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小人閑居為不善日記 |ダンジョンと世界の終わり――《終わらない週末》と《ダンジョン飯》|noirse

ダンジョンと世界の終わり――《終わらない週末》と《ダンジョン飯》
Dungeons and the End of the World 

Text by noirse : Guest

※《終わらない週末》、《ダンジョン飯》の内容に触れています 

 

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昨年の10月28日、俳優のマシュー・ペリーが世を去った。マシューといえばシットコムドラマ《フレンズ》(1994~2004)で、ニューヨークに住む男女6人の日常をコミカルに描き大ヒットを記録。911テロが起きた際も放送を実施し、多くのニューヨーカーの記憶に残る、お化け番組となった。

わたしも《フレンズ》は毎週見ていて、一見調子がいいけれど、皮肉やユーモアを口にすることで壁を作らなければ他人と接することができない、屈折したマシューのキャラクターに親近感を覚えたものだった。しかしマシューはキャリア絶頂期の20代後半からアルコールやドラッグの依存症に悩まされていた。その死もケタミンの急性作用が起因だったらしい。

《フレンズ》放送終了後の動向も注目を集めたが、こうした要因により、その後マシューが大きな成功を収めることはなかった。同じように90年代を代表するモンスター番組も、次第に忘れ去られていった。

ところがひょんなところで《フレンズ》と再会することになった。Netflix配信映画《終わらない週末》(2023)は、いわゆる「世界の終わり」を扱っている。ニューヨークに住む4人家族が週末を過ごすためロングアイランドの別荘を借りる。ドライブ中に娘が《フレンズ》をタブレットで見ているが、突然Wi-Fiが繋がらなくなる。そのうち次々と異様な事態に巻き込まれ、やがてアメリカ各地で深刻なテロが起きていることが分かっていく。

わたしは正月に《終わらない週末》を見たのだが、地震や衝突事故のニュースがひっきりなしに入ってきて、妙なシンクロニシティを感じながらの視聴となった。けれどもことさら暗澹とした気分にはならないのは、不穏ながらも洗練された映像が、見る者に甘美な終末を約束するからだ。

映画《渚にて》(1959)からマンガ《少女終末旅行》(2014-2018)まで、終末を日常の延長のように捉え、時に審美的に表現する作品群には一定の人気があり、《終わらない週末》にもそうした気配がある。しかしこの映画が甘やかに感じられる理由はそれだけではない。

《終わらない週末》の舞台は限定されていて、登場人物は主人公の白人一家と、富裕層の黒人の親子がほとんど。あとは助けを求めるも見捨てられる移民の中年女性と、粗野な白人男が出てくるくらい。裕福な黒人一家の娘が白人社会を批判する一幕があるが、リッチな生活に慣れきった子供が粋がっても皮肉にしか響かない。

これはメインキャストはもちろん、準レギュラーまでほぼ白人で固められていた《フレンズ》にも通じる。《フレンズ》が一大旋風を起こした頃のアメリカは、未来に夢を託すことがまだ許されていた。《終わらない週末》ではブラックストリートやネクストといった90年代R&Bも懐古的に使用され、30年前へのノスタルジーを隠そうともしない。しかしそのあいだにも確実に足元は揺らぎ始めていた。その時既にマシュー・ペリーがドラッグに蝕まれていたように。

 

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《終わらない週末》の世界の終わりは、せいぜいアメリカの、それもごく一部の白人や富裕層の最期に過ぎない。もっとも、だからこそ年末年始の娯楽として消費するのにちょうどいいくらいの刺激を見る者にもたらすだろう。

衝突した無人自動車が道路をふさぐシーンは、パリに住む夫婦の週末が地獄めぐりへと変貌する、ゴダールの《ウイークエンド》(1967)を下敷きにしているのだろう。けれどカニバリズムにまで行き着くゴダールの「終末」と比べたら、《終わらない週末》のそれは甘くデコレーションされたケーキ程度のものだ。

ただし当時のゴダールはまだ毛沢東を信じていた頃で、《ウイークエンド》の終末も実質資本主義の終焉のこと。《終わらない週末》は《ウイークエンド》を口あたりよく翻案したと考えることもできる。

《終わらない週末》の終盤、持ち主不在の地下シェルターに忍び込んだ長女は、《フレンズ》のDVDを見つけて再生する。「高濃度の放射能を確認した」というメッセージが流れる一方で、《フレンズ》最終回のオープニングが始まり、軽快なテーマ曲が空々しく鳴り響く。

《フレンズ》の最終回は、長いモラトリアム期間を過ごしてきた6人が止まった時間に居座り続けることをやめ、それぞれの道を歩み始めるため、共同生活を解消するというものだ。前に進み続けるという《フレンズ》の引用を、アポカリプス下でのポジティブなメッセージと受け取ることもできるだろう。

けれどどちらかといえば、《フレンズ》のDVDは、また一話冒頭から再生することを促しているように感じる。資本主義が格差を生み、白人社会への憎悪を高めていく。資本主義に蝕まれ、厭いながら、けれども否定することもできず、享受し続けるしかない。ゴダールも結局は共産主義のプロバガンダ映画から離れ、レマン湖のほとりに引きこもっていくしかなかった。

もはや月並みになった「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」という言葉が示唆する通り、世界が終わっても資本主義は生き延び続けるのではないかという皮肉が、シェルターで再生される《フレンズ》に込められているのかもしれない。

 

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わたしも終末ものは好きで、それを決定付けた作品のひとつがゲームの《真・女神転生》(1992)だった。吉祥寺や渋谷といった実在の街がカタストロフに呑み込まれ、悪魔が跋扈するダンジョンと化す設定に夢中になったものだ。

