Menu

五線紙のパンセ|疑わしい音楽(1)|池田拓実

疑わしい音楽(1)

Text by 池田拓実(Takumi Ikeda)

■緒言

筆者にとって、音楽とは音を媒介にして考えることである。筆者はコンピュータ音楽家を自称しているが、楽器とは似ても似つかない情報処理装置をわざわざ用いて、作曲や演奏を行うことの意味について考え続けている。因みに作曲も専門的に学んだことはなく、完全に自己流である。それもほとんどの場合は自作のプログラム【池田2016】を使って書く。筆者にとっては作曲=プログラミングである。

コンピュータを使ってすることが何故、他の分野ではなく音楽だったのかと考えると、自分で考えることができる対象が偶々音楽だったから、というだけのことと思われる。筆者は自らを音楽的人間では全くないと考えるが、にもかかわらず音楽を通じて考えていることについて、幾つか本稿で述べたい。

口琴のスペクトログラム

■口琴について

アレクセイ・ニコルスキーら【Nikolsky et al. 2020】によれば、《残念ながら、現在の音楽に関する科学的研究は西側で普及している周波数ベースの音楽にほぼ全面的に偏っている。その結果、音色ベースの音楽のサンプルが西側の研究者の注目を集めるたび、概してそれらは周波数ベースの音楽の「不完全な」実装と見做される》。周波数ベースの音楽とは、専ら離散的な音高組織によって形成される音楽、即ち音階等に基づく音楽である。歌はその代表と言える。対する音色ベースの音楽とは、音色の差異に基づく音楽のことであり、ニコルスキーらによるとシベリア先住民族の口琴の音楽がこれに当たる。

口琴は基本的に単一の弁しか持たない。中国や台湾に複数弁の楽器も存在するが、口琴全体からすると極めて稀である。一本の弁しかないということは、口琴の基音は楽器ごとに一つしかない。したがって口琴が元来音階の演奏を目的として作られたとは考えにくい。口琴の原理は電子楽器のヴォコーダーとよく似ている。弁の振動は言わばキャリア信号であり、口腔や舌を使って信号を「変調」することで様々な音色を得る。

口琴の音色は、鳥獣の声や馬の蹄音など動物による音、雨や川の流れなどの自然音、鍛冶などの生活音、等の環境音の模倣、あるいはオノマトペや言葉そのものによって形成される。口琴を使って言葉を発する場合は、ヴォコーダーと同様に発話者の声の特徴を消すことができるため、個人の特定を防ぎつつメッセージを伝えたり「精霊から身を守る」といった用途で用いられた。狩猟に際しては口琴を使って獲物となる動物の声を模倣することもあった。ということで弦楽器におけるハーモニクスのように、特定の倍音を強調する周波数音楽的な奏法は口琴本来の奏法ではなかったと考えられる。

ところで、音色ベースの音楽という語から筆者が思い浮かべたのは尺八の音楽であった。もちろん尺八には音階を演奏する機構が備わっている。しかし音高の集まりとしての旋律は、言わば尺八音楽におけるフレームのようなもので、長く引き延ばされる各音の中で様々な奏法ないし音色を駆使するのが尺八の音楽であるという印象を持つ。

一般に管楽器や弦楽器といった周波数ベースの楽器は、安定した音高が得られるように改良されてきた。演奏に伴うノイズを軽減し、整数倍音以外の成分を抑制するなど、音高を強調する目的で音色が標準化されている。この種の楽器は同じ音高や和音を演奏する楽器の数が増えるにつれて、より力強い響きが実現できる。そのため自ずとオーケストラのような演奏形態に辿り着く。一方、音色ベースの楽器は合奏に適さない。このことは、同じ文を話す人の数が増えるほど文意は不明瞭になるという喩えから理解できる。

