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Contra Trio 東京公演 第1夜|丘山万里子

Contra Trio 東京公演 第1夜

2024年7月17日 ムジカーサ
2024/7/17 MUSICASA
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:エボニーアンドアイボリー合同会社

<演奏>        →foreign language
Contra Trio
⼿取屋 ⿇⼦(コントラバス) Asako TEDORIYA, contrabass
アレクサンダー・シュプルング(ヴァイオリン) Alexander SPRUNG, violin
ベンヤミン・ヌス(ピアノ) Benyamin NUSS, piano

<曲目>(プログラム A)
モーツァルト:ピアノ三重奏曲 ト長調 KV.564
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調「街の歌」作品11
〜〜〜
ラフマニノフ:悲しみの三重奏曲 第1番
ピアソラ:エスクアーロ、オブリビオン、天使の死

(アンコール)
シェーンフィールド:カフェ・ミュージック より

 

Contra Trio(コントラ・トリオ)は、ドイツ中⻄部ボーフム(サッカーでは小野伸二が在籍)の市⽴管弦楽団⾸席コントラバス奏者、⼿取屋⿇⼦(てどりや・あさこ)が結成したトリオ。NDRエルプ・フィル第1ヴァイオリン奏者アレクサンダー・シュプルングとジャンル超え作曲・編曲家としても活躍のピアニスト、ベンヤミン・ヌスの3名で、超低音の魅力を掘り下げようとの趣旨とか。通常チェロでの演奏をコントラバスで、とは珍しく、古典からピアソラ、カフェ・ミュージックまで広範なレパートリーでの来日だ。
この公演、6月に同じムジカーサでトリオ・ヴェントゥスを聴き、配布のチラシで面白そう、と出かけた次第。東京2公演の第1回。

いかんせん、モーツァルトはどうあってもモーツァルトなので、やはり彼特有の音楽の軽(かろ)みが欲しく、コントラバス(以下cb)のずっしり感がそれを削ぐのは否めない。pfが優美流麗にコロコロ歌っても、vnが華やかに合いの手を入れても、全体に靴紐を引きずる足取りになる。
一方、ベートーヴェンの冒頭、弦のユニゾンの奏出する壮大な響きには驚嘆、モーツァルトとベートーヴェンの音楽様式、音楽世界の相違を歴然と感じ、そういうことか、と思う。ベートーヴェンがいかに時代の革命児であったかを(モーツァルトの嬉遊性と不穏も当時はそうだったろう)、超低音の響きが増幅して現前させる。無論、こんな音響世界をベートーヴェンは考えもしなかったろうが、彼の音の組成・構築はむしろこの低音が響き上がることで、新たな抉りの深さ、劇性をあらわにする、それが彼の作曲技法の底力なのだ、と痛感したのである。『街の歌』という選曲も的を射ており、弦のフレーズの掛け合いも表情が大きく、pfの推進力がものを言う。「コントラ」という名の由来との「コントラプンクトゥス」つまり対位法的な3者の絡み具合はバランスが取れている。第2楽章、cbソロでのたっぷりした調べが底鳴りして足元から伝わってくるのは感動であった。同じ平面(1階客席はステージと同一)だからこその地続き体感で、この波動は一度経験したら忘れられないのでは。終楽章の多様な歌での表情の変化もダイナミック。当たり前だが、cbは指板が長いから音階もアルペッジョも運指がモタモタすればやはり靴紐引きずり状態になる。さほど大柄でもない手取屋の奮闘を支えるvn、pfの阿吽の呼吸も好ましい。それにしてもそのシンフォニックかつドラマティックな音響世界が開く新たなベートーヴェン像は実に新鮮であった。
と、ここまで、とりわけヌスの見事な牽引と統率ぶりが冴える。

