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プラチナ・シリーズ第3回 OKI DUB AINU BAND~欧米で喝采を浴びるアイヌルーツミュージック~|齋藤俊夫

プラチナ・シリーズ第3回 OKI DUB AINU BAND~欧米で喝采を浴びるアイヌルーツミュージック~
Platinum Series 3 OKI DUB AINU BAND

2023年11月11日 東京文化会館 小ホール
2023/11/11 Tokyo Bunka Kaikan Small Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 飯田耕治/東京文化会館

<Artists>        →foreign language
OKI DUB AINU BAND
 OKI(Vocal/Tonkori)
 沼澤尚(Drums)
 中條卓(Bass)
 HAKASE-SUN(Keyboards)
 Rekpo(Vocal/Dance/Tonkori)
 内田直之(Recording & Mixing)

<Program>
OROURU ROAUN
KENT HAKKA TUHSE ~ UCHAORE
SATCEP
HEREKAN HO
MUKKURI
KONKON
HEKURI SARARI

TOPATTUMI
OSORO OMAP
CITY OF ALEPPO
MUYSOKA HANENE
HONKAYA
EAST OF KUNASHIRI
〈アンコール〉
KAI KAI AS TO
UTUWASKARAP

 

OKIは北海道アイヌの子孫で、樺太アイヌの弦楽器「トンコリ」を電気的に音量増幅して弾きつつ歌う現代アイヌ音楽のトップスター的存在。筆者は数年前(もしかするとOKIの師匠筋に当たるのかもしれないが)OKIより何世代か上の伝説的アイヌ歌手、安東ウメ子の奇跡的CD「イフンケ」に出会ってから芋づる式に現代アイヌの音楽を辿ってOKIを知った。彼のCDは全て揃えたはずだし、中でも2001年発売の「KAMUY KOR NUPURPE」は名盤であると断言する。
しかし筆者はOKIたちとどう顔を突き合わせれば良いのか、ずっと悩みながら演奏会に臨んだ。もし和人とアイヌを截然と分けることのみが妥当であるならば、筆者は征服者であり、OKIらは被征服者であり、そこに融和の余地はない。もし人類みな兄弟といった現実的でも理想的でもない盲目的な観点から見るならば、和人とアイヌは共に溶け合ってしまいそれぞれの民族固有の歴史も文化も消え去るのみである。では、どのようにして現代アイヌの音楽に現代和人の筆者は向かい合うべきなのか?

第1曲「OROURU ROAUN」でトンコリに先導されてRekpoのボーカルが始まったときのなんとも言えない安らぎは筆者の懸念(?)と肩ひじの強張りを取り去った。伊福部昭を魅了したアイヌ音楽のオスティナートが身体と心に染み入る。これだ、これを求めていたのだ。
第2、3曲「KENT HAKKA TUHSE ~ UCHAORE」の野卑/高尚の分を無化する朴直かつ雅びな響き。2人で同じフレーズを淡々と反復する、ただそのことにたまらなく癒やされる。
第4曲「SATCEP」1)Rekpoのボーカルが色っぽいが朴直な田舎娘の可愛らしさ。それに対してOKIのボーカルが渋く立ち昇る。やがて「イチャリコテレケレ」の反復で盛り上がり、器楽がさらに上昇して了。
第5曲「HEREKAN HO」はまたRekpoのボーカルで「ヘレカンホー ヘレカンホイ ヘレカンホー ヘイチョッアンホー」が反復され、歌いつつ踊る。北国の炉端での和やかな宴といった風情。
第6曲「MUKKURI」、ムックリとはアイヌの口琴。ムックリの反復にキーボード、ベースが乗るとグッとフュージョン、ジャズの都会的な香りが濃厚になるが、それでもやはりアイヌの音楽であることは失われない。
第7曲「KONKON」、「コンココン コンココンコン コンコンココン……」と変拍子が延々と続くのにOKIが聴衆のレスポンスを求めるが、ライヴハウスならぬ東京文化会館の聴衆はあまりにシャイでレスポンスは初め僅かであったが次第にクレッシェンドしたのも事実。なんだ、俺たちにも歌えるじゃないか。
前半最後の第8曲「HEKURI SARARI」はボーカルにキーボードが被さりテクノっぽい音楽と化す。だが「ヘクリ サラリ ハハフイ ハハ」の力強い反復に、これが「現代」アイヌ音楽かと妙に嬉しく筆者は感じた。