口琴については、他の楽器と比較して音量が小さいことも指摘できる。近年開発された楽器を除く、伝統的な口琴は数メートル先ではほとんど聴こえない。音楽ホールの中ではなく、例えば先住民たちが口琴を演奏したであろう屋外環境においては、尚更遠くでは聴こえ難いと考えられる。したがって口琴は基本的に独奏楽器として、主に近親者や友人など少人数の集まり、または演奏者自身のためだけに演奏されてきた。集団による音楽実践は例外的である。

近年、口琴がマイクによって増幅され、旋律楽器やリズム楽器のような形で合奏に組み込まれているのは、言わば周波数ベースの音楽による音色ベースの音楽の植民地化と言える。現在、ネット上の動画などで見ることができる口琴の演奏が、口琴本来の音楽をどの程度伝えているのか筆者には全く判断がつかない。

一部の専門家は20世紀後半から改良を経てきた現代的な口琴と、それ以前の口琴とを根本的に別の楽器と見做しているという。既知の口琴で最古のものとされる、2017-18年に中国で出土した約4000年前の口琴は、牛の肋骨を素材とする【直川2022】。恐らくは金属製の口琴が現れる以前に作られた、木や竹や骨の口琴はさらに音が小さかった。

ところで、4000年前の骨の口琴が、既知の口琴で最古のものであることは、即ち世界最初の口琴であることを意味しない。骨の口琴が作られるより以前に、より加工がしやすい木や竹で作られた「試作品」が存在したことが想像できる(実際には居住地の変遷によって入手可能な材料が変化したと推測される)。これらの生分解性の遺物が、運よく良好な状態で保存された場合は別として、自然分解を免れて研究の俎上に載ることは単に運次第と言える。それが定住民ではなく移動民の持ち物であった場合には、ほぼ絶望的である。

人類の定住が始まったのは約12,000年前であり、城壁を有する国家の出現は紀元前3,100年頃だった【スコット2019】。数十万年から数百万年に及ぶ人類史全体から見れば、定住生活はごく最近の現象である。数百年前まで、シベリア先住民族を含む世界人口の多くが狩猟採集民や遊牧民などの移動民であり、国家支配と関わることなく移動生活を行っていた。定住民は都市を建設し、際限なく持ち物を増やせるが、移動民の持ち物は最低限である。考古学の発見があくまで定住民にとって有利であり、移動民の痕跡の発見が極めて難しいことは容易に想像がつく。我々の音楽史はこうしたバイアスの下で、オルガンや編鐘などの移動不可能な巨大楽器を含む、定住民族が開発した多種多様の楽器や、集団行動を前提とする音楽実践と共に編まれてきた。

周波数ベースの楽器ないし音楽は、音色の表現を抑制し音高を強調することで、集団による音楽実践を可能にし、かつ文化の一分野を形成するまでに至る言わば高い繁殖能力を得たのだろう。つまり「音楽の起源は人間の社会的集団行動である」等の言説は主に周波数ベースの音楽のためのものである。

集団による音楽実践、例えば合奏を可能とするには音律を整える必要がある。古代中国文明は国家の事業として音律の統一に取り組んだが、単に音楽のためだけではなく単位(度量衡)の統一という行政上の重要な目的があった。十二律の基準音「黄鐘」の基準となる黄鐘律管の長さから、重さや体積の基準も作られた【丘1999】。単位の統一の主たる目的は正確な徴税である。当時の税は穀類によって徴収された。土中に隠しておけるイモ類や収穫期が特定できない豆類は徴税に向かない【スコット2019】。また穀類の栽培のために暦が作られたが、農耕によって新たに確立した時間概念は音楽における反復性、周期性の起源であるかも知れない【スピッツァー2023】。

周波数ベースの音楽は、音高さえ共有できれば異なる文化圏の者どうしでも共演が可能である。また周波数ベースの音楽は現在も多種多様なジャンルに分岐し続けている。周波数ベースの音楽が現代において圧倒的多数派であり、今後も多数派であり続けることには疑いがないように思われる。であるならば、正の頻度依存選択によって少数派の音楽が消滅させられるという予測も強ち不思議ではない。

