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神奈川フィルハーモニー管弦楽団みなとみらいシリーズ定期演奏会第397回|齋藤俊夫

神奈川フィルハーモニー管弦楽団みなとみらいシリーズ定期演奏会第397回
Kanagawa Philharmonic Orchestra Minatomirai Series 397th Subscription Concert

2024年7月20日 横浜みなとみらいホール 大ホール
2024/7/20 Yokohama Minatomirai Hall Main Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 藤本史昭

<演奏>        →foreign language
指揮:井上道義
女声合唱:東京混声合唱団(*)
ピアノ:松田華音(**)
(プレコンサート)金井麻理、平尾信幸
<曲目>
(プレコンサート)C.ガルデル:ポル・ウナ・カベーサ他2曲
シャブリエ:狂詩曲『スペイン』
ドビュッシー:『夜想曲』I.雲、II.祭、III.シレーヌ(*)
伊福部昭:『ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ』(**)
伊福部昭:『日本狂詩曲』I.夜曲、II.祭

 

大変なことになってしまった。筆者の知る限りのこれまでの『リトミカ・オスティナータ』演奏歴で最速・最大・最強、そして最恐の演奏が実現してしまった。これを超える再現が今後あると思えないほどの途轍もない演奏であった。
雄渾なホルンによる序の調べから始まり、松田華音のピアノソロが曲の冒頭を形作るが、その時点で既に史上最速の『リトミカ』だった。これを聴いた筆者は「こんなスピードで過重労働極まりない『リトミカ』を最後まで弾きこなせるわけがない」と危ぶんで聴かざるを得なかった。だが、その最速のピアノソロが延々と反復・変容されていくうちにそれに〈呑まれて〉しまった。最速はやがて最大・最強となり、こちらを〈呑む〉ということにおいて最恐と化した。そのピアノについていく井上道義と神奈川フィルもまた最速・最大・最強・最恐のオーケストラと化す。脅威を感じつつもそれを美的なものとして享受すると言うカントの美的崇高論などを持ち出すのは野暮の極みであろうが、今回の『リトミカ』を言語化するのにどんな言葉を用いれば良いというのだろうか?
A(急)B(緩) C(急)D(緩)A‐Coda(急)の形式上でのBパートでの松田の大陸的壮大さを感じさせる強靭なピアノソロ、そこから転じてCパートでのまた凄まじい松田&井上=神奈川フィルの突進、さらに転じてDパートでの神秘的で精妙な演奏、最後のA‐Codaでの吶喊(ここで打楽器群を特に強調していたように聴こえた)の恐るべしとしか言いようがないクライマックス、どこを切っても最速・最大・最強・最恐であり、そしてそれは演奏に全く乱れがないからこそである。一糸乱れぬ大乱舞こそ伊福部アレグロの真骨頂。演奏者に自らの技量への自信と指揮者の采配への信頼が共にあってこそ実現しうる境地であろう。
宮本武蔵は畳の縁を状況に関わらず延々と歩き続けるのが武道の極意だと説いたと聞くが、今回の松田&井上道義=神奈川フィルは絶対に超えてはいけない危険領域に踏み入ってなお畳の縁を歩き続けてその最奥、高みへと昇りつめんとする恐るべき意志を具現化していた。こんな音楽がありえるわけがない、と思いつつ眼前に広がる伊福部世界にじっと身を固くして脈拍を120くらいまで上げて聴き入るしかなかった。怒涛の終曲後「うおおおおお!」と声にならない雄叫びが挙がったのもむべなるかな。
井上道義は本誌に評が挙がった演奏会だけでも2016年7月の東響・山田玲子2020年12月のN響・松田華音で本作を取り上げているが、再現のアプローチが徐々に〈優〉から〈剛〉へと変遷していったように思われる。しかし剛にしても今回の〈精緻にして剛毅〉な音楽はあらゆるものを押しのける力に満ちていた。これが今年引退する指揮者の仕事だというのか?

この『リトミカ・オスティナータ』で精も根も尽き果てたかとも思えた井上が次に振った『日本狂詩曲』の第1曲「夜曲」で切々としたヴィオラの音は前曲でハイになり過ぎて疲れ果てた我々聴衆と、なにより井上を慰撫するかのように響く。管楽器が物皆侘しい日本の夜を描き出す。抹茶の味、その苦みとともに確かにあるまろやかな甘さをも感じさせる。が、この哀しさ、「もののあわれ」とはこういうものに当てはまる言葉かと思わされる。
さらにしかし、第2曲「祭」のひょうきんなクラリネットの序奏の後のトゥッティたるや、「日本のどこにこんな怪獣が?!」と問いかけたくなるような圧倒的スケールで迫ってくる。井上が最後の力を振り絞って伊福部の複雑な管弦楽法を的確に捌いているのが見ていてわかる。だからこそこちらも厳粛にならざるを得ない。繰り返すが、引退を間際に控えた指揮者がする労働としてはあまりにも重すぎる。最後に怪獣がまた降臨した時には井上はオーケストラを背にして客席に向かって手拍子を要求する(この要求に従った人はいなかったようだが)。一旦オーケストラを向いて、最後の最後でまた客席を向いて全て了! よくやった! あなたはよく成し遂げた!

プログラム後半の凄絶さに押されて前半の評が埋没してしまうのは致し方ないかもしれないが、シャブリエ『スペイン』の明朗快活な響きの中で激しく踊るような井上の姿もまた忘れがたい。
ドビュッシー『夜想曲』第1曲「雲」は今思い返すと伊福部『日本狂詩曲』の「夜曲」の原曲のようなほろ苦い甘さを湛えていたように思える。第2曲「祭」のカーニバルの行列を思わせるような軍楽調のような楽想はもちろん『リトミカ』と近い。第3曲「シレーヌ」の会場3階のバンダの女声合唱の神々しさ、これは伊福部が「ドビュッシーなんかを聴くとコロッとやられてしまう」と言っていたドビュッシー音楽の真髄かな、などととにかく伊福部なしには思い返せない。だが前半も十分に、いや、それこそ特上級に楽しく美しい音楽を聴かせてくれたのは間違いない。後半がさらにとんでもなさ過ぎたのである。

井上にとっては1983年の東京交響楽団・藤井一興での(最後に全体が崩壊した)『リトミカ・オスティナータ』から約40年越しで完成させた逸品であった。これほどの事をやり遂げられるのに引退するのは勿体無い、とも思うが、これ以上の音楽を求めることは非人道的だ、とすらも思わせる鬼気迫る舞台であった。ありがとう、ありがとう、マエストロ。

(2024/8/15)

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<Players>
Conductor: INOUE Michiyoshi
Female Chorus: The Philharmonic Chorus of Tokyo(*)
Piano: MATSUDA Kanon(**)
(Pre-Concert)KANAI Mari, HIRAO Nobuyuki
<Pieces>
(Pre-Concert)Carlos Gardel: Por una Cabeza and other 2 pieces
Alexis-Emmanuel Chabrier: Espańa
Claude Debussy: Nocturnes
  I.Nuages
  II.Fêtes
  III.Sirènes(*)
IFUKUBE Akira: Ritomica ostinata per pianoforte ed orchestra(**)
IFUKUBE Akira: Japanese Rhapsody
  I.Nocturne
  II.Fêtes