間宮芳生は『現代音楽の冒険』において民謡のようなローカルな文化を基層文化とし、それが文明社会の中で流通する形へと変貌したものを都市文化と定義した。間宮は基本的に都市文化は基層文化で生まれてきたものを消費するだけだ、としながら、基層文化の担い手が直接にそれを都市文化に持ち込んで新たな文化の創生を果たした例もある、とも言っている2)。OKIたちダブ・アイヌ・バンドはこの後者に当たると言えるが、筆者はそこにもう1つの視点を加えたい。それは同一民族をうたっている国民国家の中で、その同一民族に擬態しつつ、内部から異民族として国民国家の同一民族的秩序を撹乱する可能性である。さらに間宮は他の場所で、フォークロアは翻訳不能な隠語的文化であるとしている3)。東京文化会館で鳴り響くアイヌ語とはまさに都市の中心で鳴り響く隠語の謂ではないか。どこからともなく現れるアイヌを目前にして、さらにそのアイヌの音楽に酔いしれる、ここに現状に反抗する1つのユートピア的可能性を見出すことは不可能だろうか?

第9曲(後半第1曲)「TOPATTUMI」は器楽のトゥッティにこもる力が野性的な感覚を醸し出す。OKIのある時は語りある時は歌うボーカルが力と情を同時に表出する。
第10曲「OSORO OMAP」ではボーカルのRekpoに会場が手拍子を合わせる。北国の優しいブルース。
いまだ内戦が終わることのないシリアのアレッポにOKIが捧げた第11曲「CITY OF ALEPPO」、それまでの長調(のように聴こえた)トンコリの調弦がこの曲では短調(のように聴こえる)となり、悲しげな箏曲のような風情を帯びる。次第にバンド全体の合奏へと遷移しモダンでテクノのような雰囲気に。「今」を感じさせる曲であった。
第12曲「MUYSOKA HANENE」では聴衆による輪唱を試みるも上手くいっていたかというと少々疑問。筆者は楽しかったが。
第13曲はアイヌの船漕ぎの歌「HONKAYA」、これまたプリミティヴィズムがたまらなく沁みる曲。見たこともない理想郷への憧憬を呼び起こされる。
プログラム最後の第14曲「EAST OF KUNASHIRI」では日本民謡音階に近い音階を使っていたように聴こえ、従って広大な北海道的ならぬ日本的・和人的侘しさをまとっていた、が、これも現代アイヌの音楽であることは確か。反復が延々と続き、かなりの音量のはずなのに心を柔らかくほぐしてくれる。最後は盛り上がって……了。

アンコール2曲「KAI KAI AS TO」「UTUWASKARAP」もまた楽園的な憧憬、俺も連れてってくれ、と言いたくなるような音楽、歌唱。幸せなはっぴいえんどを迎えさせてくれた。

過去も現在も和人によってその存在を否定されたアイヌ、言うなれば和人に刃を突きつけられたアイヌが、拳を突き出すのではなく、握手の手を差し伸べてきた、そのように筆者はOKIたちのステージを見た・聴いた。その優しいラディカリズムはどうあってもはっぴいえんどに帰結させねばならない。今、ここに、あなたがいて、私がいる。そのことは誰にも否定させない。それが和人たる筆者の決意である。

1)第4曲を「SATCEP」としたが、筆者の手元にある音源の「SATCEP」と演奏会の記憶に齟齬がある。ひょっとして「SATCEP」を元とした何曲かのメドレーではなかったのかとも思うが、ここは東京文化会館のページに倣った。
2)間宮芳生『現代音楽の冒険』岩波新書、1990年、204-206頁。
3)間宮芳生『野のうた氷の音楽』青土社、1980年、101-103頁。

 

(2023/12/15)

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<Artists>
OKI DUB AINU BAND
 OKI(Vocal/Tonkori)
 NUMAZAWA Takashi(Drums)
 NAKAJO Takashi(Bass)
 HAKASE-SUN(Keyboards)
 Rekpo(Vocal/Dance/Tonkori)
 UCHIDA Naoyuki(Recording & Mixing)

<Program>
OROURU ROAUN
KENT HAKKA TUHSE ~ UCHAORE
SATCEP
HEREKAN HO
MUKKURI
KONKON
HEKURI SARARI

TOPATTUMI
OSORO OMAP
CITY OF ALEPPO
MUYSOKA HANENE
HONKAYA
EAST OF KUNASHIRI
〈アンコール〉
KAI KAI AS TO
UTUWASKARAP