先に口琴の音色は環境音の模倣やオノマトペ、言葉そのものから形成されると述べた。口琴の音楽が言語に強く依存するならば民族の枠組みを超えられないことが推測できる。同じ現象を表現するオノマトペが言語によって異なるため、ある言語に属するオノマトペが他言語話者には通じないということが起こる【今井・秋田2023】。

音色ベースの音楽文化にも、当然に歌は存在するが、無文字文化において歌は聴いて楽しむものというよりは民族の歴史や知識を記憶し伝達する手段であった。そのため歌において重要なのは歌詞であり、旋律はあくまで副次的要素である。ゆえに他民族の歌を聴いても、歌声が綺麗ですねなどと一応の評価はするものの、音楽としては全くわからない、あるいは他民族の音楽などわかるわけがない、などといった反応が当然に生じる【薛2014】。

集団的な音楽実践が稀である音色ベースの音楽文化では、同じ旋律であっても歌い手の感情状態によって音程が自由に伸縮する。ゆえに間違った音程という概念も恐らくは存在しない。ニコルスキーらによれば、音高の正確性を重視しないこのような音楽文化においては、音色の細かい差異を聴き分ける優れた聴覚の持ち主であっても、音高の不一致に気づかないことがあるという。

音高を合わせるという観念そのものが希薄な音楽文化の存在それ自体が、音楽が必ずしも集団的活動ではないことの証と思われる。その場合、定住民族の生活様式における集団の結束の強化などとは異なる動機の存在を知る必要がある。定住社会においても、権力者を除く人口の大多数にとっての音楽実践は専ら労働の現場にあっただろう。本来音楽とは生活の中での出来事であって、音楽のための音楽などというものは極めて近代的な現象である。

周波数ベースの音楽と音色ベースの音楽との間の際立った差異は、定住民族と移動民族の生活様式の差異の反映と言えるのかも知れない。ニコルスキーらによれば《多くのシベリア先住民族の生活様式において、音楽は孤独な思索と現実の抽象的表現の手段として機能する》。既知の音楽史が専ら周波数ベースの音楽についての語りであり、その基盤が人類の定住生活にあるのだとすると、いわゆる共感性や協調性を重視する「神経学的定型性」に対する「非定型的な」音楽実践に関心を持つ筆者にとっても「個人的な音楽としての音色ベースの音楽」は興味深い切り口と言える。

コミュニケーションとしての音楽等「定型的な」音楽実践がある一方で、実験的な音楽のように必ずしも共感性や協調性を前提としない「非定型的な」音楽実践も確かに存在する【若尾2017】。音楽とは即ち定型的な活動であるという世界観が支配的である状況では、非定型的な音楽実践は(当事者自身においてすら)異端的と認識されるかも知れない。然るに、定型的な音楽実践が、仮に定住民族の生活様式によってブーストされたものだったとすれば、こうした世界観を絶対視する理由もまたないと言える。

drop E(2018、部分)

■音楽は「聴くもの」か?

などという問いは当然の事ながら奇異に思われるだろう。通常、私たちは再生装置を使って音楽を聴き、または演奏会へ音楽を聴きに行く、などと言うからだ。より正確には「聴衆にとって音楽を享受する方法とは果たして聴くことだけなのか」を問うている。

前世紀末に登場したファイル共有サービスNapsterは登場から間もなくパッケージビジネスとしての音楽産業から烈しい非難を浴びたと記憶する。この時期に普及していた音声ファイル形式であるMP3によって軽量化された録音物が、無制限に複製、私的共有されることによって「音楽文化が消滅する」と喧伝された【谷口・中川・福田2015】。だが当時の筆者はNapster等の登場を、記譜法の登場以来の「音楽のデータ化」を突き詰めた果ての必然と捉えていた。

