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パリ・東京雑感|プーチンはなぜナワリヌイを生かしておけなかったか?|松浦茂長

プーチンはなぜナワリヌイを生かしておけなかったか?
Putin Didn’t Hate Navalny. He Envied Him?

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)  

 

行進するナワリヌイ(中央・2017年)

「ホッキョクオオカミ」と呼ばれる北極圏の強制収容所で、ナワリヌイ氏が殺されたとき、ロシアの公式報道は、まるで国家的危機を伝えるときのような物々しさだった。「アメリカやヨーロッパは、ナワリヌイの死を大げさに騒ぎ立て、あらたな制裁を加える口実にするかもしれない……」などと西側の反応に神経をとがらせるかと思うと、「チェリアビンスク訪問中のプーチン大統領にもナワリヌイ死去が報告された」とわざわざ付け加える念の入れ方。ナワリヌイが生きている間、ロシア政府は、彼をいかさま師あつかいするか、収容所に送り込むためにテロリスト・ナチの烙印を押すかだったし、プーチンはナワリヌイなんて聞いたこともないとばかり、彼の名を決して口にしなかったのに(どうしても彼に触れなければならないときは「有名なブロガー」などと苦しい言い換えで切り抜けた)、死んだとなると、その報道は国際的波紋を気にしたり、大統領への報告を確認したり、国家的重要事のときにしか取り上げない事項を伝え、心ならずもナワリヌイの重みをさらけ出してしまった。

大統領選挙を来月にひかえた土壇場でなぜナワリヌイを殺さなければならなかったのか?プーチンは何を怖がったのだろう?
パリ政治学院のマリー・マンドラ教授は、プーチンを馬鹿げた戦争に駆り立てたのはナワリヌイ現象に対する激しい恐怖だと言う。独裁者は、いつ権力を奪われるか、いつ投獄されるか、いつ殺されるかと、絶えず恐怖におののいているものだ。

ナワリヌイが呼びかけると、たちどころに数万人が抗議デモに立ちあがった。ナワリヌイは、ソーシャル・メディアを使ってプーチンの豪華宮殿(1億人が見た!)やメドヴェージェフ前大統領の広壮な屋敷の特ダネ映像を流し、権力者の腐敗を印象づけた。ナワリヌイのわくわくさせる映像によって、都市インテリだけでなく地方の庶民まで、ロシア社会の底抜けの腐敗と悪に目覚め、プーチン=KGB国家を変える希望を持つようになった。プーチンが権力を握って以来、これほど多くのロシア人がデモしたことはなかったし、右翼ナショナリストから都市リベラルまで、プーチン反対でまとめることの出来る指導者は他にいなかった。

ナワリヌイ支援の集会(2017年サンクト・ペテルブルク)

だから、2017年に大統領選挙に打って出ようとしたのをねらって、投獄。
2020年には、ノビチョクというソ連時代に開発された化学兵器用の猛毒を使って、暗殺が企てられる。シベリアからモスクワに帰る飛行機の中で意識を失ったナワリヌイは、ドイツに運ばれて手当てを受け、一命を取り止める。プーチンとしてはナワリヌイがそのままドイツに亡命してくれることを期待しただろうが、5ヶ月後にモスクワに戻ってしまう。逮捕は覚悟の上だ。
帰国と同時に投獄され、去年12月、北極圏の悪名高い収容所に移され、2月16日ナワリヌイ死去が発表された。

プーチン宮殿の寝室

ナワリヌイの死に対し、バイデン大統領は「考え違いをするな。プーチンはナワリヌイの死の責任を負わなければならない。」と怒りをぶつけたし、おりからミュンヘン安全保障会議に集まっていた世界の首脳たちは、この知らせを聞いて、言葉を失い、目もうつろのショックを受けた。ロシアで反体制政治家が殺されるのはめずらしくないのに、なぜナワリヌイの死は、めったにないほどの衝撃を与え、大きな悲しみと怒りを巻き起こしたのだろう?
米国の駐ロシア大使を務め、ナワリヌイと親しかったマイケル・マクフォール教授は、ロシアがナワリヌイ氏を生かしておかなかったことに驚いたという。毒殺されかかったのだから、いずれ殺されても不思議はないように思えるが、刑務所で殺すのは意味が違うのだろう。
ソ連時代、サハロフやソルジェニーツィンは殺されなかった。いわば不可侵の人物がいたのである。革命後まもなく、レーニンはベルジャーエフ、ブルガーコフといったロシアを代表する哲学者、作家ら160人を<哲学者の船>に乗せてヨーロッパに追放した。世界的名声のある人物を殺すことへの恐れがあったのだ。
しかし、いまプーチンのロシアでは、国際的著名人も抹殺される。新しい時代に入ったのである。
マリー・マンドラ教授はプーチンの心の中をこう読み解いている。