後半ラフマニノフ、こちらは後期ロマンから現代への流れにあって、心そそるメロディラインと絢爛たるヴィルトゥオジテを両翼に羽ばたいた世紀末作曲家のポピュラリティの在所を堪能できる作品。深々とした哀感と熱情の大波が寄せる抒情世界を、さらにスケール大きく描き切る。冒頭、それとない弦の漣から、pfが哀愁の調べを奏で、cb〜vnへと歌いつがれてゆく音の波、さらにぐいぐいと弦ユニゾンの波濤を水底から巻き上げるpfの逞しい打鍵、和音が追い立てる高揚の螺旋階段。とりわけ cbの響きの深度、轟々たる波音は、聴き手を人間存在の根源から巻き込み押し上げ揉みしだく如く。その情感の宿す哀切はまさに「慟哭のレント Lento lugubre」そのもの。様々なエピソードが現れては消える中盤でのpfはここでも抜群の即応力。火照った想いの丈を沈めるかのコーダでの葬送の音調とpfに響く微かな弔鐘の響き。暮れなずむ波打ち際を辿る孤影を追うごとく、ホールしばし沈黙ののち、喝采。

予想通りの大爆発はピアソラ。
ここではvnシュプルングの芸達者ぶりが大いに発揮され、その魅力全開。パーカッシブなpf、ブンブン跳ねるcbに乗り、キレあるボウイングで鋭く斬り込む。まさに『エスクアーロ(サメ)』のヒレと牙が海中で躍り沈むスリル満点。とりわけ細かい刻み、重音、高音処理の巧み。照りつける太陽と真っ青な海、気分は一気にサロンからライブハウスへ、だ。
『オブリビオン』での甘く切ない男女密着ダンスシーン、シュプルングvnの口説き節にキューバのバーでの一夜を思い出す。
pfのクラッピング、cbのボディ叩きなど交え開始の『天使の死』。暗い場末の酒場、舞い降りた天使に振り下ろされるナイフの痛みを、エッジの効いたパワフルな演奏で切り取って見せる。中盤cbのメロディラインもしみじみと、それぞれの持ち味を披瀝、フーガで追い込む終部での最後の音を全員一刀両断で決めてみせた。
むろん、イエーイ!の歓声があちこちから降る(中2F2Fもある)。
アンコールでの『カフェ・ミュージック』でもvnが冴えまくり、様々な国の街角楽師を彷彿。そのライブ快感がたまらない。

にしても男2人、日本語での挨拶、語りを流暢にこなすのに軽く驚く。ご愛嬌レベルでないあたり、このトリオどういうつながりなのかしらん。
いずれにせよ、聞き慣れた作品が、vcからcbに変わった途端、新たな音楽像が立ち上がるのをこれほど実感したことはない。スコアをどう読みどう創るか、彼らのメッセージ通り、可能性は無限と思う。
当夜の客層、友人知人はそれと知れるが、子供連れから学生風、黒ずくめゴールドアクセサリーのたぶんジャズ系、リュックを背の外国人数名など彩り豊か。クラッピングやボディ叩きなど現代音楽では普通の奏法に、えっ、と小声が聞こえてきそうな気配もあり、こういう小さな場で生音生演奏に出会った子らの驚きも含め、ジャンルを超えての自由な音世界を予感、楽しく嬉しく幸福な真夏の一夜であった。
大ホールも気取ったサロンも、カフェも教会も、古びたビルの一室も地下アングラ風(死語だが)も、今は多種多様な音楽の場があちこちにある。パンデミックでしぶとく生音を鳴らしていたのはキャパの小さなこうした場で、固定客がつくようにもなっている。
街の先生(との言い方は良くないが)のおさらい会、音大教師リサイタルから有名無名新旧硬軟老若男女、誰もに音楽の場はそれぞれ開かれており、それらをひっくるめての音楽界であること、いや、それこそが私たちの日常の音楽生活で、地続き音体感を生む小さな場の音の渦があちこちで広がってゆくのが音と人の関わりの自然な姿であること。街角に人が奏でる雑多な音が溢れる(いわゆるBGMでなく)、それが本当の「豊かさ」なのだとしみじみ学んだ夜でもあった。
何、どこのコンクール?先生は誰?と腕組み聴取も批評の一つではあろうが、ここは「書を捨てよ町へ出よう」(寺山修司)であるな、と駅への急坂を下る。

(2024/8/15)

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<Artists>
Asako TEDORIYA, contrabass
Alexander SPRUNG, violin
Benyamin NUSS, piano

<Program>
Mozart: Piano Trio in G major KV.564
Beethoven: Piano Trio No.4 in B-flat major “Gassenhauer” Op.11

Rachmaninoff: Trio Élégiaque No.1
Piazzolla: Esqualo, Oblivion, La muerte del ángel

(Encore)
Schoenfield: Cafe Music