例えば五線記譜法によって、音楽は音高(周波数)と音価(時系列)の2次元的データ構造に還元された。その結果、音楽の記録と再現が容易になり、紙に書く作曲や作品の流通という概念も生じただろう。次いで、MP3等の音声ファイルの中身とは、空気振動の時系列変化のデータである。空気振動の振幅波形は聴覚またはフーリエ変換によって周波数分布に変換、認識される。五線記譜法と音声ファイルは、周波数と時系列という西洋音楽の基本構造を共有しているとも言える。音楽のデータ化を突き詰めた結果、音楽の「持ち運び」が容易になり、結果として音楽文化が消滅してしまうのであれば、音楽家は楽譜に書けないことや録音しても意味がないことをすべきであろう、と当時の筆者は単純に考えていた。

録音技術の登場によって、音楽は演奏家の身体を介することなく時空を無視して再生または複製し得るものとなった。そこに様々な問題が指摘できるとはいえ、録音物の再生は現代ではごく一般的な音楽鑑賞の手段と言えるだろう。その上で、今日現在の音楽文化は(かつての音楽産業の危惧に反して)未だ健在であるように思う。あるいは我々の気付かないうちに何かが変質しているのかも知れないが。私見では、録音技術の擡頭により「音楽とは(見るものや、~するものではなく)聴くものである」というような認識が定着したかも知れないことが最大の問題である。

作曲家の三輪眞弘は録音された音楽を「録楽」と呼び、生演奏される「音楽」と区別している【三輪2010】。三輪曰く《ただひとつ「音波に関わる」ということだけが「音楽」と似ていても、他は何ひとつ「似ていない」》。録楽という語が示唆するのは、音楽の器としての演奏家の身体または社会の不在と考えられる。他方、筆者が危惧するのは、より至近距離の問題である。つまり録音技術によって音楽から視覚情報等が失われた結果、演奏や作品の意図などが不明になるのではないかということである。かつ、この問題は実験的な音楽において顕著になるだろう。

例えば三輪眞弘『またりさま』(2002)は、8人の演奏者が円状に並び、演奏者たち自身が論理演算を行いながら鈴とカスタネットを演奏する作品である[VIDEO_1]。とはいえ三輪が提唱している「逆シミュレーション音楽」【三輪2003】の方法論や、三輪によって記され、作品の重要な部分を成す架空の「由来」等、一切の予備知識なしに録音だけを聴いたとすれば、本作が何を目指し、何がどのように行われているのかは全く想像もつかないだろう。ある意味で『またりさま』は録音が意味を成さない作品と言える。

あるいはジョン・ケージ『Inlets』(1977)。演奏者は水を入れた巻貝を使って演奏するが、巻貝が音を生じるタイミングは偶発的であり、さほどコントロールが効かないように見える[VIDEO_2]。そのような事情も実演を見ることで初めて理解される。以上は極端な編成の例であったが、通常の器楽の編成でも事態は同様である。例えばモートン・フェルドマン『インターミッション第6番』(1953)。ピアニストは「打鍵時のアタックは最小限にし、ほとんど聴こえなくなるまでその音を押さえ」なければならない【高橋2022】。録音で聴く限りはとにかく音数の少ない音楽という印象だが、実演の様子を見ると演奏者が音と音の間をどのように過ごしているのか、どのようにして次の音に向かうのか、などの振る舞いを否応なく見ることになる[VIDEO_3]。かつ視覚情報が加わることで、聴衆の時間経験も、単に録音を聴く場合とは異なるものになるだろう。体感的には思ったよりも短い曲だったなどと感じたりするのである。

無論、フェルドマン自身はこうした現象を音楽外の夾雑物として退けるかも知れない。だがいずれにせよ、見ると聴くとは大違いということは、これらの音楽に接する際に無視することができない。視覚情報が音楽鑑賞に及ぼす影響に関する、数多くの研究については本稿で触れないが、実演に接することと録音を聴くことの双方について、それぞれの優劣等ではなく明らかに体験の質が異なるということは指摘できるだろう。録音技術が「音源を隠す」効果を持ち、その影響が無視できないことについては後述する。

