カデンツァ|「手」〜医は仁なり〜|丘山万里子
「手」〜医は仁なり〜
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
画像提供:何磊(He lei)/『鍼灸大成』作者:明・楊継洲
今年の異常な暑さの夏、私は心身ともに衰弱し、光が辛く、真っ暗な部屋でひたすら平たく浅い息をしていた。救急車も辛いことは数度の経験でわかっており、おまけに必ず点滴をされる。点滴液は冷たい。凍えた心身を一層冷やすだけなのだ。
たまらず呼んだのは、もう20年以上、助けの神、いや助けの「手」たる横浜の中国人医師で、名を何磊(か・らい)さんという。石が三つも積み重なる名前だから実に頼もしく、私の最後の頼みの綱。
彼は飛んできた。
部屋のドアが少し開き、わずかに揺れる空気。
来るなり手首をとり脈を測った。
なんてあったかなんだ。
人の手。
たすかった、と思った(助かりたかったんだね、わたし)。
つぼだの経絡だの私にはわからないけれど、最初はそっと、徐々に力を加えて凍った心身を溶かす。その手は外側からだんだん内臓にまで至り、はらわた掴む感じ。するうち私は全身びしょびしょに汗をかき、大きく深い息をした。
はあ。
彼は怒った。
どうしてこんなになるまで、やるんですか。
書かなきゃ、書きたいことがあるから ,,,,, と、もごもご呟くと、入り込みすぎです(話に)!とまた小さく怒った。
わかってるよ。
と言い返すくらい、私は力を取り戻していた。
私たちは、この「手」を、いつから失ったろう。
医者が画像ばかり見て患者を見ないのはもう当たり前で、触れればハラスメントだなんだになりかねない。触らぬ神に祟りなし。
昔の医者は脈を取るのも、胸や背中に聴診器を当てるのも、みんな当然で、普通だった。
今は、皮膚科でも肌に触れねばならないときは薄手の使いすてビニール手袋をする。コロナ以降、それはもう必須になった。
先端医療はそれはそれで素晴らしいし、どんどん開発、人間の病苦を減らしてほしいと思う。
けれど、その痛み、苦しみを見るに、レントゲンでは、CTでは、MRIでは見えないものがあるだろう。
何さんの手の温かさは、それだけで安堵安心を与えるものだった。
その手が冷たかったら、途端に患者はヒヤッとするのだから、医者免許の第一箇条として、まず「温かい手を持つこと」とすべきだと思う。
昔、上海で知人が連れて行ってくれたマッサージ処で、髪のボサボサな少年にあたり、おいおい、と思ったが、背中に触れられた瞬間、ビリビリと電気が走るので驚愕した。「神の手」とはこういう手のことだと実感。そのビリビリ効果は絶大であった。次の時もその少年目当てに行ったが、出てきたのは普通の少女で、その手に巡り合うことは以降、一度もない。が、そういう人がいることだけは確か。
何さんは天津の内科医で、西洋医学と東洋医学の両方を修め、さらに研究を深めたいと東大に来た。我が家への最初の訪問は、もちろん私がぶっ倒れた時。彼はやっぱり脈をとり、「仕事のやりすぎです、休まなきゃ駄目でしょう?」と穏やかに言ったのだった。そうして1時間ほどあちこちを押したり揉んだりし、「また明日きます」と、3日間来てくれたのである。最後の3日目に、彼は大きなビニール袋をぶら下げてきた。鳥が一羽、スペアリブ、椎茸、ネギ、生姜などが入っており、「今日は元気の出る食事を作りますね」。
キッチンに立ち、慣れた手つきで鳥を捌き大鍋にボンボン放り込んだ。
出来上がった特製スープと、鍋から取り出しフライパンで甘辛に炒めた肉とを食卓に置き、私たちは彼と一緒にありがたく「元気の出る食事」をいただいたのだった。
全くもって、拝む他ない。
