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カデンツァ|伝統と傳燈〜本條秀太郎の端唄から|丘山万里子

伝統と傳燈〜本條秀太郎の端唄から

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:Hakuju Hall

ここ数年、邦楽に興味を持つようになったのは本誌連載中の『西村朗 考・覚書』でその領域を多少なりとも知る必要があってのこと。
歌舞伎はそれなりに親しんできたが、能は幽玄・侘び・寂び云々が小難しく敬遠(只今学習中)、伝統邦楽の箏、尺八などは最近ファッショナブルな若手たちの台頭で(1960年代後半以来のブーム再来か)、ミーハーな私はたまに覗いてはいる。だが三味線は何やらお座敷音楽的偏見により、全く触らずであった。
が、昨夏のMUSIC TOMORROW 2023で、 2020年秋逝去の一柳慧が完成した最後の作品『ヴァイオリンと三味線のための二重協奏曲』(2021)を見聞、三味線の凄さに驚愕したのである。
ちょうど年明けに開催された「Hakuju 邦楽フェスタ 2024」初日の第1部《「序」 ~これぞ伝統の真髄・真骨頂!日本伝統音楽の名手による古典と現在 本條秀太郎 ― 白眉no音空間 ― 回帰する傳燈のいま》を発見、いそいそ出かけた。まず過去を手ほどきしてもらい、飛んで「今」というのは初心者にはありがたい。
さらに惹句の「傳燈」に目がいった。この字句は仏教由来でブッダが入滅時、弟子たちが頼るべき師がいなくなったらどうしたらいいのかわからない、と泣き騒ぐのに「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」1)と告げたことに基づく。灯明(燈明)とはこの法、つまりブッダの「真理の教え」を言う。例えば比叡山延暦寺の根本中堂の燈は最澄が建立(788年)以来今日に至るまで朝晩、灯芯に菜種油をそそぎ燈火を絶やさない。「不滅の法燈」と呼ばれる所以で、仄暗い堂内に灯る燈は心の芯なのだ。対して、私たちが日常に使う「伝統」は、血統・学問・思想・風習などの系統、あるいは昔から引き継がれてきた事柄を伝えること(『大字源』より)。そもそも統べる、は物事の統一、統括の意。心の芯とは異なる。
そこを汲んでの「傳燈」とする歴史認識にも惹かれた。いや、伝統と傳燈が並んでいることに何やら意味あり、と読んだわけだ。
それに「現代端唄」として、なんと寺山修司の詩歌が並んでいるではないか。

三味線の舞台は初めてなので、しつらえが寄席の高座みたいに見える。袴姿の親子3人(長男秀慈郎、次男本條秀英二)が並び座り、楽器を調弦などするのを見るだけで実に新鮮。
幕開けは俚奏楽『露のいのち』(1986)で、三味線渡来以前の旋律の持つ古趣を残し、渡来後の初期三味線音楽の復元曲『小倉踊』の送り(後奏)を室の津(播磨灘)の賑わいとして取り入れ、キリシタン音楽の旋律を歌い込んだ作品(プログラム解説より)とのこと。使用楽器は最も古風な柳川流の三味線。俚奏楽(りそうがく)とは1971年秀太郎が創始した古典に現代的解釈と創造を加えた独自のジャンルだそうだ。
とにかく、耳目を澄ませる。
残念ながらキリシタン音楽の旋律を聴き分けることはできなかったが、思ったより高音で柔らかな声と節回しに少し驚く。いわゆる、艶のある声。三味線の音は澄んでなお多種多様な響きを纏い、その多層にまたまた驚くうち、終わってしまった。
さて端唄に入るが、以降は後付けで得た知識をまぜこぜに述べる。
素でまず音と声を体感のち背景を知り、なるほど、と得心のわけだが、体験・理解はそれによってむしろ濃くなったように思う。