1980年代から90年代にかけての日本はRPG最盛期で、多くのゲーマーがドラクエやFFのダンジョンを攻略した。人気はマンガやアニメに飛び火して、今では異世界転生ものやなろう系など、RPGの設定を借りたジャンルが活況を呈している。

昨年連載が完結し、この冬にアニメ化も開始したマンガ《ダンジョン飯》(2014-23)もそのひとつだ。千年前に滅亡した黄金の国が眠る巨大なダンジョン。主人公ライオスはドラゴンに食べられた妹を救うため、仲間と共に救出に向かう。ダンジョン内には魔力が充満しており、消化される前なら妹も魔法で蘇生できるはずなのだ。ネックは食糧問題だったが、ライオスは魔物を都度料理することでその解決を図ろうとする。

ファンタジー作品が大量生産される中で《ダンジョン飯》が一際光ったのは、魔物を調理するグルメマンガという一風変わった設定にあったが、本当に真価を発揮したのは作品中盤からだ。この作品のダンジョンは人の欲望を食べて成長するという特性があり、閾値を越えると魔力が地上へ溢れ出し、世界が滅亡してしまう。ライオスが心変わりし迷宮の主になった場合、その欲望を喰らったダンジョンが暴走する恐れがある。ライオスは仲間思いの好人物だが、魔物オタクでもあり、魔物になりたいという欲望を抱えている。

結果、ある人物が悪魔と契約し、迷宮の主となってしまう。その目的はエルフやドワーフなどの長命種と、人間などの短命種のあいだに横たわる寿命の長さの違いをなくすという願いで、けして利己的なものではなかったが、結局その欲望はダンジョン成長のトリガーとなってしまう。

《ダンジョン飯》で最も引っかかったのは蘇生術のくだりだ。命を落としても復活できるのだから、死を前提とした戦法すらあり得る。軽く一蹴できない倫理的な戸惑いは、始めは作品の弱点だと思っていたが、読み進めるうちに命が軽く扱われるからこそかえって生の問題に近付けるという意味で、ファンタジーものの急所を逆説的に活かしていたと気付いた。

ダンジョン、洞窟、地下というのは、言うまでもなく人の心のメタファーだ。奥底へ降れば降るほど、押し隠している欲望が明らかになっていく。

同時にダンジョンは揺籃でもある。RPGのプレイヤーが何度もダンジョンへ向かってしまうのは、母親の胎内が落ち着くからだ。《終わらない週末》の地下シェルターも、白人だけの同質的な場所へ閉じこもりたいという心情を示している。わたしが《真・女神転生》にハマッたのも、世界が滅んだあとのダンジョンにモラトリアムを求めていたのだろう。

《ダンジョン飯》は一風変わったグルメマンガから、最後には食を通して孤独と共存の問題、そして生死の問題を扱う作品に変貌していった。迷宮の主となった人物は孤独を恐れていた。友人たちが死んでいき、ひとりになることに耐えられると思えなかった。

最終話に「私たちにとってこの旅は/死を受け入れるためのものだったと思う」というセリフがある。ライオスたちは、ダンジョンという名の、死が排除された胎内から地上へ戻ることで、まるで生まれ変わったように死を受け入れる心を持ち帰ってきたのである。

 

4

《ダンジョン飯》が訴えるメッセージがあるとすれば、強い欲望を持つことの危険性と、健全な食生活の維持によるセルフケアの精神だろう。「健康な精神は健康な肉体に宿る」というところだ。しかし過激派やテロリストも、時にとてもストイックに身体を鍛えるものだ。

ライオスも田舎の村の閉鎖的な環境が耐えがたく、出奔して軍学校に入るもいじめに遭うなど、暗い過去を抱えている。他者の感情の機微を読み取れず、人間よりも魔物にシンパシーを感じ憧れる彼は、危うさを抱えたサイコパスでもある。

低欲望社会などと呼ばれるように、消費活動が衰退していると各所で指摘されている。けれども人の欲望はそんなに簡単に減少するものではないだろう。車を買わなくなったとしても、ひと昔前と価値観が変わり、欲望の対象が分散しただけではないか。

高価な買い物ができなくなっても、低価格の娯楽はいくつもある。物価は高くなる一方だが、映像作品や音楽など様々な娯楽がサブスクで楽しめるし、コミュニケーションも様々なアプリで手軽に得ることができる。そしてクライストチャーチやノースカロライナであったように、スマートフォンで全世界に実況しながら、人を殺害して回ることも難しくない。

テロリストやシリアルキラーの何割かは強い承認欲求に突き動かされている。現在のデジタル環境はその欲求をスムーズに実現できるようにした。「世界の終わり」に簡単に手を染め、容易にアクセスできる今、それと比べたら《終わらない週末》はお茶の間向けのスイーツにしかならない。

ライオスはダンジョンから生還し、十分すぎる社会的地位を得て、友人に恵まれた人生を送る。しかし仲間と巡り合うことがなかったら、ライオスはどうなっていただろう。もしかしたら自らのダンジョンに巣食う魔物に呑み込まれていたかもしれない。

孤独に蝕まれたライオスは、どうすれば奈落に転落しないようにできるのだろうか。多種多様なスイーツで気分を紛らわせばいいのだろうか。それとも適切な食事を取り、黙々とセルフケアに勤しめばよいのだろうか。そうすれば魔物にならないで済むのだろうか。世界の終わりを夢見ないようになるのだろうか。マシュー・ペリーのような、悲しい死を回避できるのだろうか。

(2024/1/15)

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noirse
佐々木友輔氏との共著《人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅》発売中