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イリア・グリンゴルツ――無伴奏|齋藤俊夫

イリア・グリンゴルツ――無伴奏
Ilya Gringolts unaccompanied violin recital

2024年2月13日 トッパンホール
2024/2/13 TOPPAN HALL
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール

<演奏>        →foreign language
ヴァイオリン:イリア・グリンゴルツ

<曲目>
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調 Op.27-1
シャリーノ:6つのカプリース
エルンスト:『無伴奏ヴァイオリンのための重音奏法の6つの練習曲』より第1番、第4番
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第5番ト長調 Op.27-5
シャリーノ:6つの新しいカプリースとあいさつ(2023/日本初演)
ヴィトマン:ヴァイオリン独奏のためのエチュード第3番
エルンスト:『無伴奏ヴァイオリンのための重音奏法の6つの練習曲』第6番ト長調『夏のなごりのばら(庭の千草)』
(アンコール)
エルンスト:シューベルトの《魔王》の主題による大奇想曲 Op.26
ヴェストホフ:ヴァイオリン・ソナタ第3番より第3楽章

 

超絶技巧を操る演奏家は多数いるが、その中でも超絶技巧の極みの極みに至ると、超絶技巧がそうは聴こえないようになってしまう、イリア・グリンゴルツの境地はその域に達していた。

まずイザイの無伴奏第1番第1楽章、言わずとしれた超絶技巧を要する作品で筆者の耳に届いたのは「曲がった直線」とでも表現すべき逆説的なきらめきに満ちたヴァイオリンの音。無伴奏ヴァイオリンソナタだから可能なのか、音が自在にうねり、くねる。ベルクの表現主義音楽を聴いているかのような(悪)夢心地がたまらない。
第2楽章に入るとバッハ的規律正しさと一人での多声部書法が勝ってくるが、やはり曲線的な音にたゆたう。でも強音での激しい所は真っ直ぐに切り込んで攻めてくる。
第3楽章はまさかの田園風な趣きでそれまでの緊張感をやや解いて。と思ったら凄くうねるパッセージがまたも襲いかかる。
第4楽章、おお、またもやバッハ。されどうねり曲がりつつ斜に切りかかって厳しく攻め立ててくる。モーダル(旋法)的進行の不可思議感や良し。そこからさらに激しくクレッシェンドして見事に真っ向唐竹割りで了! うねっていたのか真っ直ぐだったのか最早わからなくなってしまったがとにかく見事!

聴いていてこちらが緊張しているのか安らいでいるのかわからなくなってくる作曲家ナンバーワンと筆者が評価するシャリーノは今回のグリンゴルツでもその例外ではなかった。
『6つのカプリース』第1曲は演奏者と聴衆がお互い小さなかすかな音の連奏に頑張って耳をそばだてる。第2曲は第1曲に続き触れなば砕けん音の結晶がキラキラと。第3曲では第2曲のほのかな安らぎを否定して刃物で切りつけるように。第4曲では第3曲の荒々しさをさらに加速させたギョ!ギュ!ギャ!という噪音が耳に突き刺さる。第5曲はキュイキュイと鳴る超弱音が聴感覚を極限まで鋭敏にする。と思えば第6曲で左手での指板の上のピチカートなどでさらなる弱音の極みに達し、全曲が終わってみるとすごく長い時間が経っており、聴覚と同時に時間感覚も変容してしまったことがわかる。こんな体験、そうそうあるものではない。

エルンスト『無伴奏ヴァイオリンのための重音奏法の6つの練習曲』は練習曲ならではの相当の技巧を必要とする作品のはずなのだが……グリンゴルツの超絶技巧によると全く技巧的なものを感じさせず、イザイからシャリーノと聴いてきて少なからず疲れたこちらの耳と脳をほぐす優しさに満ちて聴こえてくる。第1番の重音奏法、第6番の超高速アルペジオなど、安らぐわけがないと思うのだが、実際安らいで聴けたのだからしょうがない。いや、グリンゴルツ見事なり。

