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カデンツァ|ファビオ・ビオンディのバッハと歴史の動力|丘山万里子

ファビオ・ビオンディのバッハと歴史の動力

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 横田敦史/写真提供:王子ホール 

2022年秋、26年ぶりにエウローパ・ガランテ(1990年創立)を率い、王子ホールに再登場したイタリア古楽界の雄ファビオ・ビオンディ、今回はバッハ無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲演奏を披露する。コロナ禍をバッハに向き合い過ごした日々の果実が味わえるまたとない機会。残念ながら第2部のみ聴く。
開演30分前でも第1部からのファンが興奮冷めやらぬ様子でロビーにくつろいでおり、ちょっと羨ましい。
冒頭一聴で、ああこの音、と思う。
普段、慣れ聴くヴァイオリンが厚化粧の女みたいに思える。
昨今はかなりの老若演奏家が名器(貸与であろうと自前であろうと)を手にし、ホールいっぱいに響くその力強く輝かしい音を、さすが名器、などと堪能しつつ、私たちはあれこれ述べたてる。それが何とも色褪せて感じられる一瞬。

ヴァイオリンのスーパースター、ストラディヴァリウスはクレモナの弦楽器製作者A・ストラディヴァリ(c1649 -1737)が当時の最先端であったN・アマティ(1596 – 1683)のモデルに様々な改良(より美しくより響く)を加えたものだが、アマティもまた彼の先達を超える革新者であった。アマティ一族は、調弦が簡単で弾きやすく持ち運びに便利という実用性によりヴァイオリンを一般に普及させ、宮廷、教会、アカデミー御用達であった16世紀当時の音楽を特定階層から解放したと言われる。当時の「新しい音楽」のための「新しい楽器」だったのだ。あるいは「新しい楽器」が生んだ「新しい音楽」の登場とも。
そのアマティも、ストラディヴァリ(アマティの弟子と言われるが)がさらなる革新者として華々しく活躍するに及び、もはや先端ではない位置を悟る。
ビオンディ使用楽器は1768年製ジェナーロ・ガリアーノ(c1740-c1780)で、ナポリで名をなした楽器製作者のもの。一族の中では最もアマティ、ストラディヴァリに影響を受けているとか。
私は古楽専門家でもなく楽器に詳しいわけでもない。
が、この一音を耳にした時、ふと思ったのである。
私は何を聴いているのか、いや、何を聴きに来たのか、と。
現代人の手(解釈&奏法)による「古い楽器」の「古い音楽」?
ともあれ。
モダン・ヴァイオリンと異なる素朴、質朴、柔らかな響きが、耳を微風のようにわたってゆく。その清々しさに、まず心身をほぐされる。
この響きの味わいを「鄙びた」と形容することが多いが、私は陽光をいっぱいに浴びた干し草の匂いのような感触を覚える。それは自然の雑味が混じってどこか懐かしい。
現代の洗練豊満グルメに慣れた耳にはオーガニックなのだ。
私はパルティータ『第2番』のとりわけシャコンヌを溺愛しているが、昨年ブルネロがチェロ・ピッコロ(2017/アマティモデル)で弾いた時の衝撃はすごかった。
ある種の尖鋭が抉りの深い音響世界を造形し、その壮大宇宙たるやバッハはなんでも可能だ、と、心底平伏したのである。奏者、楽器、バッハに。
昨年暮れには務川慧悟pfのブゾーニ版『シャコンヌ』を聴き涙腺が緩んだ。聖性(清らで聖なる尊きもの)すら感じたのである。
では、ビオンディはどうだったか。
とても軽快かつギャラントだった。音質の持つ温かみと柔らかな光沢、澱みない流れの中に仕込まれた様々なアイデア。それと、務川の速さに匹敵する疾走感。アルペッジョの波などいともさらりと弾き上げ決してエフェクトで盛らない。その分、風通しが良い。
そういえば、と思う。
務川は、子供の頃からバッハ系統が好きで、ショパンやブラームスは苦手だった、と終演後のMCで語った。客席から笑いが漏れたが、その感じ、よくわかる。
いわゆるロマン派にてんこ盛りの「俺俺」的うざったさ。楽譜の向こう側からそれが迫ってきて、演奏はさらにたっぷり調味料をふりかける。それが鼻についてのモダン・スタイル、さらにピリオド・スタイルの登場、となるわけではあるが。バロックにはその種の押し付けがましさがなく、楽譜は必要最小限の骨格のみ。奏者が自分の裁量やアイデアで自由に音楽する余地がたんとある。バッハ作品のキモは、奏者が即興性や想像性を最大限に解き放ち音楽できることだろう。
それに、パルティータはそもそも「舞曲」の連なり。宮廷であれ街角であれ、そこに集った人々を心地よく踊らせるものだから、緩急の組み合わせもそのように出来ている。ビオンディの「舞曲」に客席の幾らかの人たちが軽く身体を揺らすのは真っ当だ。大音響での圧倒、大仰な煽りも不要、彼もまたそのように柔軟に軽やかに弾いて見せたのだ。時々ちょっと目配せ(音で)したりして。
ピッチ、テンポ、ルバート、リズム、フレージング、アーティキュレーション、強弱、装飾、カデンツァ、即興などといった詳細について、ここでああした、こうした、と気づいたり述べたりする耳と関心を私は持たない。
時々、うふ、へえ、とか思い、踊るような心地になれば、それで十分ではないか。
さらに、アンコールでのジーガ(『第2番』Giga)が猛烈に効いた。前半でのそれとは全然違う、まるでロックじゃないか。ここで彼は煽り、燃えた。イェーイ!と拳を突き上げたいほど私は興奮してしまったのである。ジーガは仏語の跳ねるとか、独語のGeige(ヴァイオリン)由来などと言われるが、いずれにしても世俗、民衆に出所があり、旅から旅への放浪楽師が村祭りやさまざまな行事で奏し歌い踊ったその体臭を色濃く残している。それがどんなに刺激に満ちたものであったか。
野性と官能の目眩く乱舞、陶酔。ビオンディの疾駆するジーガはまさにそれ。私はそこに古の楽師たち、村人たちの姿をありありと見たし、同時に、ロックのライブで熱狂する若者たちもさして変わるまい、と思った。
つまり彼は、「新しい楽器」で「新しい音楽」をやったのである。
今、この場で、この時に生まれる音楽は常に「新しい」。