三味線の渡来は琉球経由(三線)で、16世紀半ば、室町末期という。すでにオルガンも演奏されていたが、キリシタン禁制で江戸から明治にかけ鎖国中の日本音楽で独自の発展をした。三線の祖型は中国の三弦。この日、後半に使われた胡弓はインド起源でアラビアのレバーブがもと。胡弓渡来は16世紀末で、箏・三味線とともに3曲合奏に重用されたがやがて尺八に取って代わられたという。
そんな三味線音楽には二系統あり、最初にこの楽器を手にした琵琶法師による「語り物」(語りを重視した叙事的表現:浄瑠璃系など)と、旋律を重視する「歌い物」があり、こちらは端唄、長唄、地歌などが含まれる。
で、ここがポイントなのだが、本條秀太郎は民謡、民俗芸能なども広く渉猟、時代時代で変化しつつその基底に流れる「歌(流行歌なども含め)と三味線」の出会いを探求、現代作品創造へと繋ぐ挑戦を長く続ける人なのであった。
したがって当日並んだ11曲の端唄は、都々逸、新内など言葉は知っていてもまともに聴いたことのない私には手ほどきそのもの。秀太郎による解説もあって助かる。
冒頭の創作曲とはだいぶ趣が異なり、いわゆるお座敷で披露されるような(行ったことないが)唄と三味線。しっぽり日本情緒漂う夜の祇園的雰囲気での『春風』に、これこれ、このイメージ、と思うものの、やっぱりナマで聴くとなんだか心が微妙にとろける、というかどこかをくすぐられる感じ。周囲で、お座敷遊びを楽しむ金満男たちの話を耳に挟むたび、何だかなあ、と、それもまた心遠ざけるところでもあったのだが、納得感あり。
3丁うち揃いリズミックな刻みにのって歌われるウキウキ感満載『三くだりさわぎ』2)(プログラム解説:三味線独特のグルーブ感漂う“手”(フレーズ)と、全く自由に歌われる“オブリガード”の唄)に、以前ちらっと見た津軽三味線合同演奏のような迫力を感じ、楽しい。
『都々逸』『とっちりとん』『二上り新内』(:日本のカンツォーネ、フラメンコ)に、三味線は撥弦楽器と同時に打楽器なのだと実感。先の二重協奏曲でもその打楽器性に刮目したのだが、愚かしくもそれを現代奏法的にしか理解していなかったのだ。胴が一種の太鼓で、バチは撥弦とともに太鼓面をも打ち、それがどれほど音楽にリアリティをもたらし、多様な表現と呼吸を生み出すか。とりわけ後半の寺山修司で衝撃を受けることになる。
『酒の座敷』『しんの夜中』(:くどきとも言う“間”を自由かつ得意げに歌い上げる日本の“アリア”)はユーモラス。幼い頃に母(熊本出身)が演芸会(我が家とか幼稚園)で得意げに歌い踊った『おてもやん』を思い出し、ちょっと懐かしい。
日本の四季を歌った『萩のしおり戸』『我がもの』『玉川』、哲学的風貌を感じさせた『露は尾花』で端唄は終了。
それぞれに多様な表情が見てとれ、唄と三味線との絡み具合(合いの手だったり伴奏だったりリズム打ちだったり)に、その奥深さを実感であった。

だが、脳天激打はやはり後半、現代端唄の寺山修司。
現代文学や俳句を用い、アヴァンギャルドな音世界を構築と解説にあったが、あたかも文楽を観るごときシュルレアリスム。その悽愴なドラマトゥルギーに圧倒されたのである。
私はまず一柳作品での三味線の凄さに驚愕したわけだが、そこに歌、語り(言葉)が加わった時の世界の深さは類が無い。とりわけ『偏愛』という作品に宿るまさに「歌心」(燈のあの心の芯)が生み出す声と響きの造形。
これだ。
これこそが、私たち日本の底の底に宿る(眠る)歌と語り(言葉と音)の真髄・心髄なのだと激しく撃たれたのである。
『偏愛』とは、『寺山修司メルヘン全集9 かもめ』に収録されている『愛十色』からの創作。「愛十色」は女性10名(松井須磨子、小奴、織田一枝、川島芳子、川上貞奴、高村智恵子、山崎富榮、与謝野晶子、伊藤野枝、松旭斎天勝)それぞれの愛の姿を詩う10編からなる作品。そのうち取り上げたのは与謝野晶子と山崎富榮3)だが、その山崎によせた寺山の詩と秀太郎の歌、声の織りなす音調に胸抉られたのである。テキストは以下。

山崎富榮
――太宰治とただ二人
  紐で結びあって玉川へ
(以下主催者より送られたテキスト画像を添付する。不鮮明だが、原本を書き写すより縦組みの日本語の調べを感受するに必要と判断する。)

