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東京交響楽団第720回定期演奏会|齋藤俊夫

東京交響楽団第720回定期演奏会
Tokyo Symphony Orchestra Subscription Concert No.720

2024年5月12日 サントリーホール
2024/5/12 Suntory Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 池上直哉/写真提供:東京交響楽団

<演奏>        →foreign language
指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:高橋絵理(*)
メゾソプラノ:ドロティア・ラング(**)
テノール:ベンヤミン・ブルンス(***)
東京交響楽団

<曲目>
武満徹:『鳥は星形の庭に降りる』
ベルク:演奏会用アリア『ぶどう酒』(*)
マーラー:『大地の歌』(**)(***)

 

音楽という聴体験が視覚的にも捉えられるという共感覚をメシアンなどは持っていたと言われるが、武満の音楽の共感覚として筆者には、いや、おそらく人類皆には「甘さ」が感じられる。それも天上的な、この身がとろけるような甘美さ。そしてそれは虹色の視覚的共感覚をも喚起する。
『鳥は星形の庭に降りる』、この甘さはなんであろうか? 濃厚な味わい、大人の、粋な年増の色気たっぷりな音がこちらを魅了する。全曲を支配する5音音階の連続7音の主モチーフを軸としてノットの采配で統御されるオーケストラの精緻な響き、あるいは豪奢に花開く響きもまた理性ではなく感官を刺激してやまない。なんという色彩! これを人間が書いて人間が演奏しているというのか? 人間的と言うにはあまりにも無垢でありすぎる。だが無垢と言うにはあまりにも甘美すぎる。タケミツ・サウンドをノット=東響が再現するという奇跡的邂逅に立ち会えた喜びは他に代え難いものであったろう。

ベルク『ぶどう酒』、タイトルからして酔いそうな作品だが、聴いてみると実際イントロの粘っこい和声進行の音響の時点で酔いそうになる。ソプラノ、高橋絵理が加わってみると……これは背徳的な香り漂う危険なエロスだ。破滅願望と表裏一体となった危うい甘美さ。先の武満の虹色の甘美さとは対極にあるような黒色の頽廃的甘美。荒々しい場面あり、しっとりとした場面あり、おどけたような茶目っ気のある場面ありと多彩な表情を見せながら、どこを切ってもその表現主義音楽はベルクでしかありえないものだ。美しい破滅と狂気に身を任せてしまいそうになる、そんな魔酒のような魔法にかけられる稀有な体験を味わった。

武満、ベルクそれぞれの甘美さを存分に味わった後にマーラーの『大地の歌』を聴く、という今回のプログラム、その意図や如何に、と臨んだ。
第1楽章「酒興の歌、地上の苦しみについて」、ヴァーグナー的な雄々しいイントロの後でそれに負けじとテノール、ベンヤミン・ブルンスの歌声が朗々と鳴り響く。”Das Lied vom Kummer”(苦しみの歌だ)と歌詞にはあるがそれにしては生命力があり過ぎ溌剌とし過ぎている。繰り返される”Dunkel ist das Leben, ist der Tod”(生とは暗いものなのだ。そして死も)のセンテンスに宿る甘やかな死と永遠への憧憬が楽章の終わりでさらに明瞭に表されるマーラーの危なさは先のベルクにも負けない。
第2楽章「秋、孤独な男」、神妙な、シベリウスにも似たイントロをメゾソプラノ、ドロティア・ラングが追う。なんと美しい調べであろうか。”Ich weinen viel in meinen Einsamkeiten”(私は孤独の中でひどく泣く)という哀しき孤独の中に美を見出すという逆説。こちらのため息と音楽美がシンクロする。
第3楽章「若さについて」、これまたマーラー的な可愛らしく剽軽な音楽をノットがオーケストラの室内楽的筆致で描き出す。ブルンスも第1楽章とは全く別人のように軽やかで細やかな跳ねるような歌声で李白の楽園的な詩を描き出す。
第4楽章「美しいものについて」、李白の楽園的な詩はまだ続き、第3楽章と同じく平安に満ちた音楽と見えたのが、”O sieh, was tummeln sich für schöne Knaben dort an dem Uferrand auf mut’gen Rossen, weithin glänzend wie die Sonnenstrahlen;”(おお見よ、美しい若者たちが太陽の光のように遠くへと輝きを放ちながら、元気な馬に乗って浜辺で走り回っているのを)でドタバタしたコメディ調のフォルテシモの楽想へと一転してしまうという実にマーラー的な音楽的転移をノットとラングが丁寧に――つまりマーラーの書法通りに――あぶり出す。さらにまた楽園的な音楽への転移も抜かりなく、最後は繊細極まりなく歌い上げる。
第5楽章「春に酔った者たち」、タイトル通り、春日中から酒に溺れ現世を忘れる者を全肯定するように陽気に朗らかに歌い奏でる。無憂的かつ夢遊的な音楽がここに現れた。
第6楽章「別れ」、哀しげなラングの孟浩然と王維の歌にフルート、オーボエが色を添える。なんたる詩情。楽園的というよりは、浮世離れした音楽的情景が描かれる中、”Die Welt schläft ein!”(世界が眠りについていく!)で静かに眠りの中、いや、〈永遠の眠りの中〉に世界が丸ごと落ちていくような気がする。しばしかそけき眠りの世界を浮遊した後、また甘美な浮世離れした情景、”O Schönheit! o ewigen Liebens – Lebens – trunk’ne Welt!”(おお永遠の愛と生に酔いしれた世界よ!)が広がっていく。”Er stieg vom Pferd und reichte ihm den Trunk des Abschieds dar.”(友は馬から降りて別れの酒を彼に差し出す)で独り歌うラングの気高く、超然として、しかしマーラー的に屈折した歌声に背筋がゾクリとさせられる。詩の最終2連に至り、浮世離れした音楽はもっとさらに現世から離れゆき、甘美なる永遠の眠りの世界へと吸い込まれる。ここでノット=東響のオーケストラの強弱法の的確な甘美さが際立つ! 最終”ewig… ewig…”(永遠に、永遠に……)で会場内の全てが永遠へと至り、終演。自分が息をしているのかしていないのかわからなくなるほどの体験であった。

武満、ベルク、マーラー、その音楽の〈甘美さ〉の諸相の系譜を学ばされた。ノット、ソリストたち、東響が一体となってこちらに届けてくれたその〈甘い音楽〉の豊かさに音楽という人間の生みし魔法の術への〈信仰〉を新たにしてしまう、そんな極上の体験だった。

(『大地の歌』はプログラム記載の三ヶ尻正氏の対訳を使わせていただきました)

(2024/6/15)

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<Players>
Conductor: Jonathan NOTT
Soprano: TAKAHASHI Eri(*)
Mezzo-Soprano: Dorottya LÁNG(**)
Tenor: Benjamin BRUNS(***)
Tokyo Symphony Orchestra

<Pieces>
TAKEMITSU, T: A Floch Descends into the Pentagonal Garden
A.BERG: Der Wein (concert aria)
G. MAHLER: Das Lied von der Erde