休憩を挟んで後半もイザイ、シャリーノ、ヴィトマン、エルンストと前半と相似形のプログラム。

イザイの無伴奏第5番、第1楽章「オーロラ」は曙光を思わせる仄かな光を放って始まり、おそらく長短調ではない調性で印象派風のアンニュイな面持ちが持続する。上行・下行アルペジオが華やいでもどこかアンニュイ。北国の音楽と聴いた。
第2楽章「田舎の踊り」は先のイザイ第1番第4楽章と同じく真っ向唐竹割りが連なる出だしから、弱音に転じて第1楽章にも感じたイザイ的憂いを帯びる。そこから「田舎の踊り」であるはずの重音を駆使した軽やかな舞踊が始まるのだが……グリンゴルツの技巧による速度と音圧が凄すぎる。パガニーニもかくやという超絶技巧を見せつけられ、終曲直後思わず「おおおおおおお……」と唸り声を上げてしまった。

シャリーノ『6つの新しいカプリースとあいさつ』は前半に演奏した『6つのカプリース』からさらにフラジオレットの限界に挑んだ作品。第1曲ではフラジオレットのグリッサンドに遊び、第2曲でもこの遊びが続き、何か暗闇の中でボール遊びに興じる子供のよう。第3曲に入ってどこをどうして出しているのかわからないがとにかくカサカサと乾いた超弱音とフラジオレットが連なり、そこに時折強音が襲いかかる。全く休める所がない。第4曲では第1、2曲よりももっと長いグリッサンドが寂しげに虚空に放たれ、嘆きの歌の風情を偲ばせる。第5曲はまばらな、それぞれ断絶された走句が孤独の中に消えゆく。第6曲はあの世とこの世、死者と生者が木霊で呼び交わし合うような神秘的で透明な体験。シャリーノでなければ、グリンゴルツでなければありえなかった音楽との出会いであった。

ヴィトマンの『エチュード第3番』、右手を痙攣させて弦を引っ掻きつつ左手で弦をピチカート。そこから上行下行アルペジオが始まり……凄いコトになってしまう。何をやっているのか見て・聴いて判別し難い超絶高速・超絶技巧で吠えたぎりつつ上行下行を繰り返す。基本的に同じ上行下行の反復なのだが、その中に技巧がごまんと詰まっている。最後は力尽きて息絶えるようにピチカートがディミヌエンドして終わるのだが、手に汗握るとはこのことであった。

ヴィトマンで力尽きた所から蘇るように始まったエルンスト『夏のなごりのばら(庭の千草)』もまた装飾過多とも言える技巧曲。作曲家はどこまで演奏家の限界を試そうとするのか、演奏家はどこまで自分の限界を突き抜けさせようとするのか、もうこれは音楽家の業といったものなのかもしれない。
さらにアンコール『シューベルト《魔王》の主題による大奇想曲』に至ってさすがに筆者はもう超絶技巧についていけなくなりつつあった。「ヴァイオリン狂一代」といった言葉が頭をよぎる。
だが最後の最後の最後のヴェストホフ『ヴァイオリン・ソナタ第3番、第3楽章』での分散和音と持続音の密かな調べを謹聴して、ああ、音楽って良いなあと改めて思わされてしまった。

作曲家と演奏家、聴衆と演奏家の対決、共にグリンゴルツの完全な勝利である。超絶技巧のさらに向こう側にある音楽の真理の正鵠に的中したリサイタル、生涯忘れ得ぬものとなろう。

(2024/3/15)

関連評|Trio Rizzle meets イリア・グリンゴルツ|齋藤俊夫
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<player>
Violin: Ilya Gringolts

<pieces>
Ysaÿe: Sonate pour violon seul No.1 en sol mineur Op.27-1
Sciarrino: 6 Capricci per violino
Ernst: Aus Sechs Mehrstimmige Etüden für Violine solo
Ysaÿe: Sonate pour violon seul No.5 en sol majeur Op.27-5
Sciarrino: 6 nuovi Capricci e un Saluto(2023/Japan premiere)
Widmann:Étude Nr.3 für Violine solo
Ernst: Sechs Mehrstimmige Etüden für Violine solo Nr.6 G-Dur “Die Letzte Rose”
(encore)
Ernst: Le roi des aulnes, Op. 26 (after Schubert’s Erlkönig)
Westhoff: Violin Sonata No. 3 in D Minor: III.