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音楽評論の150年 福地桜痴から吉田秀和まで
白石美雪著
2024/4/10発行 音楽之友社
3500円
Text by 丘山万里子( Mariko Okayama)
音楽学者・音楽評論家である白石美雪の10年近い調査・研究をまとめた労作である。明治期から昭和中期に至るまでの150年の近現代史における音楽評論の路程を辿りつつ、「次の150年の音楽評論の担い手たちに、何らかの刺激をもたらしてくれたら」とのあとがきに執筆の願いを読む。筆者は白石の先行世代だが、文学領域でもAI作文が避けて通れぬ問題になっている今日、改めて先人の道を振り返ることの意味は大きい。
全9章は以下。
第1章 「音楽がわからない」音楽評論家
―福地桜痴と「東京日日新聞」
第2章 学校音楽に期待をかける「音楽雑誌」
―四竈訥治(しかまとつじ)の時代
第3章 「一私人の一私言」を超える演奏批評
―一八九八年(明治31年)の『読売新聞』から
第4章 楽壇の画期としての同人雑誌
―「音楽と文学」とその周辺
第5章 音楽評論家の社会的認知と音楽著作権
―昭和初期の批評のすがた
第6章 「近代の超克」と大東亜共栄圏
―総力戦体制下の洋楽と音楽雑誌の統廃合
第7章 アカデミズムとジャーナリズム
―東京帝国大学美学美術史学科から東京藝術大学楽理科開設へ
第8章 「健全な聴取者」というヒューマニズム
―遠山一行の音楽評論
第9章 「音楽的自我」を生きる
―吉田秀和の評論活動
私見による要点と注目事項を列挙する。
第1章)明治初期、音楽史では記述されることのなかった福地桜痴(東京日日新聞主筆)にまず焦点を当てる。音楽を純粋に音の流れとして十分に聴き取る耳を持たず「音楽がわからない」桜痴ではあったが心を感化する力を持つと認識、時論や歴史や文章との関連で音楽を理解、価値判断を行なった音楽評論の先駆けと位置付ける。ここで「わからない」とは、いわゆる楽曲への分析能力の欠如だが、彼の耳が「歌詞」に偏っていたのは周辺の日本の伝統音楽がまずは「語りもの」(詩・内容)であったからであろう。古今東西古代文化初期に現れるのが大叙事詩であることを思えば、言葉への偏向に別段不思議はない。欧化・西洋音楽受容によって私たちの耳は変化はしたが、進化したわけではない。邦楽を聴く耳は退化した、とも言えるのだから。その意味で、「音楽のわからない音楽評論家」福地桜痴を冒頭に据えたについては卓見と思う。
とはいえ欧化が進むにつれ「音楽がわかる」人々が音楽評論の領域を開拓してゆく行程を白石なりの視点で眺めてゆくのが本書であれば、「わからなくても評論能力を持った桜痴」にとどまるのではあるが。
第2章)四竈訥治という『音楽雑誌』の創始者を中心に。明治の学制布告のもと文明開化推進とともに『教育勅語』による天皇制確立という二つの路線を見据えての音楽専門雑誌発行であったとの指摘は興味深い。もっとも、国学者たちがこぞって参集、教育勅語の「聖意に報せん」とする編集にもかかわらず、勅語そのものの誤植を誰一人気づかなかった事実を見逃さないあたり、鋭い。また、唱歌・歌詞掲載など唱歌教育を担いつつ、学校での楽器普及を図る楽器製造者の広告料が雑誌を支える構図は、今でこそ『教育音楽』『音楽の友』と分かれたものの、ここに原型があると知る。創刊号には西洋音楽演奏批評のモデル批評の翻訳も掲載、批評掲載メディアとしての道をも開いた。『音楽雑誌』記者の評掲載後に社に送付された一記者の批評をも掲載、立体批評の試みがすでにあるなど、当誌の編集センスも拾っている。当時の音楽評論・批評の芽吹きを活写、と言えよう。
