッサー
NDTリハーサル・ディレクター: ルーカス・クランダル、エミリー・モルナー
上演時間: 20’

何もない黒い舞台。
ホライズン幕に黄金の雪がきらきらと降りしきるが、人形劇のように天井から実際に花弁も落ちてくるので、雪は桜の花吹雪にも見える。蛍の狂気のダンスにも、宇宙飛行士のフェイスプレートに映る星屑にも見える。
場所も季節も不明だが、無知と無限の合間に存在する世界だ。黒が主色である世界。しかし、その世界で黒は脅威ではなく、光の拒否でもない。『ソロ・エコー』の黒は必須の要素だ。肝心なことだけがくっきりと浮かび上がるキャンバスになり、エコーが優雅に広がってゆく空間になる。
ゆったりした黒いズボンに黒いチョッキを着たダンサーたちが登場し、クラシックバレエの名残を思わせる動きでブラームスのメランコリックなソナタを踊る。背景に舞う雪のように、舞台をあちらこちらと動き回る。
力強い動きが繊細な踊りに変わるのが不思議だとしか思えない。白く照らされ、古代ギリシアの彫像のように長い腕が華麗に回転し、和紙に詩句を走り書きする筆を連想させる。
ペアを組んで踊るパフォーマーはアーティスティックスイミングのように同じ動きを見せる。シンクロした動きにちょっとしたずれが加わると、手前に踊る人の身体が重複され、奥の方へ進んでいるように見える。まるで身体がヨーヨー・マの弾くチェロの弦にスライスされたかのように。

カリーソが救いのない孤独を客席まで投げ込んだと言えるなら、パイトの作品に登場する人間は、題名が示すとおり、まだ一人ぼっちだけれど、この「ソロ」は孤よりも個である。そして、エコーというのは音の反響(こだま)よりも存在の反響(こだま)であることが分かる。谷間に響くエコーの如く、個の輪が他者へ向かって広がってゆく。放った超音波の反応から、障害物を察知できる蝙蝠(こうもり)と同じだ。
後半はブラームスのピアノが導くリズムに合わせ、ダンスが更にダイナミックになり、アンサンブルの部分が増え、身体が触れ合う場面が多くなる。今度は明確にクラシックバレエという足枷(あしかせ)を捨て、自由を得た身体が完全に個の世界を離れてしまうのを抑えながら、慎重に相手の招きを確認し、自分を他者の世界とつなげる努力を見せる。

前に立つパフォーマーに後ろから腕を回して抱くようにし、ダンサー全員が舞台中央に結び目を作る。社会の輪を表現しているのだろうか。私には背骨となる椎骨の連鎖に見えるが。
空気が抜けていく風船のように一番前のダンサーが床にずり落ちる。そして、皆が一人ずつ抱擁を壊して消える。最後に残った一人だけが死んだように横たわる。雪が静かに降り続ける。
身体を支える背骨と同じく、人間は個と個が密につながらなければ、団結した社会が生まれてこない。椎骨はただの骨の山積みになるだけだ。

 

第三部
ワンフラットシング、リプロデュースト/ ウィリアム・フォーサイト
One Flat Thing, reproduced by William Forsythe

振付・美術・照明デザイン: ウィリアム・フォーサイト
ステージング: エイマン・ハーパー、アンデル・ザバラ、ティエリ・グイデルドーニ、
シリル・バルディ、アマンシオ・ゴンザレス
音楽・作曲: トム・ウィレムス
衣装デザイン: スティーヴン・ギャロウェイ
NDT リハーサル・ディレクター: フランチェスカ・カロティ、ルーカス・クランダル
上演時間: 15’