さて、オリジナルとかピリオド、はたまた古楽とはなんなのだろう。
当時と今。作品と人の間にあるもの。
N・アーノンクールは古楽の理解に関し、現代的な響きに慣れた耳には「耳慣れない、ずっと穏やかなオリジナル楽器の響きに慣れてしまうまで辛抱強く聞き続けなければならない。そうすれば、響きの繊細なニュアンスに富んだ新たな(正確には過去の)独特の世界が開かれる。真のバロック時代の響きが現実となる。」と述べている。1)
B ・クイケンは、歴史的真正性(オーセンティシティ)へのアプローチが、決定的な答えや解決策に達することはない、と言う。つまり「究極の真実」などというものは決して存在しないと。同時に、「個人としての真正性」が必須だとも。それは今ここで聴衆に映し出されているイメージには、私という個人が反映している。個人としての真正性とは、私は嘘をつけないし、つくことを望まないという意味である。」2)
A・ビルスマは「演奏というのは、どうやって作品と“聴衆の想像力”の間に架け橋を渡すか」「つまり、聴衆のイマジネーションのなかに“作品の真の姿”を立ち上らせることだ。」3)
「真の」あるいは「真正性」とは?
言い方はそれぞれだが、どれが「真正」という話でもなかろう。
どれも「真正」なのである。

こちらは『古楽の終焉』(ブルース・ヘインズ著)で見つけた言葉。
「音楽家としての私たちに重要なのは、オーセンティシティの実現ではなく、むしろそれを追求することである。ハリー・ハスケルの卓見によれば、オーセンティシティとは、完璧や幸福のように、達成されるゴールとしてよりも、求められる理想としての方が頭に描きやすい(完璧は、どちらかというと絶対概念だが、私の経験では、幸福とは往々にして混ざった、はかない、かりそめのものだ。オーセンティシティもまたそんなものかもしれない)」4)
私はこの言葉にいたく共感する。
ゴールへの過程にこそ、意味があると。

「歴史的知識に基づく活動」と20世紀の民族音楽の発達は同期する。どちらも世紀の変わり目に先駆者が現れ、第二次世界大戦後に新たな発展を迎えた。いわゆる多元主義で、自国文化以外のものの「発見」によって影響を受け、時代的、地理的に世界観が拡大、現在の私たちは情報化社会の中でどんどん更新に迫られている。どこかの考古学的発見が人類史を大きく変えるように。
だが、それもまたコロンブスの新大陸発見とさして変わるまい。
ロマンであろうがモダンであろうがピリオドであろうが、とどのつまりは歴史と自分がどう関わるか、その一点に全ては集約される。歴史をどの尺で測るかもそれぞれで、正しい尺度などあるわけもなく、ただ多くの人は「現時点」からの至近距離で済ませるというだけのこと。そうして、誰かが試みた新しさはやがて多数に共有されオーセンティシティとなり、それが権威はたまた権化となると、また誰かが思いついて新たな新しさがあぶくのように浮き出てくる。
歴史というのはそのように一つの動力を備え、たぶん、先端の一点からの膨張収縮を繰り返す。多様な人間の多様な尺と次元こそがその動力を生む、と言ったら良いか。
それを地球の呼吸、と思えばなんとなく、ビオンディの2つのジーガもすとんと身体に落ちる。

真正性という、儚い、かりそめのものは、それでも追い続ける過程にこそ、意味がある。
それを私は、夢見る力、と思う。
それは、人生の全てに言えることではなかろうか。
久しぶりの銀座は、以前のように訪日客で賑わっていた。
Before and Afterは常に、連綿と、時と人を繋いでゆく。
ビオンディという人が、コロナの巣篭もり期にバッハに向き合ったのは、一つのGiftだったと思う。彼ばかりでなく、音楽家の誰もがそのように「新たに」音楽に出会う契機と時間を持ったのだから。その果実を今、私たちは手にしている、それもGift。
ビオンディのバッハが私にくれたのはそれ。

(2024/3/15)

  1. 『古楽とは何か』 ニコラウス・アーノンクール/樋口隆一・許光俊訳  音楽之友社 2006 p.182
  2. 『楽譜から音楽へ』 バルトルド・クイケン/越懸澤麻衣訳 道和書院 2018  p.178、p.187
  3. 『バッハ・古楽・チェロ』 アンナー・ビルスマ+渡邊順生 アルテスパブリッシング2016 p.122
  4. 『古楽の終焉』 ブルース・ヘインズ著/大竹尚之訳 アルテスパブリッシング 2022  p.347

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ファビオ・ビオンディ バッハ無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲演奏会
[第2部]
2024年2月10日@王子ホール

<曲目>
パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004
〜〜〜
ソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005
パルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006
(アンコール)
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番から 第4楽章 ジーガ
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第1番から 第1楽章 アダージョ