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ベトナム便り|① 新生活のはじまり|加納遥香

新生活のはじまり

Text and Photos by 加納遥香 (Haruka Kanoh)  :Guest

 

【渡航日は、前日の大雨から一転して晴天となった。夕方の成田空港にて。】

あっというまに3か月以上の月日が経ってしまったが、今年の3月末から、ベトナムのハノイに住んでいる。これまでは留学や調査であったが、今回ははじめて仕事での滞在だ。ベトナムに再び長期滞在ができるとはあまり思っていなかったので、どきどきわくわく、約5年ぶりのハノイ生活を開始した。

飛行機から降り立った瞬間から「ああこれだ」と思わされたのは、じめっとしたハノイの空気だ。ハノイの気候は、以前も今も変わらず、なんといっても過ごしづらい。頭上には白色のどっしりとした空が広がる日が多く、風がないと空気がよどみ、水気がじわっ、じとっ、と肌にまとわりつく。こんな日には大気汚染がますますひどく、マスクが必須だ。厚い雲がさっとはける日には、雲のむこうで待ちくたびれた太陽が、ためらうことなく下界をじりじりと焼きつける。かと思えば、急に灰色に染まった空から大量の大きな雨粒がザザザと降り落ち、コンクリートの地面がバチバチバチチと悲鳴を上げる。こんな空模様だからこそ、日が落ちてそよ風の吹く夕方や、空気中の水分と塵が一掃され(たように感じられ)、気温があまり上がらない豪雨明けの朝は、心地よくさわやかな気分になる。

この春から初夏にかけて体感してきた快適とは言えない気候のなかで、気分を盛り上げてくれた景色もある。それはハノイの街中に咲く花々だ。なかでも華やかに咲き誇っていたのは、5月に満開を迎えた薄紫~赤紫色のバンラン(Bằng lăng)の花。和名ではオオバナサルスベリ、ウィキペディアを見ると、フィリピンのタガログ語名「バナバ」が通称のようである。鮮やかな赤色の「フォンヴィー(Phượng vĩ)」の花も街の至るところに咲いていた。和名はホウオウボク、しばしば火炎樹とも呼ばれている。ベトナムでの学年末にあたる5、6月に満開を迎えるホウオウボクは、子ども時代を連想させる花として知られているという。ハノイ最大の湖であるタイ湖の湖畔にずらっと植えられていたのは、イチョウの葉のような柔らかい黄色の「ムオンホアンヤン(Muồng hoàng yên)」と思われる。和名はナンバンサイカチ、英語名は「ゴールデンシャワー」というようで、まさに金色の花びらが降ってくるように華やかだ。

蒸し暑く、がやがやとバイクや車が行き交う騒がしいハノイを彩る、色とりどりの花々。酷暑のなかでも、大雨に打たれても、濃緑の葉っぱのはざまに何週間も咲き誇っていて、日本の桜のはかなさとは対照的な強い生命力が感じられる。美しい花が咲く木の下でポーズをきめて互いに写真を撮り合う若者や女性たちの生き生きとした表情にも、元気をもらえた。

【路上で自転車にコム(緑色の若いもち米)を乗せて売り歩く女性。この写真を撮らせてもらった時は、結局現金で支払ったように記憶している。】

今回の滞在では、ハノイやベトナムの社会の変化も感じている。一番はっきりと体感したのは、キャッシュレス決済の浸透だ。私が留学した当初の10年前は現金払いが基本、クレジットカードすらあまり浸透していなかったのだが、クレジットカードの普及をすっとばして、今ではスマホによるQRコード決済がすっかり普及している。路上で食べ物を歩き売るおばあちゃんですら支払用のQRコードを持ち歩いていたのには、さすがに驚きをかくせなかった。

物価もじわじわと上昇している。たとえば私が留学を始めた10年前にバスの乗車料金は5000ドンだったが(その前までは3000ドンだったと聞いている)、その後7000ドンになり、今では一部の路線は8000ドン。以前買ったことのあるお土産屋さんのストールも値上がりしており、店員さんに聞いてみると、「コロナ明けに値上げした、今年はまだしてないんだけど」とのことだ。日本円の価値は対ベトナムドンでも円安が進み、昔は1円=200ドン程度の時期もあったのだが今では1円=160ドンくらいとなっている。物価上昇と相俟って、今はまだ保っている「日本と比べて安い」という感覚は、今後薄れていくのではないだろうか。

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日々の生活の中では、都合さえつけば、以前のようにコンサートを聴きに行っている。6月にもいろいろなコンサートが開催されていた。たとえば、設立40周年を迎えたベトナム国立交響楽団の第163回定期演奏会では、ベトナムの作曲家の作品のみが演奏され、20世紀後半の作品から現代の若手作曲家の新作まで、ベトナムのクラシック音楽の豊かさを満喫できた。ベトナム大手不動産企業サングループが2017年に設立したサン・シンフォニー・オーケストラの6月のコンサートは、ベトナム初演の室内楽作品2曲を含む、ストラヴィンスキーのプログラムであった。2023年7月に落成したばかりのホーグオム劇場(なんと管轄は公安省である)のきらびやかなホールで、初めて聴く作品を堪能できた。月末にプライベートで南部ホーチミン市を訪れた際には、フランス植民地時代に建設されたオペラハウスで、ホーチミン市バレエ交響オペラ劇場による優しい繊細な音色の演奏を聴いてきた。他にも、才能豊かな若手演奏家たちが自主開催する小規模なリサイタル「Shubert in a Mug」や、ベトナムの竹の伝統楽器の楽団「スックソンモイ」による国境を越えた楽曲の演奏、ハノイで活動するアマチュア合唱団の合同コンサートなどにも足を運んだ。

【左より、ベトナム国立交響楽団、サン・シンフォニー・オーケストラ、ホーチミン市バレエ交響オペラ劇場のコンサートプログラム】

【ホーチミン市オペラ劇場】

【この7月で落成1年を迎えたホーグオム劇場。写真はサン・シンフォニー・オーケストラのコンサートとは別の日に撮影したもの。】

今回はざっくりとした紹介に留めるが、今後も、いろいろなジャンルのコンサート、さらには伝統歌劇や現代演劇、映画などもたくさん鑑賞して、現代ベトナムのカルチャーシーンについての理解を深め、この場でも綴っていけたらと思っている。また、文化芸術に限らず、ベトナムに住んでいると日々の生活の中での発見が尽きない。まとまった文章にするのにはなかなか苦労するのだが、ベトナムに長期滞在できるせっかくのこの機会に、ベトナムについての理解を深め、その一端を少しずつ、「ベトナム便り」としてここで発信していきたいと思う。

(2024/7/15)

*このエッセイは個人の見解に基づくものであり、所属機関とは関係ありません。

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加納遥香(Haruka Kanoh)
2021年に一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士後期課程を修了し、博士(社会学)を取得。専門はベトナム地域研究、音楽文化研究、グローバル・スタディーズ等。修士課程、博士後期課程在籍時にハノイに留学し、オペラをはじめとする「クラシック音楽」を中心に、芸術と政治経済の関係について領域横断的な研究に取り組んできた。著書に『社会主義ベトナムのオペラ:国家をかたちづくる文化装置』(彩流社、2024年)。現在は、専門調査員として在ベトナム日本国大使館に勤務している。