第三部は、カリスマの振付家ウィリアム・フォーサイトの代表作の一つで、ツアーの演目の中で唯一NDT創作ではない作品だ。そして、三つの中で最も抽象的で、迫力に溢れるダンスを披露した。
「テーブルダンス」という名称で知られるパフォーマンスを通じて、フォーサイトは観客を別世界へ連れて行く。色彩に富んだ、奇妙な世界へ。
明りが点いた途端に、会議で使われるような金属製の細長い机が20台、舞台奥から勢い良く引っ張られ、舞台前に4列に並べられる。ビジュアル・アートの分野にも進出しているフォーサイトにかかると、まるでインスタレーションだ。
個性の強い、鮮やかな衣装は1983年のエイドリアン・ライン監督の映画『フラッシュダンス』を思わせるが、パフォーマーたちが一旦、暗い舞台奥へ引っ込み、再び次から次へと登場し、限られたスペース(机の上、下、狭い通路)で踊る。
最初の印象は体操競技・平行棒の練習だったが、やがて繰り返される細かい動きが人間よりも昆虫の動きに見えて来る。
その一方で、トム・ウィレムスのアンビエントミュージックが空気にひっかき傷をつくり、無菌室を思わせるところもある。
「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。」
これはフランツ・カフカの『変身』の有名な冒頭だ。フォーサイトはダンサー全員をグレゴール・ザムザの気持ちにさせ、踊らせた。

しかし、この部屋は何だ? どこにあるのだ? 時間が止まっているようだ。
絶え間なく机に乗ったり、降りたり、机の上を滑ったりするダンサーたちの動きは完璧な嚙み合わせを見せた歯車のようだ。荒い息が聞こえる。机の脚が床を引っかき、ジョイントが軋(きし)む。壊れたアンプから漏れるような音は街の騒音か。記憶の誤りを脳が知らせようとしている音か。
机はベッド、跳躍台、棺、シェルター、サーフボード、檻、磁石、ばね。机が作る線に従って機械的に動く身体は、今度は二進法で表される数字に見える。合唱隊が歌う讃美歌の楽譜に並ぶ音符のようにも見える。
不自然なほどに身体をひねるパフォーマーたちが手で机に触れる度に、プラグインし、即座に充電したかのように、動きを加速させる。ビデオゲームのステージが次へ進むにつれ、スピードが上がるのと同じく、ダンサーの人数も増え、踊るリズムも速くなって行く。
限界を超える身体の可能性を探求したフォーサイト。『One Flat Thing, reproduced』はダンスの枠を破り、対称、緩急、均整と不均衡を材料に、運動学の実験や神経接合部を描いたアートだ。
最後は、無理な解釈を止め、ダンスの美しさに心を委ねることにする。
ダンサーたちは大きな掛け声を掛け、机を引っ張りながら真っ暗な舞台奥へと消えた。

(2024/8/15)

NDT – Kill me! Feel me! Dance me!

NDT 1 – Japan Tour 2024
La leggendaria compagnia olandese NDT (Nederlands Dans Theater), rinomata a livello internazionale, torna in Giappone dopo cinque anni.
Gruppo d’avanguardia sulla scena della danza contemporanea, NDT, che produce in media dieci nuovi spettacoli all’anno, in occasione della tournée giapponese presenta cinque opere di vari coreografi, in un trittico per ogni rappresentazione.

Parte prima
La Ruta di Gabriela Carrizo

Regia: Gabriela Carrizo
Creato in collaborazione con: Chloé Albaret, Alexander Andison, Thalia Crymble, César Faria Fernandes, Scott Fowler, Surimu Fukushi, Boston Gallacher, Charlie Skuy, Yukino Takaura
Assistente artistico: Louis-Clement da Costa
Drammaturgia musicale: Raphaëlle Latini
Musiche composte da: Raphaëlle Latini
Dmitri Shostakovich: Sinfonia n. 11 (Eternal Memory – Adagio) eseguite da Leopold Stokowski, Houston Symphony Orchestra, Sinfonia n. 14 in sol minore (La Suicidé)
Luci: Tom Visser
Scenografia: Amber Vandenhoeck
Costumi: Gabriela Carrizo, Yolanda Klompstra, Isabel Blokland
Regia delle prove per NDT: Francesca Caroti
Durata: 35’