彼は、不倶戴天の敵が、収容所で虐待され、衰弱し、それでも呼吸し続けていることに耐えられなかった。それは、そのまま彼自身の生の不安である……権力を失い、何をやっても罰されない特権を失い、裁判官の前で申し開きしなければならない自分の姿に取り憑かれ、その姿におびえるのだ。
ウクライナ侵略以来、プーチンは自分の犯罪行為を隠そうとしなくなった。彼は白日の下で行動し、自分を晒す。彼はもう体裁を取り繕うことに気を使わなくなった。(マリー・マンドラ『アレクセイ・ナワリヌイ抹殺とウクライナ戦争は、死の体制の二つの顔だ』<ル・モンド>2月19日)

ウクライナ侵略の破廉恥と、衰弱したナワリヌイの息の根を止める破廉恥とは同じ恐怖の二つの表れという理解だ。

プーチン宮殿の中庭

ところで、「プーチンはナワリヌイを憎んでいるのではない。嫉妬しているのだ。」と見る人もいる。常識的に、誰しも憎らしい奴のことはしゃべりたいものだが、妬ましい奴については、名前も思い出したくないものだろう。だとすると、プーチンが決してナワリヌイという名を口にしないのは、彼に嫉妬しているしるしのように思えてくる。
嫉妬説を唱えるのは、ナディア・トロコンニコワ。人騒がせな挑発で知られるプッシー・ライオットの一人だ。彼女は、ナワリヌイの言葉を聞いて、「私たちの国がKGBとクレムリンのボスの所有物と運命づけられているわけではない」ことに目覚めた。そして、ナワリヌイが「美しいロシア」と呼ぶ「永遠のビジョン」を実現するために、フェミニスト・パフォーマンス・グループ、プッシー・ライオットを創設したと言う。覆面とケバケバしい色の服、エレガンスとは正反対の挑発的なダンスがトレードマークだ。パフォーマンスの中でも、モスクワ第一の救世主ハリスト大聖堂に侵入し、「聖母マリア様、どうかプーチンを追い出してください」とお祈りしたのが一番権力の怒りを買い、ナディアさんをはじめ、メンバーの3人が逮捕され、2年の刑を受けた。

みんなはプーチンがアレクセイ(ナワリヌイ)を恐れていると言う。でも、彼がアレクセイを片付けたかったわけは、もっと暗い、もっと不吉な情念だと、私は思う。それは、妬み、嫉妬だ。誰もがアレクセイを愛した。彼のジョーク、皮肉、怖いもの知らずのスーパーヒーロー、そして何より人生への愛をふりまきながら、アレクセイはカリスマの力によって人々を引っぱっていった。皆がアレクセイについていったのは、「彼と友達になれたら嬉しいな」と、だれにでも思わせる、そんな人だったからだ。
人がプーチン氏に従うのは彼が怖いからだけれど、アレクセイに従うのは、彼を愛しているからだ。プーチン氏は、間違いなくこの魅力を妬んだ。どんなに金を使っても、決して愛は買えない。どんなにミサイルと戦車を使っても、人の心は征服できない。(ナディア・トロコンニコワ『プーチンはナワリヌイを憎んだのではない。彼に嫉妬したのだ。』<ニューヨーク・タイムズ>2月20日)

プーチンが嫉妬のあまりナワリヌイを殺したと想像すると、ちょっとホッとした気持にならないだろうか? 彼にも、心の片隅に「愛されたい」思いがあった……? プーチンにも人間の心が残っていた……?
でも、ソルジェニーツィンは秘密警察の観察を通じて、恐ろしい現象に気付いていた。人間には悪を繰り返しても元に戻る復元力が備わっているが、悪の量が一定の限界を超えると、もう元の人間に戻れなくなる。悪の<臨界点>を超えると、人間は人間でなくなるというのだ。

たしかに、人間は死ぬまで悪と善の間をあっちこっち揺れ動き、もがきながら、すべったり、転んだり、這い上がったり、後悔したり、またぼんやりする――だが、邪悪な所業の限界を超えないかぎり、人間はたち戻ることができる。その人自身はまだ私たちの望みの範囲内にとどまっている。悪行の密度、あるいはその程度、あるいは権力の絶対性によって、その限界を踏み超えるとき、その人間はもはや人類を去っていくのだ。(ソルジェニーツィン『収容所群島』)<『パリ東京雑感』2022年7月15日>

