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シューベルト 約束の地へVol. 3 答えなき“謎” ハーゲン・クァルテット|柿木伸之

シューベルト 約束の地へVol. 3 答えなき“謎” ハーゲン・クァルテット
Schubert – Toward the Promised Land Vol. 3: An “Enigma” without Answer; with Hagen Quartett

2023年11月5日(日)14:00開演/住友生命いずみホール
November 5, 2023 / Sumitomolife Izumi Hall
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
Photos by Sumitomolife Izumi Hall|写真提供:住友生命いずみホール

〈演奏〉        →foreign language
ハーゲン・クァルテット
ヴァイオリン:ルーカス・ハーゲン
ヴァイオリン:ライナー・シュミット
ヴィオラ:ヴェロニカ・ハーゲン
チェロ:クレメンス・ハーゲン
〈曲目〉
クロード・ドビュッシー:弦楽四重奏曲ト短調Op. 10
フランツ・シューベルト:弦楽四重奏曲第15番ト長調D887

 

ⓒ樋川智昭

叫ばなければならない時がある。名状しがたいものが心の底から次々と湧き上がり、破裂しそうになるなら、ただ声だけを発散させるほかはない。自身の爆発を先取りしながらそれを模倣するかのように。そして、声が消えた後の静寂は、人が次の瞬間にも落ち込むかもしれない狂気の深淵を開いている。人の生の歩みのなかに時に訪れるそのような出来事の瞬間を、音楽としていち早く鳴り響かせた一人がシューベルトだろう。彼の弦楽四重奏曲第15番ト長調(D887)は、このことを示す一曲である。
最後の弦楽四重奏曲となったこの作品は、空間を引き裂くような付点リズムの動機から始まるが、そこにこのような内奥からの叫びがあることを、11月5日に大阪のいずみホールで聴いたハーゲン・クァルテットの演奏は、聴く者を揺さぶる衝撃とともに伝えていた。決然と、しかしどうしようもなく声が吐き出されるかのように動機が奏でられる際の音響の密度には瞠目させられた。そして、それが鳴り止んだ後の静寂の何という深さ。そこから徐々に風景が開かれ、その上を動機のかけらが漂う。

©桶川智昭

その風景を自然のそれとして織りなしていくのが、この弦楽四重奏曲の全曲を貫いて特徴的に聴かれるトレモロであるが、それがこれほどまで有機的に運動するのを、今回初めて耳にした。時に風のそよぎのように柔らかに吹き寄せ、また時に空間全体を激しく震動させるというように、大きな振幅を示すトレモロの表現は、音響に豊かな奥行きをもたらすだけではない。それは情動と共振し、魂の深奥へ浸透してくる。そのことが、第二楽章における叫びの噴出に結びつく。その過程をハーゲン・クァルテットの演奏は説得的に示していた。
このアンダンテの楽章では、孤独な歩みとその寂寞を感じさせる旋律を基調とする部分が二度にわたり、第一楽章の冒頭を思い起こさせる付点リズムの動機によって中断される。やがて巻き起こるトレモロの激しい運動は強い叫びに凝縮されるが、それが今回聴く者を揺さぶったのは、音響からつねに生体の運動とその肌触りが感じられたからだろう。ただし、ハーゲン・クァルテットのトレモロの表現は、生体がつねに分解、すなわち死滅と隣り合わせのところで生命をつないでいることも伝えていた。