第3章)今日言うところの演奏批評の開始は文芸に重点を置いた『読売新聞』( 1874年創刊/1897年尾崎紅葉『金色夜叉』連載*)からとする。自他ともに「批評家」と認める神樹生、楽石生らによって演奏会批評が展開される中で、楽石の言う音楽批評家の資格とは「高等教育レベルにおいて和声学、韻律学、音響学といった音楽理論と文学を修めた人物でなくてはならない」(p.111)。 とりわけ1898年『読売新聞』紙上における演奏会評・評論は「自ら有する西洋音楽の知識と経験をもとにした音楽観を持って、実際に演奏された音楽自体を批評するもの」(p.112)とのことで、ここに「音楽のわかる」専門家たる批評家像が出来上がったとも言えよう。先年、批評についてのシンポジウムで読売新聞記者が評論家の資格に「見識と経験」を挙げたが、読売日本交響楽団(1962)を擁しマスコミの長である当該紙の伝統を垣間見る気分であった。
第4章)楽壇を主導する存在としての同人雑誌『音楽と文学』(1916〜1919)の紹介。その編集・発行人であった大田黒元雄は昭和初期・中期の音楽評論を専業(裕福な環境であったからこそ可能)とする日本最初の批評家。「当時の上野音楽学校(ママ)を中心とする独逸派を主流とした保守的アカデミズムに対し、20世紀の現代音楽とりわけフランス印象主義やロシア国民音楽のような新しい音楽を紹介」(著者引用の野村光一の文面を筆者要約)、平易かつわかりやすい文体で一般の人々の共感を呼ぶ。ラジオなど新たなメディアを利用、発信を続けるあたりも含め吉田秀和にも重なろうか。
第5章)1930年『音楽世界』で「音楽ジャーナリズムの覚醒」を宣言した塩入亀輔を取り上げる。記者あがりと学者先生(白石の言葉ではない)、つまりジャーナリズムとアカデミズムの構図がここに明示されたとする。批評の批評として紹介されている1929年津川主一(合唱指揮者)「音楽批評の批評―啓蒙のためにー」が愉快だ。批評家を11種類に分類、曰く「暴力派」「悪たれ派」「幇間派」「不感派」「写真派」「翻訳派」「美文派」「解剖派」「独断派」「感覚派」「○学派」。筆者などどれに分類されるか歴然で笑ってしまった。中井駿二「音楽批評の現在」での三種の批評タイプも面白い。「紹介批評」「鑑賞批評」「裁断批評」。なるほど。
なお、河上徹太郎『改造』での「楽壇解消論」にも触れており、この時期の談論風発(いささか的外れの)を実感。
第6章)今日なお健在の『音楽之友』は戦時の音楽雑誌統廃合によって誕生した雑誌で、鑑賞・教養記事が主体、一方『音楽公論』は評論・研究記事が主体。この『音楽公論』での「鼎談 演奏批評の諸問題」で、記者の「大東亜戦争の輝かしい進展に云々」との前置きにもかかわらず、出席者の野村光一は「一番良い批評はラブレターと共通する。」と至って呑気。が、筆者も執筆にあたり似たような感覚を持つので、少しく驚く。他に山根銀二、園部三郎がこちらも理念や精神の方向だの我が美なるものだので時代や社会の現状への視点はなく、のんびりしたものであったとの指摘。さもありなん。
開戦半年後の1942年の座談会「近代の超克」については竹内好が参加者を3派に分類しているのが面白い。「文学派」「日本浪漫派」「京都学派」。体制下で目論まれたのは「欧米主導の世界秩序から現実に大東亜共栄圏を日本のもとにまとめ上げるために、従来の日本精神を批判しつつ盟主としての日本を位置付ける」(p.239)ことだったが、音楽人参加者諸井三郎について白石が「現実にあった西洋音楽の移入が不徹底で不十分であることが問題と考え、近代の超克とは新古典主義だと考える諸井三郎の議論は、本当であれば空気の読めない、いささか浮いた議論である」、かつ「日本の知識人に西洋音楽が教養として受容されていた現実を反映している」と述べているのも目を惹く。