お断りしておくが、プログラムに歌詞はない。したがって、与謝野晶子はともあれ山崎富榮を私は知らなかった。全く何の情報もなくただ聴いたのである。言葉は聴き取れるところと不明なところとがあり、地声での朗読(語り)の部分と、唄と三味線と胡弓(大胡弓)の部分、三味線と胡弓の合奏部分とに分けられることくらいしか、その構成も演奏法も分からなかった。
それでも受けたものは凄まじかったのだ。
地声は秀太郎の男声での語りである。「あの人は生まれてきてすみませんと言いました。」それは、はっきりわかった。いかにも寺山世界だ。メモを取ろうにもテキストがないから断片のみで、自分でも何と書いたか分からない。それでも、何やらただならぬ気配に「さびしい男、さびしい女、赤とんぼ」が耳に届き、秀太郎の口説き(というのか)の調べに川底に引き摺り込まれるような気分になる、胡弓が入って哀切さがぐんと増し、あとはただ眼前に浮かぶ文楽的世界(実は『曽根崎心中』を観たばかり)に胸を掴まれていた。切れ切れの「意味」を脳裏に浮かべ、声の変化、音の綾・彩につれその脈絡を思い浮かべ...そんな頼りない想像聴取。しょうもない男としょうもない女の話。舌切り雀、恋をして、家も夫も捨ててきた...。
最後の節の「赤とんぼ」の後、三味線のバチが凄惨な音(ね)で虚空を裁断、「それではみなさんさようなら」。そうして終句の地声語り(心中記事部分)で、そういうことか、と内容を理解したのであった。
声の変化、と言ったが、その微妙さは到底言葉にならない。ただ、伝統的端唄でも認識した高音ファルセットの類も含め、今のヒップホップと何ら変わらない表現様式と思う。現代歌謡でもいつからか男声ヴォーカルの音域がやたら高くなり、昨今はこの領域を自在に行き来しシーンを変化させるスタイルが花盛り。おんなじじゃん。

残念ながらこれ以上のことを述べるのは私には無理。
でも、思う。
「伝統」が、多様な形式様式に分化分枝した歌・唄の姿を、形あるいは型に留め伝えるものであれば、「傳燈」はそれらの「芯」にあるもの、すなわち「真理」を探り当て一筋に立ちのぼらせる。
ならば秀太郎の多様な歌・唄の研究が「伝統」を学ぶもの、その探求で掘り当て抽出した「心髄」は「傳燈」と呼ぶべきものであろうと。「伝統」「傳燈」が並んだのは、そういうことであったのか、と。
『偏愛』の真理とは、いつの世であれ、どこの地であれ、人が味わう「愛別離苦」(人を愛し別れ離れる苦しみ)。これは普遍だ。

別段、邦楽領域に限ることではない。
見回せば、端唄がヒップホップ、はたまたロックでさえあるように、私たちの日常に「伝統」「傳燈」はいつもセットで並んでそこここに立っているのではないか。
寺山修司もまたその両者にまたがる人であり、本條秀太郎もそうであろう。
そうして一柳作品で目覚ましい演奏を聴かせた秀慈郎、あとを追う秀英二もまた。

私は昨夏、心身を崩してから、ふと思い立ち、もう10年触れなかったピアノ(耳を壊し、さらに手首靱帯断裂の痛みで)をリハビリに弾くようになった。最初は10分しかもたなかったが、だんだん時間が伸び、昔弾いた小曲をポロポロ鳴らす。
バッハの平均律、ショパンのプレリュード。
歌が浮かぶ。声が聴こえる。
あれ? これ、端唄と同じじゃないか。
人の歌心(芯)はどこも変わらない。
世界が広がったようで、ちょっと嬉しい。

(2024/2/15)

  1. 『ブッダ 最後の旅』大パリニッバーナ経 ワイド版岩波文庫 194 2001
  2. 三下り、二上りは調弦法のこと
    例)本調子:h-e-h 二上り:h-fis-h 三下り:h-e-a
  3. 『寺山修司メルヘン全集9 かもめ』マガジンハウス 1994

参考文献:『日本楽器法 CD付き』三木稔著 音楽之友社 1996
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Hakuju 邦楽フェスタ 2024
2024/1/13@ Hakuju Hall

<出演>
本條秀太郎(唄、三味線)
本條秀慈郎、本條秀英二(三味線、胡弓)

<曲目>
◆俚奏楽
本條秀太郎(詞:秋元松代):露のいのち
◆端唄
都々逸、春風、三下りさわぎ、都々逸、とっちりとん、二上り新内、酒の座敷、しんの夜中、萩のしおり戸、我がもの、玉川、露は尾花
◆現代端唄
本條秀太郎(詞:寺山修司):秋風
本條秀太郎(詞:寺山修司):与謝野晶子
本條秀太郎(詞:寺山修司):偏愛

結び
夜の雨

<楽器編成>
◆端唄
本條秀太郎のみの歌い弾き(三味線):都々逸、二上り新内、我がもの、玉川
◆現代端唄
秋風:
本條秀太郎(三味線)
与謝野晶子:
本條秀太郎(三味線)
本條秀英二(大胡弓)
偏愛:
本條秀太郎(三味線)
本條秀慈郎(三味線)
本條秀英二(大胡弓)
(編成については主催者よりデータ提供いただきました)