ⓒ樋川智昭

シューベルトの最後の弦楽四重奏曲に現われる動機が、数えられない──言葉にならないと言ってもよいだろう──震動(トレモロ)から生じ、最後にはそこへ還っていこうとする動きを示すことも、今回の演奏から伝わってきたことの一つである。それは、無限の自然との一体性への憧憬でもあるような死との親和性を示しているのかもしれない。意志を感じさせる付点リズムの動機が、第一楽章の最後に語るような歌となって回帰したとき、しおれていくように響いたのが印象に残る。そこからは、諦念を越えた感慨が感じられた。
無限の広がりを示す風景のなかから、時に強烈な意欲を露わにしながら、あるいは消え入るように、声が歌となって、言葉にならないまま漂う。その過程を貫く要素の一つは、今回の演奏会を含むいずみホールの「シューベルト 約束の地」シリーズをコーディネイトする堀朋平の著書『わが友シューベルト』(アルテスパブリッシング、2023年)によれば変奏である。そのことは演奏でも意識されていたかもしれない。第一楽章の第二主題と見られる旋律は、提示部では抒情的に歌うかたちで、再現部ではマルカート気味に、自然の脈動に引き寄せたかたちで演奏されていた。

ⓒ樋川智昭

このような委曲を交えつつハーゲン・クァルテットは、「大作 magnum opus」への野望を抱きながらこの時期のシューベルトが逢着した境地を、間然することのない演奏で示していた。そのどこまでも自然な息遣いは、生体と風景の共振を、死の近さにおいて示すものでもあった。最終楽章で、これまでの動機がタランテラ──死の舞踏だ──のリズムに巻き込まれてどこまでも落ち込んでいくなか、生への渇望の歌が、多くの演奏に見られるように力を込めてではなく、切々と祈るように奏でられたのは忘れがたい。
緩徐楽章の末尾と、さざめくようなスケルツォのトリオにおいて、子守歌のような歌が柔らかな光を放ちながら響いたのも心に残る。その歌は、叫ばざるをえないほどに多くを抱えて破裂しかかった魂をいたわっているのか。それとも、歌曲集《美しき水車屋の娘》の子守歌のように、すでに自然の懐に還った魂にささやきかけているのだろうか──。このような密やかな歌が、息の通ったものとして響いたのも今回の演奏の特徴と言えよう。それは、演奏会の前半で取り上げられたドビュッシーの弦楽四重奏曲の緩徐楽章からも聴かれた。

ジョン・エヴァレット・ミレイ《朝露に濡れたエニシダ》(John Everett Millais: Dew-Drenched Furze, 1889–90)©Tate

アンダンティーノの第三楽章においてルーカス・ハーゲンのヴァイオリンは、絹糸のような線を連綿と紡いでいく。それを柔らかな光が包むが、それとともに古風な音楽の佇まいが奥深い空間のなかに浮かび上がる。他方で彼は第一楽章の第二主題の歌を、テンポ・ルバートを交えながら豊かに響かせていた。それを支える第二ヴァイオリンのライナー・シュミットらによる響きの造形は、のぞき込むのが怖いほど深い空間を開くようになっている。だが、その過程から温かい肌触りが失われないことも、このクァルテットの変わらぬ特質だろう。
それを支えるのがヴェロニカ・ハーゲンのヴィオラの滋味豊かな響きであることを、あらためて実感した。今回の演奏では、クレメンス・ハーゲンのチェロが踏み込んだアプローチを示していたように感じた。ハーゲン・クァルテットの演奏は自由度を増しているが、それによって聴き手にそれぞれの作品の特徴を、立体的に伝えていることは特筆されるべきだろう。時代を先取りするかのようだったシューベルトの作品の姿と、アルカイックな側面を示すドビュッシーの作品の姿を照らし合わせながら、会場に来る前に大阪中之島美術館での「光」をテーマとするテート美術館展で見たジョン・エヴァレット・ミレイの風景画を思い出した。それは温かい光で朝露に濡れたエニシダの繁みを照らしながら、前景の草花の立体像を浮かび上がらせている。

(2023/12/15)

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[Performers]
Hagen Quartett
Violin: Lukas Hagen
Violin: Rainer Schmidt
Viola: Veronika Hagen
Violoncello: Clemens Hagen
[Program]
Claude Debussy: Quator à cordes en sol mineur op. 10
Franz Schubert: Quartett G-Dur D887