Ciò che il buio svela poco a poco è un tratto di strada posato sul nulla e una desolata fermata della corriera. Notte fonda. Una doppia linea gialla taglia il palcoscenico in diagonale.
In spagnolo la parola ‘ruta’ significa sia strada che rotta, ma forse qui sta a indicare le mitiche statali che attraversano gli Stati Uniti d’America. Essendo Gabriela Carrizo argentina, potrebbe trattarsi di una strada in qualche Paese dell’America Latina, e allora immagino quella linea gialla andare oltre il palco e continuare fino alla Terra del Fuoco.
Una fitta nebbia arriva strisciando come l’incantesimo vomitato da una strega. Auto che sfrecciano a tutta velocità, il clacson di un camion a lunga percorrenza: pur essendo soltanto effetti di luci e suoni, è come averli davanti agli occhi. Radi lampioni illuminano a stento la strada, sfumando i contorni delle cose.
Intorno alla fermata dai vetri sporchi, compaiono vari personaggi, vaghi come fantasmi, il cui intrecciarsi genera il racconto e la danza.
Una ragazza in kimono che borbotta brevi frasi nel tipico dialetto di Osaka accompagna un improbabile samurai-giocoliere con una lancia che sembra animata.
Un uomo all’apparenza scappato da una festa troppo noiosa osserva spaesato una ragazza, forse una prostituta, scaricata da una macchina che riparte sgommando.
Un’altra ragazza, avvolta in un impermeabile beige, si lancia contro un camion in corsa.

Carrizo è anche cofondatrice e direttrice artistica della compagnia di danza Peeping Tom, nata nel 2000. Un mix di ironia e scene estreme, anche violente, un utilizzo del corpo con movimenti che spesso hanno del sovrumano e storie con risvolti noir e spiazzanti sono i punti di forza del Peeping Tom, che ho avuto modo di apprezzare l’anno scorso in occasione della rappresentazione di Moeder (madre) presso il teatro Hyogo Performing Arts Center di Nishinomiya. Spettacolo che ha messo in luce la caratteristica principale della compagnia, ossia quella di lasciare il dubbio se si tratti di danza o di teatro, di terribile realtà o di incubi. Ad ogni modo ossessioni che confondono e inquietano il pubblico.
La Ruta presenta molti punti di contatto con Moeder, ma più che al teatro forse si avvicina alle atmosfere di alcuni film di Quentin Tarantino, o ancor meglio al filone di pellicole di zombie tanto di moda negli anni Ottanta.
Luci soffuse ma mirate fanno quasi galleggiare nel buio personaggi e oggetti di scena, mentre i movimenti estremamente dinamici dei danzatori danno loro una presenza scenica davvero potente.
Indefiniti suoni meccanici che trasmettono ansia, il gracchiare di rane da uno stagno ingoiato dal buio subito a ridosso della strada, il fastidioso ronzio di una lampada elimina zanzare, le sirene delle pattuglie. Un quadro elettrico che ricorda un frigo lasciato aperto e la luce ballerina dei lampioni non fanno che aumentare la solitudine dei personaggi.
La carcassa di una capra evidentemente investita giace in mezzo alla strada. Dal momento in cui un esiguo capannello di curiosi danza estraendo il cuore dell’animale per innestarlo nel torace di un giovane in attesa della corriera, La Ruta diventa senza equivoci un film horror.
Un cigno molto realistico si schianta contro il vetro della fermata in una scia di sangue. Un operaio muore prendendo la scossa dal generatore e i danzatori si trasformano in zombie. Rimane solo un uomo che però, con una forza da supereroe, sradica una roccia dal ciglio della strada e lotta, abbattendoli uno a uno, i mostri che lo attaccano. Rumore da effetti sonori cinematografici di ossa fracassate, di cartilagini lacerate, in una danza al rallentatore di un’efficacia straordinaria.
Il pubblico tira il fiato per un auspicabile lieto fine, e invece un lampo azzurrognolo dà il via a una ritirata generale, in cui i danzatori escono di scena correndo all’indietro, come se qualcuno avesse premuto sul telecomando il tasto di avvolgimento veloce di una vecchia videocassetta VHS. La sensazione è quella di essere davanti al grande orologio del destino con le lancette impazzite a scorrere in senso antiorario che trasporta tutti in un’altra dimensione. Oppure che siano stati trascinati all’inferno dagli artigli del diavolo.
Anche la fermata è sparita, le rocce rimaste ora appaiono come le tombe di un cimitero buddhista. Una coppia che sembra venuta ad onorare i defunti fa un profondo inchino.
La Ruta, probabilmente, non è altro che una danza di autentici fantasmi.
Intorno, buio pesto. E manca ancora molto all’alba.

