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東京都交響楽団 第1000回 定期演奏会Bシリーズ|藤原聡

東京都交響楽団 第1000回 定期演奏会Bシリーズ
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra Subscription Concert No.1000 B Series

2024年6月4日 サントリーホール
2024/6/4 Suntory Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 堀田力丸/写真提供:東京都交響楽団

〈プログラム〉        →foreign language
ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調 WAB109
(第1〜3楽章/ノヴァーク版)
(2021-22年SPCM版※/第4楽章)※日本初演

〈演奏〉
東京都交響楽団
指揮:エリアフ・インバル
コンサートマスター:山本友重

 

ブルックナーの交響曲第4番や第8番の初期稿。これらは現在広く親しまれている改訂稿=現行版―敢えて言ってしまえば世間的な成功のために作曲家が円満にまとめ上げた―とはかなり異なり、当時としては極めて前衛的かつプリミティヴな音楽であることはかなり知られて来たと思われる。近年シモーネ・ヤングやデニス・ラッセル・デイヴィス、ケント・ナガノなどの指揮者が初期稿を取り上げているが、やはりこの流れに先鞭をつけたのは他ならぬインバルだろう。私は革命家が好きなのです、と語るこの指揮者はだからマーラーやベルリオーズも好むのだ。

そのインバル、1980年代にフランクフルト放送響と行ったブルックナーの交響曲録音では先述した第4や第8の初期稿を録音していたが、第9番の補筆版第4楽章も初稿録音と同様に大きな注目を浴びたのだった。指揮者・作曲家のニコラ・サマーレと作曲家ジュゼッペ・マッツーカによる「サマーレ=マッツーカ版」によるこの録音は大きな毀誉褒貶にさらされたが、この版が起点となり、そこに音楽学者のベンヤミン=グンナー・コールス及びジョン・A・フィリップスが参加して多様な資料に基づきさらにブラッシュアップさせたのがこれら4人の名前から1文字ずつ取った「SPCM版」。この版も何度か改訂されているが、今回インバルと都響が演奏するのはその「2021-22年最新版」である(この辺りの経緯や他の補筆版についての記述は下記都響ウェブサイトにあるジョン・A・フィリップス氏及び本田裕暉氏の記述を参照されたい)。
https://www.tmso.or.jp/j/concert/detail/detail.php?id=3780
(「曲目解説」の項)
https://www.tmso.or.jp/j/archives/special_contents/2024/2024essay/column/column03.php

未知の領域にいまだ絶え間なく視線を送るインバルのこの度のSPCM版による第4楽章演奏、一体どうなるだろうか。

まずは第1楽章から。冒頭こそ神秘的かつ荘厳な雰囲気を漂わせていたが、第1主題、あの激烈なトゥッティによるオクターブ下降に至るクレシェンドから音のリアリストたるインバルの面目躍如たる豪壮さだ。第2、第3主題への移行の処理は極めて自然で全てがスムーズに繋がる。全体に音量は大き目であるのが神経質さを感じさせない。そしてコーダの悪魔的な高揚を何に喩えようか。

スケルツォのテンポは速い。しかし音楽は上滑りせずにリズムの抉りは極めて深い。他方、ブルックナーのスケルツォとしても異例であるこの楽章の非現世的なアトモスフィアは希薄、全てがリアルな音響に還元されてしまっている節もある(もっとも、これはブルックナーに限らず近年のインバルの特徴でもあるが、この日はより顕著に思われた)。

続くアダージョでも超越的な空気は皆無、速いテンポであくまで澱みなく進む。補筆版の第4楽章がこの後にあることも踏まえてのここまでの快速な流れによる演奏ということは考えられるが、筆者の好みとしては、その音響設計は超絶的に明快で圧倒された一方―かつてこの作品でここまで「分かり易い」演奏を聴いた試しがない―、より陰影のある解釈を求めたくもなる。しかし個人的な演奏への嗜好性は別としてこの達成は長年のパートナーシップを誇るインバルと都響ならではだ。

さて件の補筆版終楽章。結論から申せば、いくつかの録音で聴いた印象を根本から覆すには至らず、言い過ぎかも知れぬが作品としての「竜頭蛇尾」感は拭えない印象を受ける。サマーレ=マッツーカ版あるいはSPCMの2011年改訂版(ラトルとベルリン・フィルがこの版で演奏/録音)と比べると展開部のフーガやコーダの充実感が増しているのは聴き取れるのだが、いかんせん楽想というか素材に余り魅力がない。全くの素人が見当違いのことを述べるリスクを冒して書けば、それらの素材を上手く有機的にまとめ上げ1つの作品とし実際の音として提示したSPCMの面々の並々ならぬ熱意と努力には最大限の敬意を払いつつ、元素材が素材ゆえ自ずと限界があるのではないか。最後の高揚はそれなりに感銘を受けたが、どうも無理やりの完結感は否めない。インバルの演奏はこの作品の弱さを力業で乗り切った感(だからこその第3楽章までの演奏様式、ということはやはりある)、他の指揮者であればもっと退屈したかも知れない。そしてこの第4楽章はクック補筆版のマーラー:交響曲第10番のようには親しまれない気はした。従って、最終的にはやはりインバルの豪腕ぶりと都響のヴィルトゥオジティ、そしてこの両者の一心同体ぶりを堪能することとなる。

いささか懐疑的な論調になってしまったけれど、しかしかような試みは大歓迎である。アウトプットされたコンスタティヴな結果はもちろん重要だが、パフォーマティヴな側面も等しく面白がる姿勢。事実楽しませていただいた。

(2024/7/15)

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〈Program〉
Bruckner:Symphony No.9 in D minor WAB109
(Ⅰ〜Ⅲ/Nowak edition)
(※Finale:2021-22 SPCM version)[Japan premiere]

〈Player〉
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra
Eliahu INBAL,Conductor
Tomoshige YAMAMOTO,Concertmaster