プーチンはバイデン大統領の言うように、「人殺しの独裁者・真の悪党」であり、人に愛されたいなどという人間の心は、とっくに失っているのではないだろうか? 彼は「もはや人類を去っている」と考えた方が間違いなさそうだ。
とはいえ、ナディアさんが、プーチンを嫉妬能力=愛されたい心を持つ人間として、彼を「人類」のカテゴリーに含めて考えたのは素晴らしいことだ。そこには、ナワリヌイの美しい闘いの哲学が強く影響しているのだろう。彼女は、ナワリヌイが話すのを初めて聞いたときの衝撃について、こう書いている。

私の人生は、あのスピーチを聞く前と後で二つに分かれる。会場にすし詰めの聴衆は、アレクセイの話を聞いて、自由なロシアは可能だと感じただけでなく、喜びと笑いと友情にあふれつつ、目的を達するのだと感じた。

ナワリヌイが説き広めたのは憎悪ではなく「喜びと笑いと友情」による闘争だった! そこから連想するのが南アフリカのアパルトヘイトとの闘いだ。『遠い夜明け』という映画があった。魅力的な黒人指導者スティーヴ・ビコ(デンゼル・ワシントン)が、警察に惨殺され、彼に惚れ込んだ白人ジャーナリスト、ドナルド・ウッズが、ビコの伝記を出版するため、自宅軟禁から脱出するまでの冒険物語。ビコによって、目覚めた黒人たちは、歌って踊って闘う。歌い踊りながら黒人居住地を行進する数千人の子供と学生を、武装警官が包囲し、石も棒も持たない子供達を狙い撃ちするシーンがあった。700人の仲間たちが殺されても、黒人たちは暴力に訴えずに耐え、歌と踊りと希望を失わない。
南アフリカで働いたカトリック修道士アルバート・ノーランは、黒人たちの闘争体験について「喜びにあふれた、自発的な、解放の歌と果てしなく踊り続ける爆発的な態度」と形容している。
ネルソン・マンデラ大統領が日本に来たとき、記者会見で彼をすぐそばから観察できた。おしゃべりは首相にまかせて、自分は記者たちの間をぶらぶら歩き回る。なにやらリズムに乗って、体をゆすり、楽しそうに歩くのだ。その時は「ヘンな人だな」と思っただけだったが、どんな言葉よりもあのダンスが忘れられない。虐げられ、苦しみ、恨みに結ぼれた心を解きほぐし、ゆったりさせてくれる何かがあそこにあった。暴力と憎悪でなく、喜びと希望の闘いを人々に吹き込むカリスマの片鱗を感じさせてくれたのだ。
ナワリヌイはしばしばマンデラに比較された。27年間投獄されながら、アパルトヘイトをなくすことに成功したマンデラを思い、深い闇に蔽われたロシアにも、ナワリヌイがいる限り、希望がまったく失われたわけではないと、国内国外多くの人が感じていた。
ナワリヌイの命を奪うことは出来ても、<自由>を奪うことは誰にも出来なかった。ナワリヌイは、自由の不死を証明したのだ。彼はこう言っていた。

私は愛の実在を信じます。ロシアが幸せに自由になることを信じます。私は死を信じない。

ナワリヌイの墓に供えられた花束

ジャーナリストがナワリヌイの葬儀に近づくのは難しかったらしく、ニューヨーク・タイムズの記者は、ノヴォシビルスクから2900キロを飛んできた19歳のアナスタシアさんに、電話で聞いている。(記者は即刻投獄。数千人の一般参列者も失職、退学、投獄を覚悟しなければならない。)
ロシアでは、死者にたむける花束の花の数は偶数と決っていて、生きた人に偶数の花を贈るのは不吉とされる。ところが、アナスタシアさんによると、ナワリヌイの葬儀に駆けつけた人たちはたいてい奇数、つまり生きている人に贈る花束を携えていたという。彼女は、そのわけをこう説明した。「あの人たちにとって、ナワリヌイは生きているからです。彼は、私たちすべてより自由な人でした。自由な人として生き、自由な人として亡くなりました。」
危険を犯して葬儀に集まったロシア人は、花の数によって自由の不死を確かめ合ったのだ。

(2024/03/15)