Parte seconda
Solo Echo di Crystal Pite

Allestimento: Eric Beauchesne
Musica: Johannes Brahms: Allegro Non Troppo da Op. 38 in mi minore, Adagio Affettuoso da Op. 99
in fa maggiore, Emanuel Ax e Yo-Yo Ma
Luci: Tom Visser
Scenografia: Jay Gower Taylor
Costumi: Crystal Pite, Joke Visser
Regia delle prove per NDT: Lucas Crandall, Emily Molnar
Durata: 20’

Foto: Hidemi Seto fornite da Dance Base Yokohama

Il palcoscenico spoglio e nero.
Sul fondale scende fitta una neve dorata, ma dal soffitto cadono anche petali veri, come nel bunraku, il tradizionale teatro delle marionette, per tanto la neve appare come la tipica pioggia primaverile di ciliegi. Danza di lucciole impazzite. O anche polvere di stelle riflessa sulla visiera di un astronauta.
Il luogo e la stagione sono indefinibili, ma è un mondo in bilico tra il nulla e l’infinito. Un mondo il cui colore dominante è il nero. Eppure è un nero che non indica minaccia, né negazione della luce. Il nero di Solo Echo è un elemento imprescindibile. La tela su cui risalta soltanto l’essenziale. Lo spazio su cui va ad espandersi l’eco.
I danzatori, tutti con comodi pantaloni e gilet neri, si muovono sulle tracce del balletto classico sopra una malinconica sinfonia di Brahms, coprendo il palcoscenico come i fiocchi di neve sullo sfondo.
Come fanno corpi così muscolari a convertire l’energia in una danza talmente delicata? La luce bianca dei fari scolpisce le braccia come nella scultura di una divinità mitologica e il loro roteare fa pensare a pennelli che frusciano sulla carta giapponese, trasformando l’inchiostro in versi di poesia.
Quando danzano in coppia, sembra la coreografia del nuoto sincronizzato. Ma se nella sincronia dei movimenti viene aggiunta una discrepanza, ecco che il corpo del performer sembra sdoppiarsi e proseguire il proprio moto verso il fondo del palcoscenico. Proprio come se fosse stato affettato dalle corde del violoncello di Yo-Yo Ma.

Se possiamo affermare che Carrizo abbia lanciato in platea una solitudine priva di salvezza, anche i personaggi di Crystal Pite, come suggerisce chiaramente il titolo, sono solitari, ma qui Solo indica, più che la mancanza di compagnia, l’individualità. E la parola Echo non è la ripetizione di un suono, ma la reiterazione di un’esistenza. Una voce silenziosa che urla ‘Sono qui!’. E come l’eco che rimbomba in una valle, i cerchi dell’io si allargano in direzione dell’altro. Un po’ come gli ultrasuoni con cui i pipistrelli, pur non vedendoli, riconoscono gli ostacoli.
Nella seconda parte, sulle note sostenute del piano di Brahms, la danza si fa più dinamica, le parti corali aumentano, come più evidente diventa il contatto fra i corpi. Tolte le catene del balletto classico, i corpi finalmente liberi, pur titubanti se abbandonare o meno la sfera dell’individualità, sondano curiosi l’invito dell’altro, creando una connessione con il mondo che sta loro di fronte.
Abbracciando di spalle il performer che gli sta davanti, tutti i componenti vanno a formare al centro del palco una specie di nodo, che probabilmente rappresenta il legame che forma una comunità, la società umana. A me appare l’incastro di vertebre che forma la colonna vertebrale. Poi, come un palloncino che si sgonfia, il primo danzatore scivola via, e uno a uno tutti i membri si sfilano dall’abbraccio, allontanandosi nel buio. Solo l’ultimo rimane a terra, esanime. La neve cade imperterrita.
Al pari della colonna vertebrale che sostiene il corpo, se ogni individuo non è connesso agli altri, non può dar vita singolarmente a una società. E le vertebre non sono altro che un pugno di ossa.

