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九州交響楽団第420回定期演奏会|柿木伸之

九州交響楽団第420回定期演奏会
The 420th Subscription Concert of the Kyushu Symphony Orchestra

2024年4月11日(木)19:00開演/アクロス福岡シンフォニーホール
April 11, 2024 / ACROS Fukuoka Symphony Hall [The same program was performed also on April 12.]
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
写真提供:公益財団法人九州交響楽団(Photos by The Kyushu Symphony Orchestra)

〈演奏〉             →foreign language
指揮:太田弦
ピアノ:亀井聖矢
〈曲目〉
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ:祝典序曲イ長調 作品96
フレデリック・ショパン:ピアノ協奏曲第1番ホ短調 作品11
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調「革命」 作品47

 

2024/25年のシーズンから太田弦が九州交響楽団の首席指揮者に就任する。そのことを披露するシーズン幕開けの定期演奏会では、すでに多くの期待を集めているこの気鋭の指揮者の音楽の豊かさが、ショスタコーヴィチの作品の鮮やかな像を結んだ。太田の指揮は、一方で非常に緻密である。今回取り上げられた交響曲第5番のとくに両端楽章の各部分に示される細かなテンポの指定が優れて音楽的に尊重されることによって、この作品において作曲家が追究した、交響曲としての古典的とも言える造形が明瞭に浮かび上がっていた。
他方で太田の音楽の運びは、深く、自然な呼吸によって貫かれていてまったく無理がない。泰然とした趣きすら感じさせる。それによって、四分音符と二つの八分音符のリフレインのリズムに乗って歌われる第1楽章の──ビゼーの《カルメン》に想を得たともされる──第二主題が、深沈とした陰翳を湛えながら歌われたのは印象的だった。その提示に続く展開部において、音楽が一歩一歩緊迫感を強めながら高揚していく過程は、今回の演奏の白眉だったと言える。そのなかで音響は凝縮しながらリズムの躍動を際立たせていく。

そのような発展の頂点で、打楽器を除く全楽器の斉奏によって回想された第一主題は、すさまじいまでのエネルギーを放っていた。同時にその響きは明晰さを失っておらず、そのためにこれまでに聴いたことのない輝かしさを感じた。同様の音楽の高揚は、第4楽章の前半部でも聴かれた。そこでは楽章の冒頭で提示された主題が徐々に速度を高めながら展開されるが、その各局面が描き分けられながらリズムの躍動が強まっていった。展開の頂点では、トランペットと弦楽器によって奏でられる輝かしい旋律がくっきりと浮かび上がった。
その後、悲しみを湛えた歌が紡がれていく流れが繊細に織りなされたところにも、太田の音楽の特徴が表われていたと思われる。その歌がカタルシスに至ろうとするのを断ち切るかのように小太鼓が打ち込まれるところからは、ひたひたと迫り来るように結尾へ向けた流れが形づくられていた。その流れは徐々に力強さを増していくが、響きの明晰さは終始保たれる。コーダのファンファーレは、ほぼ作曲家の指定通りのテンポで奏でられたが、太田は最後の3小節だけは、およそ半分にテンポを落として全曲の終わりを印象づけていた。

こうして太田の指揮は、どこにも無理のない流れのなかで、音楽の展開を、そしてそれを貫く響きを非常に綿密に造形する。その一方で音楽そのものに、彼より年長の指揮者からもなかなか感じられない大きさがあるように思われる。それはショスタコーヴィチの交響曲の中間の二つの楽章で発揮されていたのではないだろうか。第2楽章の音楽は、 低音から刻まれる四分音符と二つの八分音符の組み合わせのリズムによる動機を基調に展開するが、そのリズムには大きな足でぐっと踏みしめるような力強さがあった。
そのおかげもあって、オーボエなどの独奏がアイロニーを強調しながら大胆にテンポを動かしても、音楽全体の流れが損なわれることはなかった。太田の音楽の大きさが最も特徴的に表われていたのは、やはりラルゴの第3楽章の前半部だろう。遠く広がる響きのなかに、地の底から大きなうねりが生じ、そこから哀切な旋律が紡がれていく。その過程が頂点に達した後、悲しみを噛みしめるような動機をチェロが奏でたのに続き、木管楽器による美しい歌が深い闇のなかに浮かび上がったのも感銘深い。

ショスタコーヴィチの交響曲に先立っては、ショパンのピアノ協奏曲第1番が取り上げられた。独奏に立った亀井聖矢は、その技巧と美音を発揮していたのかもしれない。しかし、濁ることのない響きも、抒情的な旋律で見せた大胆なテンポ・ルバートも、ショパンの音楽の内側から生じたとは思えなかった。連綿と歌が紡がれていくのを貫く芯──それはこの作曲家の歌への愛として音楽を貫いているはずだ──の存在は感じられなかった。今回の演奏会において印象的だったのは、やはり太田の音楽の特徴である。
その音楽は、一方では実に大きい。太田は九響から広く、また深い響きを引き出しながら、そのなかに旋律を非常に豊かに響かせていた。彼は独特の自然な息遣いを存分に生かし、前任者の小泉和裕が示した低音からの音響の造形を引き継ぎつつ、それをさらにしなやかな歌として繰り広げようとしているように見える。その一方で太田は、明晰な音響も志向している。そこから求心力を持ったリズムの躍動を、さらには響きの色の繊細な変化を響き出させようとしていることも、ショスタコーヴィチの交響曲からは伝わってきた。

演奏会の冒頭では、同じショスタコーヴィチの祝典序曲が演奏された。そこでは、旋律的な動機とリズム的な動機が有機的に結びつくなかから響きの輝きが生まれているのが印象的だった。そこからやがて疾駆するように音楽が高揚する。このとき発せられた音響のエネルギーも強烈だったが、高揚が頂点に達したところで奏でられる勇壮なコラールに──省略されることも多い──バンダが加わったのはやはり効果的だった。シーズンの開幕と太田の就任を祝う雰囲気が、それによって一気に高まったのは間違いない。
とはいえ、曲の終わりが強く印象づけられた交響曲の結末と、祝典序曲の壮麗な結尾を考え合わせると、引っかかる気持ちも残る。ソヴィエト・ロシアの体制下、機会音楽を含めた作品を書き継いでいかなければならなかった作曲家のなかにわだかまるものが響きに滲み出る場面があってもよかったのではないだろうか。ポーランドへの別れの歌を含んだショパンの協奏曲の響きには、もっと深い哀しみの影が欠かせないようにも思われる。太田の豊かな音楽が、九響との協働を深めるなかでさらに奥行きを増していくことが期待される。

(2024/5/15)

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[Performers]
Conductor: Gen Ohta
Piano: Masaya Kamei
[Program]
Dmitri Shostakovich: Festive Overture in A Major Op. 96
Frédéric Chopin: Piano Concerto No. 1 in E Minor Op. 11
Dmitri Shostakovich: Symphony No. 5 in D Minor Op. 47