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九州交響楽団第418回定期演奏会|柿木伸之

九州交響楽団第418回定期演奏会
The 418th Subscription Concert of the Kyushu Symphony Orchestra

2023年12月8日(金)19:00開演/アクロス福岡シンフォニーホール
December 8, 2023 / ACROS Fukuoka Symphony Hall
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
写真提供:公益財団法人九州交響楽団

〈演奏〉        →foreign language
指揮:小泉和裕
ソプラノ:並河寿美
バリトン:青山貴
合唱:九響合唱団
合唱指揮:横田諭
〈曲目〉
ヨハネス・ブラームス:ドイツ・レクイエム 作品45

 

九州交響楽団の音楽監督を今シーズン限りで勇退する小泉和裕は、このオーケストラと継続的にブラームスの作品を取り上げてきた。小泉と九響は、2021年3月31日に開催された第384回定期演奏会では交響曲第1番と第4番を、また同年12月8日に開催された第400回定期演奏会では第2番と第3番の交響曲を演奏して、すでにブラームスの交響曲ツィクルスを完成させている。雄大な自然の風景に抱かれる喜びを、重厚でありながら躍動感にも富んだ響きで歌い上げた第2交響曲の演奏は、とりわけ印象的だった。
両者がブラームスの演奏の集大成に選んだのは、ドイツ・レクイエム。作曲家が最初の交響曲を書き上げる前に、尊敬する先達シューマンと母親を亡くしたことを契機に作曲したこの声楽を伴った大作は、人生の労苦と無常を噛みしめながら、死者の魂の平安を祈る。その歌のためにブラームスは、ヘブライ語聖書とギリシア語聖書の双方からテクストを選び、そのドイツ語訳に曲を付けているが、今回の小泉と九響の演奏は、そのようにして作られた音楽の持つ、時代を越えて人の心に訴えかける力強さを際立たせていた。

第1曲の冒頭からバスの踏みしめるような歩みが耳を惹く。それに始まる低音の動きがレクイエム全体を貫いて音響の基層をなすと同時に、絶えず深いところから祈る声をこちらへ運んでいた。小泉は、これまでに聴いた彼のブラームスの作品の演奏に通じる仕方で、オルガンを含めたバスの動きを、その響きとリズムの双方において浮き彫りにすることに力を注いでいたように思う。なかでもコントラバス奏者たちはそれによく応えて、全体の音響を支えながら、人の歩行を感じさせるかたちで音楽を運んでいた。
そこに旋律が折り重なって生まれる第1曲の響きは、聴く者のなかへ優しく沁みわたりながら、その心を深いところから彼岸へと開く。それがいったん静まったところで合唱が歌う「悲しみを背負う者は幸いである」という言葉には、真摯な祈りがこもっていた。その響きからは同時に、ブラームスのレクイエムを、宗教などを越えて人の心に灯を点す音楽として歌う温かさが感じられた。そうした特徴を示す合唱は、九響合唱団に福岡県内各地の合唱団のメンバーが加わった150名に及ぶ規模だったが、各声部の求心性を最後まで保っていた。

このような合唱と、低音の歩みの上に力強く生動する響きを重ねたオーケストラが一体となって一つの頂点を形づくったのが、「つまり肉体はみな草のようであり、人間の栄光もみな草の花のようだ」と人の生命のはかなさを歌う第2曲だった。巡礼者の列のように、あるいは葬列のように一歩一歩踏みしめながら進む人々の内側に、生の棘とも言うべき苦しみが仮借なく刻まれていく。それに耐えながら救いを求める祈りが、そびえ立つように、それでいて温もりを失うことなく響いたところには、今回の演奏の特徴が表われていよう。
第2曲では、その後テンポがアレグロに転じると、救済を確信する声がオーケストラの躍動に乗ってほとばしり出るように響いたが、対照的に、この世の終わりにおける死者の変容が歌われる第6曲のヴィヴァーチェの一節においては、響きの堅固な造形と踏みしめるような歩みが印象的だった。それによって救済への確信がいっそう力強く響きわたる。地上をさまよい続ける魂が向かうべき先を世界の終末に見いだす、この曲の黙示録的とも言うべき劇性──そこにあるのは無常から永遠への反転である──の表現に、今回の小泉と九響、そして九響合唱団によるドイツ・レクイエムの演奏のもう一つの頂点があったと思われる。

小泉和裕によるブラームスの解釈において特徴的なのは、音楽の展開に人間的とも言うべき劇性がありながらも、それがけっして皮相に終わらないところだろう。先に触れた二つの交響曲の演奏でもそうだったが、一音たりと未消化に終わることはない。それぞれの音の響きが低音から造形され、作品全体のなかで不可欠の位置を占めている。そのために九響のアンサンブルが、低い重心を持ちながら柔軟に躍動するかたちで磨かれてきたことも特筆されるべきだろう。今回の演奏ではそこに深い願いが込められていたことも示されていた。
第2曲と第6曲で一対になるような頂点が形づくられた後に続く終曲における切々とした歌とその澄んだ響きは、「人々は労苦から解かれて安らぎを得る」ことを求めるそれまでの6曲の一歩一歩に込められてきたものの昇華された姿を示していた。それが声と管弦楽が一体となって響くところには、小泉がブラームスの音楽をつうじて伝えようとしてきた内実が象徴されていたにちがいない。そのような意味で、一つの集大成としての演奏の感触があったとはいえ、今回に関してはいっそうの響きの彫琢を求めたいところもあった。

中間の曲の抒情性が基調となる部分で、ピアノの表現がさらに繊細であればと思うことが何度かあった。やはり150名に及ぶ合唱の規模は、ブラームスのレクイエムには大きすぎたのではないだろうか。その音量に拮抗しようとするあまり、ヴァイオリンをはじめ高音の響きの一体性と静けさが損なわれる場面が散見された。もちろん今回の合唱の規模は、いかに多くの人が小泉の指揮の下で歌うことに喜びを見いだしていたかを物語っている。昨年の10月8日に聴いたマーラーの「復活」交響曲の演奏の印象からも、それは理解できる。
とはいえ、やはり音楽としての精練が、全体のアンサンブルの面からも追究される必要があったように思う。独唱では青山貴の歌唱が、力強くも澄みきった声で不安を抱えた魂の祈りを明瞭に浮かび上がらせていたのが忘れがたい。第3曲でバリトンの独唱は歌う。「人間はまぼろしのように移ろい、むなしい不安を抱え込む」。今回ブラームスの大作は、苦難の地に置かれた人々の底知れぬ不安と、自分たちの安寧の脆弱さを顧みながら、死者とその魂に思いを馳せる者の救いを願う祈りに満ちたレクイエムとして、会場を満たしていた。

(2024/1/15)

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[Performers]
Conductor: Kazuhiro Koizumi
Soprano: Hisami Namikawa
Baritone: Takashi Aoyama
Chorus: Kyushu Symphony Choir
Chorus Conductor: Satoshi Yokota
[Program]
Johannes Brahms: Ein deutsches Requiem Op. 45