Parte terza
One Flat Thing, reproduced di William Forsythe

Coreografia, allestimento e design luci: William Forsythe
Allestimento: Ayman Harper, Ander Zabala, Thierry Guiderdoni, Cyril Baldy, Amancio Gonzalez
Composizione musicale: Thom Willems
Design costumi: Stephen Galloway
Regia delle prove per NDT: Francesca Caroti, Lucas Crandall
Durata: 15’

Il trittico si conclude con uno dei lavori più rappresentativi del carismatico coreografo americano William Forsythe. One Flat Thing, reproduced, oltre ad essere l’unica performance non originale portata in tournée dal NDT, è anche la più astratta e fisicamente intensa. Conosciuta come ‘danza dei tavoli’, è il mezzo attraverso cui Forsythe conduce lo spettatore in un altro mondo. Un mondo colorato, e stravagante.
Appena le luci si accendono, venti tavoli metallici, rettangolari, da ufficio, vengono trascinati energicamente dal fondo del palcoscenico ed allineati in quattro file. Data la confidenza del coreografo, ballerino, artista con le arti visive, si potrebbe definirla una vera e propria installazione.
I danzatori, i cui variopinti costumi richiamano vagamente i protagonisti del film Flashdance (Adrian Lyne, 1983), una volta tornati nel buio, ricompaiono un po’ alla volta, mettendo in scena un balletto che utilizza al millimetro tutti i ristretti spazi fra i tavoli. La prima impressione è quella di un esercizio ginnico alle parallele, ma via via che i movimenti si fanno precisi e ripetuti, più che esseri umani mi appaiono come insetti.
Una mattina Gregorio Samsa, destandosi da sogni inquieti, si trovò mutato in un insetto mostruoso. È il celebre incipit de La metamorfosi di Franz Kafka. Forsythe mette tutti i performer nello stato d’animo di Gregorio Samsa, e li fa ballare.
La musica ambientale di Thom Willems graffia l’aria, dando all’atmosfera un che di asettico.

Ma che posto è questo? E soprattutto, dov’è? Il tempo sembra immobile. I danzatori senza sosta salgono sui tavoli, ci scivolano e ci si stendono, saltano giù, vi si nascondono. I loro movimenti sembrano un enorme meccanismo dentato oliato alla perfezione. Si sentono i respiri ritmati, lo strusciare dei tavoli sul pavimento, il cigolio delle giunture. I suoni spezzati e rochi della musica, come sputati da un amplificatore difettoso: è il frastuono della città che filtra dai muri? O è il segnale che dà il cervello quando vi si insinua un falso ricordo?
I tavoli sono letto, pedana, bara, riparo, surf, gabbia, calamita, molla. I corpi che si muovono meccanicamente sulle linee tracciate dalla griglia dei tavoli ora mi appaiono come i due numeri unici di un sistema binario. Ma anche come le note sul pentagramma di un salmo cantato da un coro.
Ogni qualvolta i danzatori, con i loro corpi che si contorgono all’inverosimile, toccano con la mano un tavolo, i movimenti si velocizzano, come se quella superficie fosse una presa di corrente per una ricarica istantanea. E come accade nei videogiochi, con la velocità che aumenta man mano che si sale di livello, così crescono il numero dei performer in scena e il ritmo della danza.
Sondando le possibilità del corpo umano spinto oltre i propri limiti, One Flat Thing, reproduced supera i confini della danza e diventa, con l’utilizzo, sapientemente dosato da Forsythe, di simmetria, pause ed accelerazioni, equilibrio e instabilità, un’opera d’arte che può essere intesa sia come un esperimento di cinetica sia come una mappa di sinapsi.
A un certo punto smetto il mio gioco di improbabili interpretazioni e mi godo la bellezza dello spettacolo.
Un urlo all’unisono, e i tavoli vengono trascinati via, nel fondo buio del palcoscenico.

(15/8/2024)