芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ第44会演奏会 ヨーロッパ辺境の音楽・その先に|齋藤俊夫
芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ第44会演奏会 ヨーロッパ辺境の音楽・その先に
Orchestra Nipponica The 44th Concert
2024年3月31日 紀尾井ホール
2024/3/31 Kioi Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 澁谷 学/写真提供:芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ
<演奏> →foreign language
指揮:野平一郎
ヴァイオリン:高木和弘(*)
管弦楽;オーケストラ・ニッポニカ
<曲目>
B・バルトーク:『舞踊組曲』(1923)
小倉朗:『ヴァイオリン協奏曲』(1971)(*)
小倉朗:『管弦楽のための舞踊組曲』(1953)
間宮芳生:『オーケストラのための2つのタブロー’65』(1965)
このところ、ぼくは、「足の裏で感じ、足の裏で考える音楽」という考えにとりつかれている。これは根本であり、すべての音楽現象のふるさとであり、音楽の生き死にを左右する重大事なのではないかと。そして音楽の歴史とは、人が音楽をとらえ、音楽を考えるからだの部分が、足の裏から、次第に上へ上へと昇って来た歴史ではなかったかと。……ことにヨーロッパでは。ヨーロッパの音楽の、ぼくらがいま古典と呼んでいる、十八・九世紀の音楽などは、そうした長い歴史の中での、ごく新しい、またごくありふれない特殊な上ずみのようなものではないかとも。(間宮芳生『野のうた 氷の音楽』青土社、66頁)
バルトークと、彼に多大な影響を受けた小倉朗、間宮芳生を並べた今回の演奏会だが、日本の作曲家がただバルトークを真似たのではなく、バルトークのパースペクティブを持って「日本の現代音楽」に確かな足跡を残したことを示してくれた。
まずバルトーク『舞踊組曲』であるが、ここで「あれ?」と筆者は躓いた。金管のフォルテの張りは見事であるが、木管と弦楽器のピアノに生気がなく、アンサンブルが粗い。いや、そのような技術的なことより、冒頭のファゴットから始まるバルトークの〈民族舞踊的ノリと迫力〉が薄い。本稿冒頭に掲げた間宮の文章から引用すれば、「足の裏」の音楽たり得ていない。聴きながら何故だ?と思い続けずにはいられなかった。
それに対して小倉朗の『管弦楽のための舞踊組曲』は先のバルトーク以上にバルトークであった。弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器がそれぞれ個人の妙技を聴かせつつ総体として一つになっている。かつてブラームスに心酔してオグラームスと言われた古典主義者小倉とバルトークに衝撃を受けてオグラトークと呼ばれた民族主義者小倉が一体となって奏でられる均整と破格の綯い交ぜの妙。しかして臈長ける気品と荒ぶる雄渾も「足の裏」から湧き出てくる。第4楽章終曲部では各パート猛り狂い堂々たる了! こうでなければいけない、と喝采。
小倉朗『ヴァイオリン協奏曲』はバルトークのヴァイオリン協奏曲2作を想起させた。バルトークのヴァイオリン協奏曲2作は、民族主義が前衛的な形となって現れた、こう言ってよければ「足の裏」から上の、「頭」で書かれた作品であろう。小倉の本作も、民族的、日本的というにはあまりにも前衛的な響きに満ちていた。第1楽章始まってすぐに前衛的で珍奇な旋法(プログラムによれば完全4度、増4度、完全5度に基づくらしい)によって鋭く切りつけてくる攻撃性はオグラトークと言うにふさわしい。第2楽章の不思議な厳粛さの中に安らぎが内包されている。そして第3楽章の典雅で西洋/日本という二項対立などどこかに捨てた音楽を聴いて筆者は小倉朗という作曲家の素顔をやっと見定めた思いがした。理知的だが、身体を捨てることは断固として拒絶する「足の裏」と「頭」が繋がった作曲家・小倉朗に出会えて本当に嬉しかった。
演奏会最後を飾った間宮芳生『オーケストラのための2つのタブロー’65』、本作に至って間宮はバルトークを遥か彼方へ置いて前へと、前衛音楽へと推し進んでいた。
第1のタブロー、点描的な冒頭から次第に音楽が膨らんでいき、各楽器でミニマルな断片を奏するのだがその総和が恐ろしく巨大な音空間を作り出す。これが紀尾井ホールでのアマチュア・オーケストラの音響か? 音の強弱だけでなく、空間・位置パラメータを把握しきった指揮者・野平一郎の力量たるや!
第2のタブロー、弦楽器のそれぞれが全く一致しようとしない多声部書法に息が詰まりそう。会場内で楽器が声を呼び交し合うのは少々武満徹の『地平線のドーリア』を思わせた。静かだが〈響き〉に満ちた音楽が力を失って消えゆく様は悲劇的でもある。いずれにせよ、バルトークとは全く異なる音楽を達成していたことは間違いない。
しかし、間宮にとっての「足の裏」とは何だったのか? それが今回の『2つのタブロー’65』を聴いての素朴な疑問である。前衛的な、「頭」の音楽のように聴こえたのは筆者の耳が未熟なのだろうか? 紛れもなく傑作だが、「足の裏」とは? まだまだ間宮が提示した音楽のあり方について考えるべきことは多そうである。
(2024/4/15)
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<players>
Conductor: NODAIRA Ichiro
Violin: TAKAGI Kazuhiro(*)
Orchestra: Orchestra Nipponica
<pieces>
Béla Bartók: Tanz-Suite in sechs Sätzen für Orchestra
OGURA Roh: Concerto for violin and orchestra(*)
OGURA Roh: Dance suite for orchestra
MAMIYA Michio: Deux tableaux pour orchestra ’65