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東京交響楽団 川崎定期演奏会第95回|齋藤俊夫

東京交響楽団 川崎定期演奏会第95回
Tokyo Symphony Orchestra Kawasaki Subscription Concert No.95

2024年4月21日 ミューザ川崎シンフォニーホール
2024/4/21 Muza Kawasaki Symphony Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by ⒸTSO

<演奏>        →foreign language
指揮:サカリ・オラモ
ソプラノ:アヌ・コムシ(*)
東京交響楽団

<曲目>
ラウタヴァーラ:『カントゥス・アルクティクス(鳥とオーケストラのための協奏曲)』Op.61
  I.湿原
  II.メランコリー
  III.渡る白鳥
サーリアホ:サーリコスキ歌曲集 (*)
  I.自然の顔
  II.それぞれのこれ
  III.すべてこれは
  IV.私の中の鳥と蛇が
  V.霧を抜けて
シベリウス:交響詩『ルオンノタル』Op.70 (*)
ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調Op.88

 

人はフィンランドと聞いてどんなイメージを抱くだろうか? あくまでも個人的なイメージだが、筆者は「なんとなく青空が澄んでいて樹木とか湿地とかの自然が豊かで人情味のある人たちの国」と漠然とイメージしてしまう。だがこのフィンランドのイメージこそがシベリウスによって作られたものであって、フィンランドのイメージがシベリウスを作り出したのではないのではとも思える。今回のラウタヴァーラ、サーリアホの2作品はこのシベリウスに源流を持つフィンランド楽派のイメージがいかに現代に継承されたかを証し、そしてシベリウスの小品でフィンランド楽派の祖の風格を再認識させる、そう考えてのプログラミングだと読んだ。

鳥と天使の作曲家ラウタヴァーラ『カントゥス・アルクティクス(ラテン語で「北極の歌」)』、第1楽章、鳥を呼び出すかのような不思議なフルートのメロディにつられて鳴き声が聴こえ始める。早朝、鳥たちが目覚める頃であろうか。となるとオーケストラはフィンランドの白い空(のイメージ)であろうか。陽が昇り、鳥たちもまた喜びの声をあげる。第2楽章は何かを求め尋ねるかのような鳥の声に始まり、オーケストラは静謐な自然(のイメージ)に我々を包みこむ。第3楽章、極めて単純化されたオーケストラのメロディに無数・多重の白鳥の声が対峙するのではなく、オーケストラが広々とした天空(のイメージ)を作り出し、そこに白鳥たちが一斉に飛翔する。CD録音では潰れてしまう白鳥の群れの声の粒子がまるでそこに白鳥たちがいるかのように際立って聴こえるのは生演奏ならではの体験。オーケストラと鳥の声の録音の同時再生という、ある意味で安直な取り合わせのようで、これだけイメージを喚起する作品もほかにない。白鳥が飛び去るのに「俺も連れてってくれえ」と言いたくなったのは筆者だけであろうか。

前衛とロマンの間の葛藤を晩年の様式に至って解決したラウタヴァーラに対して、最後まで内なる叙情と外なる現代前衛音楽の形式との間での苦悩に満ちた作曲家人生を送った(と筆者には見える)サーリアホ、その最晩年の本作ではその葛藤が赤裸々な形を取って音楽化されていたように思えた。
自然の残酷さを謳ったペンッティ・サーリコスキの歌詞に合わせられたサーリアホの音楽の残酷さにはどこか峻厳な儀式的な面持ちが見受けられる。ソプラノ、アヌ・コムシの声量の大きさに比例して禁欲性・緊張感が増すという逆説的な音空間に満ちる透明感は何なのだ? これがフィンランドの空気なのか? 人情に基づかない自然の残酷さには罪も罰もない。ただ、あるように生き、あるように死ぬだけ。悲劇ではない残酷さと美の恐るべき融合とも言える終曲を迎えて、筆者にはこみ上げる何かがあった。

シベリウス、交響詩『ルオンノタル』、冒頭の弦楽器の弱音トレモロだけでシベリウスだとわかるからずるい。その後もシベリウスでしかありえないダイナミックなクレッシェンドや鳥の鳴き声のような管楽器など、ずるいにも程があるが、そのマンネリズムに音楽の神は宿る。先のサーリアホ作品では禁欲的に響いたコムシの歌声が、本作では生命力に満ち溢れ、鳥が翼を広げるかのように両手を開いてのフォルテシモなど実に生き生きと美しい。だが、サーリアホの残酷さとは異なるシベリウスの悲劇性と美の融合を耳にして、また筆者はフィンランドの(イメージの)透明な自然を目の当たりにするようであった。

透き通った空と森の音楽、フィンランド楽派の音楽のイメージはこの言葉に尽きよう。

少々プログラミングの意図を掴みかねた演奏会最後のドヴォルザークの交響曲第8番だが、これが存外に北欧フィンランド楽派の後に合う。指揮者サカリ・オラモの采配ゆえであろうが、強弱法、パート間での旋律の受け渡し、室内楽的アンサンブルなど実に繊細かつ大胆。フルートの音が鳥の鳴き声のように聴こえるのはフィンランド楽派に感化されてのことだろうか? 第2楽章も実に和ませてくれたし、第3楽章の聴き慣れた(と書きつつそんなに回数多くは聴いてないはずの)ワルツも改めて聴くと新鮮だ。通俗名曲と呼ばれるにはそれだけの実力が作品になければならないということか。第4楽章のファンファーレは音が澄んでいるのに音圧が高い。元気満点の歓喜に満ちたフォルテから中間部のアダージョを挟んで、そこから俄然ノリノリの最終楽章を駆け抜けてフィニッシュ!見事!

フィンランドから豊かな自然をイメージするのは先入観というものであろうが、今回の演奏会では自然の息吹を自分の肺臓に通した気がした。猛り狂う異常気象の中で地球を穢しつつ生きる我々をはたして自然は赦してくれるのだろうか、などと考えつつ、音楽を思い切り吸い込んだ。

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(2024/5/15)

<Players>
Conductor: Sakari ORAMO
Soprano: Anu KOMSI(*)
Tokyo Symphony Orchestra

<Pieces>
E.Rautavaara: Cantus Arctics Concerto for Birds & Orchestra Op.61
 I. The Bog
 II. Melancholy
 III.Swans Migrating
K.Saariaho: Saarikoski Songs (*)
 I.LuonnonKasvot
 II.Jokaisella on tämänsä
 III.Kaikki tämä (All of this)
 IV.Minussa Lintu ja Käärme
 V.Sumun läpi
J.Sibelius: Luonnotar op.70 (*)
A.Dvořák: Symphony No.8 in G major Op.88