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上野通明 無伴奏チェロ・リサイタル|丘山万里子

上野通明 無伴奏チェロ・リサイタル
MICHIAKI UENO Recital for Cello Solo

2024年5月24日 サントリーホール
2024/5/24 Suntory Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)

<曲目>        →foreign language
黛敏郎:BUNRAKU(1960)
松村禎三:祈祷歌(1985)
森円花:Phoenix(2022/上野通明委嘱作品)
〜〜〜
團伊玖磨:無伴奏チェロ・ソナタ(1998)
武満徹:エア(1995)*
藤倉大:Uzu(渦)(2023/上野通明委嘱作品/世界初演)

前奏/瀧廉太郎:荒城の月
アンコール/山田耕作:からたちの花

 

照明を落とし真っ暗闇のステージ、なのに何処からかふうっと歌い出されたチェロ。ん?『荒城の月』? 意表つく上野通明オール邦人無伴奏作品リサイタルの幕開けだ。
ぽつぽつ並ぶわずかな足元灯が、日本の西洋音楽黎明期へと聴衆をいざなう。
この導入だけで、パラグアイ生まれ、幼少期をスペインで過ごした若きチェリストの母国へ注ぐ眼差しを見た、と思う。
ドイツ留学を果たしたものの早逝した瀧廉太郎(1879~1903)の絶筆は「憾(うらみ)」(pf)。上野が2021年ジュネーブ国際音楽コンクールで優勝した年齢より若くしての死。
だが、瀧の遺した歌はこうして生き続ける。

黛敏郎から藤倉大まで6人。
これをどう弾いたか。
筆者は日本の現代音楽が研究領域ゆえ、邦人チェロ独奏曲はそれなりに親しい。ずらり並んだ日本のもはや古典から生まれたて作品まで、歴史上の位置と個性とを聴き分けようなど、耳をそば立てたわけだが。
そんなことはどうでも良い、と上野に一蹴された感じ。
それくらい、彼の音は圧倒的だったのだ。
音楽生成にあたっての第一は、奏者自身のソノリティ(音響・音質・音色)を持つことだ、と筆者は考える。使用楽器がどうこうでない、正直、これは天性と思う。
上野のソノリティ、一聴だけで人を掻っ攫う。
凡庸な形容詞を並べても仕方ない。作品を聴くと言うより、ただひたすらその「音」に遊ばせてもらった。どの曲も、彼の総身が曲そのものとなって顕現する。だから全体を通しいろんな景色を見せてもらった、のではあるがやっぱり「上野通明の音楽」そのものをもらった、と言いたい。
歌う、つぶやく、囁く、叫ぶ、喚く、歯噛みする、しのび泣く、哭く、微笑む、大笑する、怒る、どなる、吠える、そして祈る。あらゆる喜怒哀楽が泌んでいる楽譜を読み、その命を音に響かせるにまずもって必要なのは奏者の作品への愛と情熱(ベタな言葉だが)。
音の命を汲むのは演奏家で、私たちはその命さえもらえれば御の字なのだ。暗譜などの次元でない、血肉化された音たちが、どの作品にも轟々と流れ、息づく。
その音楽に、作品書法の違い、奏法のあれこれなど、解析してどうなろう。

ではあるが、一応。
しょっぱな『BUNRAKU』がダントツだった。
文楽という伝統芸能の持つ凄愴な情念を、これほどまでに音にまといつかせ、蠢かせるとは。
ただのエキゾティシズム、ジャポニズムに終わらぬ「シュルレアリスト・黛」の風貌が克明に浮かび上がる。この作品、音のファッションデザイナーたる黛の腕の確かさのみ評価してきた筆者だが、いや、彼の中にはこの種のエトスが実は根深く巣食っていたのだ、と驚く。上野の放つ熱量の膨大。
松村作品、原曲は十七絃箏曲。邦楽器関連第1作『詩曲Ⅰ番』(箏・尺八/1969)は70年万博初演で日本の現代邦楽隆盛期に入るが、本作作曲当時も自身の中の日本を探っていた時期。ちょうど発表の『チェロ協奏曲』でチェロと向き合ったことからチェロ版を書いた。同じ弦楽器でも似て非なるものだが、黛で見せた表現主義的尖鋭がここにも刻まれつつ、松村独特の情緒も掬う演奏。
前半締めに森、後半締めに藤倉を置いた意図を飛ばして、團のソナタにゆく。
整いの中のポピュラリティ、中国地方の子守歌などいかにも團だが、第2楽章で2箇所現れるフラジョレットに、それだけじゃ終わらんよ的晩年の棘のようなものを改めて聴く。
武満は最晩年のフルート作品の編曲版。タイトル「エア」に相応しい音楽。ドビュッシーへの憧憬に始まり、そこに回帰した「世界のタケミツ」はつまりはロマンチストだったと再認識。
と、ここまで、西欧の鏡(武満著書『樹の鏡 草原の鏡』)に我が身を映し自問する世代の姿それぞれがあった、とまとめておく。

戻って森、足踏みドン、ダンを要所に入れてのスケール雄大音響多彩、特殊奏法満載で耳を喜ばせ、奏者も聴衆も大いにenjoy。コロナ禍からの世界の変貌へのメッセージとしての『Phoenix』だとか。筆者は平原綾香の長岡復興祈願花火『フェニックス』の壮大を思い浮かべたのであった。
藤倉は単一楽章かつ8つの部分を持ち、どの順番でもどの部分からでも演奏 OK という遊び心に満ちた軽量作品。輪廻、をここに重ねるのはせいぜい筆者くらいだろうが。
ここで冒頭、黛タイトル『BUNRAKU』、森『Phoenix』、藤倉『UZU』と手繰ればそこに日本と私たち、時移ろいての「今」が見えようか。
漢文化、西洋文化の「巨大鏡」もとうに霧散の私たち、デジタルに席巻される今日世界で「私」はどこに立ったら良いのか。そんな問いが浮かぶ。

と、そこで終わらなかった。
大喝采の中でのアンコールは山田耕作『からたちの花』。
ベルリン留学、日本の西洋音楽受容・消化の一大過程で日本語と向き合い、北原白秋と協業した山田の名歌とくれば、冒頭番外、『荒城の月』の意味が知れよう。
筆者はその場ではひたすら上野創成音楽に遊んだが、反芻したら深かった。
お見事!

*独奏フルート用作品を遺族の特別許可を得て演奏

(2024/6/15)

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<Program>
Toshiro Mayuzumi: BUNRAKU (1690)
Teizo Matsumura: Air of Prayer (1985)
Madoka Mori: Phoenix (2022) [Commissioned by Michiaki Ueno]
Ikuma Dan: Sonata for Cello Solo (1998)
Toru Takemitsu: Air (1995)
Dai Fujikura: Uzu(2023)[Commissioned by Michiaki Ueno, World Premiere]