「医は以て人を活かす心なり。故に医は仁術という。疾ありて療を求めるは、唯に、焚溺水火に求めず。医は当(まさ)に仁慈の術に当たるべし。須(すべから)く髪をひらき冠を取りても行きて、これを救うべきなり」と、これは中国、唐の時代の宰相の言葉だという。
江戸時代の貝原益軒の『養生訓』にも「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専ら志すべからず。天地のうみそだて給える人をすくいたすけ、萬民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命という、きわめて大事の職分なり」という言葉がある。
全くもって、「医は仁術なり」なのだ。
仁は人へんに二と書き、人と人との間に通う親しみを表す。意味は、慈しみ、情け、人の心、心の本体、徳を備えた人、さね(果実の核の中にあって芽となる部分)などなど。
何さんは、ツボを押さえ、必ず「どうですか?」「これは?」とその強さやそれがどこに響くかを聞く。私は自分の身体の1箇所がどこに通じているかの伝達網(経絡)を実感し、その問いと答えの積み重ねから自分の状態を自覚する。
「私の力の及ばないこともあります。そうなる前に、自分でできることをやりなさい。」
あれこれその方法を教えてくれるのはいいが、いっぺんにあれせよ、これせよ、は無理。
次第に元気を取り戻した私は、文句たらたらになってゆく。
そのように、それぞれ全く異なる個体に向き合い、全身で(手はその最前線の働きだがそこに彼は全力で集中する)その痛苦に応じること。人と人との間に通うもの。人の数だけ術(すべ)がある。仁術とは応変の働きなのだ。
何さんは、ビリビリ「神の手」とは違うけれど、唯一無二の手の持ち主。
私は少しでも回復すると途端に頭が回転し始め、好奇心、学習意欲が高まってしまうので、施術の間の会話にどんどん興奮する。何しろ彼は、中国の説話や蘊蓄が膨大なので、それを吸収しようとする私の脳は疲れてきてしまうのだ。
で、突然叫ぶ。
「もう何も言わないで! 私は脳を休めたいんだから! だらんと、ぼあっとしたいんだから!」
まあ、そんなふうに、蘇生した衰弱者は勝手なことを言い出すのであった。
何さんは結局、大学で研究を続けることはせず、街なかで知り合いの整体院の手伝いなどをしながら、日本のあれこれの資格も取って自分の治療院を横浜に持った。儲かりもせず、潰れもせず、の。ここまでの道は、本当に大変だったと思うし、これからもそうだろう。
「元気の出るスープ」はすぐに我が家の定番となり、今は娘のパワー注入メニューになっている。
先日(喉元過ぎればが常なのだが、今回はさすがに懲りて定期往診に)、施術の後に、彼女が冷凍庫に置いて行ったそれを、一緒に食べた。
あの時の青年はすでに中年で、私は高年になったけれど、懐かしい味!と二人で笑った。
覚えていてくれたんですね、と彼は嬉しそうだった。
私たちは自分の「手」を日々、どのように使っているだろうか。
「医」ばかりでなく、人が人と生きているところ、どこにでも「仁」は働くのだと思う。
色々なことを機械がやるようになって、ファミレスなどは画面で注文、品はロボット君が運搬、みたいなのが増えてきた。
原稿だって手書きの人は私の世代ですら皆無に近かろう。
そこで何が失われたろうか。
検索、コピペ、貼り付け、接続、接合。いっちょ上がり!
AIの学習はどんどん進化し、「経絡」たる「文脈」や「脈絡」も応変に、人間の想像・創造領域をカバーしつつある。
未来にとても悲観的な人もいるし、止まない争い、止まない地球破壊も含め、無力感に苛まれることも多い。
でも、街の隅っこに、静かに「仁」を携えて「手」を働かせている人がいる。色々な場所で。たくさんではなくとも、あちこちに。
少なくとも自分も、その一人であろうと願い努めることだけはしてゆこう、と思う年の瀬。
(2023/12/15)