(2024/2/15)

——————–

Nikolsky, A., Alekseyev EY, Alekseev IY, Dyakonova VE, “The overlooked tradition of ‘personal music’ and its place in the evolution of music”, 2020 https://doi.org/10/gmnfww【Nikolsky et al. 2020】

池田拓実『LotusRoot』2016- https://github.com/piperauritum/LotusRoot【池田2016】

今井むつみ、秋田喜美『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』中央公論新社、2023【今井・秋田2023】

丘光明『中国古代度量衡』加島淳一郎 訳、1999 https://dl.ndl.go.jp/pid/10631958【丘1999】

ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』立木勝 訳、みすず書房、2019【スコット2019】

マイケル・スピッツァー『音楽の人類史 発展と伝播の8億年の物語』竹田円 訳、原書房、2023【スピッツァー2023】

薛羅軍『音楽との学問的対話』2014 https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013665【薛2014】

高橋智子『モートン・フェルドマン 〈抽象的な音〉の冒険』水声社、2022【高橋2022】

直川礼緒『アジアの発掘口琴チェックリスト(6):薄板状の口琴(5)と湾曲状の口琴(4)』2022 https://tcm-minken.jp/publication/IE_B11202104.pdf【直川2022】

谷口文和、中川克志、福田裕大『音響メディア史』ナカニシヤ出版、2015【谷口・中川・福田2015】

三輪眞弘『音楽における3つの「相」に基づく「逆シミュレーション音楽」の定義』2003 https://www.iamas.ac.jp/~mmiwa/rsmDefinition.html【三輪2003】

三輪眞弘『三輪眞弘音楽藝術 全思考一九九八―二〇一〇』アルテスパブリッシング、2010【三輪2010】

若尾裕『サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方』アルテスパブリッシング、2017【若尾2017】

またりさま [Matarisama] https://www.youtube.com/watch?v=7W3sB2LZNwc[VIDEO_1]

Inlets | 2008 | John Cage 100th Anniv. Countdown Event https://www.youtube.com/watch?v=3-wF0zrev7c[VIDEO_2]

Morton Feldman: Intermission 6 / Hiroshi Yokoyama https://www.youtube.com/watch?v=FdGY6F8D9aU[VIDEO_3]

——————–

池田拓実 Takumi Ikeda (1975-)

コンピュータ音楽家。作曲家。主な作曲作品は東京現音計画、実験音楽とシアターのためのアンサンブル、ヴォクスマーナ等の演奏団体、演奏家によって委嘱初演されている。トロンボーンと9軸センサー、バリトンとコンピュータ、ピアノとサウンドトラック、木管二重奏と携帯端末などのエレクトロニクスを伴う作曲作品の他、合唱のための音楽、即興音楽家のための記譜作品等を作曲。Tambuco Percussion Ensembleによる日本人作曲家レジデンシー・プロジェクト(2013)に参加。「映画としての音楽」他、七里圭監督作品の映画音楽の作曲および生演奏付き上映。木下正道・多井智紀と共に「電力音楽」として活動。Ftarriおよび自身のBandcampから複数の作品集、ライブ録音をリリース。作曲補助プログラム「LotusRoot」の開発と公開。第4回AACサウンドパフォーマンス道場優秀賞(2009)。近作にセンサーを装着したダンサーによる屋外パフォーマンス「Unboxing」(阿竹花子、Iannis Zannosとの共作。NIME2023選出)。

公演情報、作品表、ディスコグラフィ、動画リンクなど
https://de-dicto.net/wp/

作曲作品の解説文
https://github.com/piperauritum/ProgramNotes

Unboxing (2023)
https://www.youtube.com/watch?v=1c7LcC510MU