プロムナード|感覚とは?|大河内文恵
感覚とは?
What are the senses?
text by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
流行り病に感染した。いわゆる新型コロナというやつである。
熱はたいして上がらず、倦怠感でずっと横になっていた(寝ていたいというより、縦になっていられない!)けれど、喉の痛みも食事は摂れる程度で済み、まぁまぁ軽症だよねと思っていたら、ある日、食事がテーブルに並んでも食欲がわかないことに気づいた。
もう少し正確にいうと、たしかにテーブルの上には食べ物が並んでいるのは認識できるのだが、「食べたい」とか「美味しそう」とか普通にわきあがるはずの感情がまったく起こらない。変だなぁと思いつつ、食べ物を口に入れた瞬間気づいた。においがしないのだ。幸い、味覚には異常がなかったので、口に入れれば味がわかる。すると、食べ物だと認識することができて、少しばかり食欲がわき、(いつもよりは少なめながら)食べることができた。
嗅覚というものが、食欲を喚起する引き金として、ここまで大きく関わっているとは思ってもみなかった。たしかに、街中でカレーの匂いがしてくるとお腹がすいたような気がしたり、出汁の匂いで和食が食べたくなったりというのは経験としてあるから、食欲のトリガーとして嗅覚が機能しているということはわかる。そういった特に強く作用するものでなくても、重要な役割を果たしていることが実感として感じられた。
そう、この時点ではまだそれほどのことではなかったのだ。次の段階に進むまでは。翌日、今度は味がしなくなった。とうとう味覚異常が来たか!と思ったのだが、事はそう単純ではなかった。味覚すべてが失われたのならばまだしも(それはもちろん辛いし不便だが)、失われた味覚は部分的なものだった。
塩味・甘味といった基本的な味覚が失われた一方、苦み・酸味だけ残った。いや、通常よりも強く感じるようになってしまった。すると、すべてのものが、味がしないか、ものすごく酸っぱいか、ものすごく苦いかの三択になる。これはなかなかの苦行である。ここで完全に食欲を失った。というより、モノを食べたくなくなった。何を食べても不味いことがわかっているから。
幸い、味覚異常は丸二日で回復したので、軽いダイエットになっただけで済んだ。味覚と時期を同じくして体調も回復し、通常の生活に戻った。が、世界の見え方はコロナ以前とは変わってしまった。
それまで当たり前にあると思っていた感覚知覚が、いかに脆いものかを知ってしまったからだ。私たちは日々、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった五感を意識的にも無意識的にも用いて生きている。それらのバランスは取れていて当たり前ではなく、じつはちょっとしたことで簡単に崩れてしまう。
そして、自分の持っている感覚は、当たり前のように思えるけれども、他の人がそれと同じである保証はどこにもない。それを、私にとってとんでもなく苦いだけの食べ物を家族が美味しそうに食べているのをみて、つくづく感じた。
自分ではない感覚を持つということは、通常の状態ではあり得ない。自分の普段の感覚は、その瞬間の自分にしか有効ではないかもしれないと頭のどこかに置いておく。何かを感じたときに、それが何なのかを少しだけ客観的に俯瞰でみてみる。そんなことが、その対象へのひいては自分自身への理解につながるといったら大げさだろうか。
そんなことに気づけたからコロナ感染も悪くない、とは1ミリも思わない。もう二度とごめんだ。
(2024/3/15)