もう一つ、田邊尚雄を初代会長とする東洋音楽学会の発足(1936)も「大東亜共栄圏の音楽」を主導するバックボーンとの指摘も見逃せない。
第7章)大学や研究機関におけるアカデミズムの専門性と、日常的常識を基盤にメディアを通じて社会へ開くジャーナリズムは水と油と考えられるが、著者自身がそこで学んだ芸術大学音楽学部楽理科の成り立ちを戦後教育改革なしには成立しないものであるとし、以下にまとめている。曰く「明治期の素朴な西洋音楽の導入と新聞の音楽批評の出現とは異なり、アカデミズムとジャーナリズム、大学での人材養成とマスメディアの発信が結合したのだ。アカデミズムとジャーナリズムの矛盾と同一性は、大学が大衆化し、言論がマルチメディア化される戦後の数十年、継続していく。その典型例として、東京藝術大学音楽学部楽理科があると言っていいのである。」(p.271)
ここに至って真の「音楽がわかる耳」を持ち楽理的専門性に優れ、経験と見識ある音楽評論人の輩出が可能となった、ということと読む。
第8章)戦後を担った音楽評論家の一人、遠山一行の評論を[「健全な聴取者」というヒューマニズム]と題して語る。東大大学院美学美術史学科に学んだ遠山は明確にアカデミズムの出身者だが、彼の目指した批評はアカデミズムともジャーナリズムとも峻別されるもので、「徹底した個人主義に基づく“私”の音楽評論」(p.208 )と位置付ける。かつ、その背後にキリスト者としての信仰を見る。筆者は遠山の最晩年に遠山一行論を再度試み、氏の著述はかなり読み込んだが、そもそもこの世代の日本の知識人にとっての「私」が、西欧文化と宗教の関わり(神の問題)と切り離せず、結局のところ「日本の近代(的自我)とはなんだったか」を問わねば至れない道と考え、立ち止まっているところだ。
第9章)年齢的には遠山より先輩だが、本書の最後を飾るのはやはり吉田秀和。白石はここで吉田を「音楽的自我」に基づく音楽評論と呼ぶ。「それは遠山一行のいわば近代市民社会に普遍的な近代的自我とも通じてはいるものの、“徹底的に音楽そのものを聴く”ことを前提としている自我であるがゆえに、独自の表現をもたらしている」(p.326)。音楽的自我とは「音楽と関係して初めて存在しうる自我」(p.314)すなわち「音楽を生きる自我」「絶え間なく変転する音楽的自我」であるとのこと。筆者の理解によれば、つど眼前に現れる音楽と共にその時間を生き、その音との関係性の中で言語化されてゆく自我、であろうか。
吉田もまた「私」で語った評論家だが、筆者も吉田の変転性は看取するところで、流れゆく自己意識の自在性は彼のポリフォニックな文体に表れている。同時に、対象に対する付き合い方もその流動性・自在性にあるように思う。武満、カラヤンなど時々のカリスマへの鋭敏な反応などもそこから来るのでは。
最近、もっぱらアジア、日本文化圏を学習中の筆者には、ひょっとすると吉田の中には「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」(鴨長明『方丈記』)の伝統が流れ込んでいるのかも、などと思うのであった。そう、小林秀雄はランボーから「もののあはれ」にゆくし。
では、遠山は、となるとやはり「神」の在不在がこの両者の異なりの根底にあろうか、と考えた次第。
豊富な資料と丹念な読み込みが光る書である。
「時代の空気の中で真摯に言葉を紡ぐ音楽評論の営みは、活字がフォントになり、デジタルの時代になってもかわらないだろう」というあとがきを心強く思うものの、今や、全ての価値が多様化多元化しており、それぞれの軸、尺、ツールも千差万別。20代の若者たちがどこに軸足を置くのか。いや、だからこそ、次の150年、百花繚乱であることを願うばかり。
(2024/4/15)