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パリ・東京雑感|虐殺の彼方にほの見えるパレスチナ解放? |松浦茂長

虐殺の彼方にほの見えるパレスチナ解放?
Peace, a Forgotten Word, Renews its Claim in Israel

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

10月7日早朝、ハマスがイスラエルで開かれていた音楽フェスティバルを襲撃したとき、一人のパレスチナ人救急救命士が殺された。アワド・ダラウシェさん23歳。若者たちが朝日を浴びながら陶然と踊る、トランス・ミュージック会場に、配置された医療チームの一人だ。ユダヤ教の祝日に催された、「平和と愛」のフェスティバルがキリングフィールドと化したとき、救命士のダラウシェさんだけが、現場に留まった。同僚が皆逃げたのに、なぜパレスチナ人の彼は残ったのか?
いとこのモハンマド・ダラウシェさんは、「一人の人間として、一人でも助けたいというやむにやまれぬ気持に突き動かされたのです」と言う。モハンマドさん自身も、パレスチナ人とユダヤ人の架け橋として、大きな働きをしてきた人物である。
イスラエルに住み、平和のために尽くしてきた若いパレスチナ人、アワド・ダラウシェさんが、イスラム原理主義ハマスのテロに倒れたことは、イスラエル・パレスチナ共存のために働く人々の最終的敗北を象徴するかのように見える。
ダラウシェさんの家族が住む、ナザレに近い家には、大勢のユダヤ人アラブ人が弔問に訪れ、その中には、教育相だったシャイ・ピロン氏もいた。ピロン氏は「私がここに来たのは、<敵を殺しても解決にならない><生は死よりも大切だ>と信じる人たちは、誰でも平和のために手を取り合うべきだからです。政府は平和をもたらすのに必要なことをしてこなかった。」と言う。

この十数年、パレスチナ・イスラエルの和平を訴える人々には、猛烈な逆風が吹いてきた。活動家の一人、ギツェン氏は、「平和活動家をやっつけるプロパガンダはひどいものです。私たちは、<裏切り者>、<反シオニスト>、<反イスラエル>なのです。さもなければ、私たちは駆け引きも力関係も分からない世間知らずなのです。でも、私たちは、パレスチナ政権を弱体化するためにハマスを強くするのはいけないと叫び続けてきました。」と嘆く。

トランプ大統領(当時)とネタニヤフ首相(エルサレム、2017年5月)

トランプ大統領(当時)とネタニヤフ首相(エルサレム、2017年5月)

「ハマスを強くする」? 奇妙な話なので、ちょっと注釈を加えると、エジプトに接するガザ地域はハマスが支配し、ヨルダン川西岸にはアッバース大統領のパレスチナ自治政府がある。ネタニヤフ政権は、イスラエルとの共存に前向きなアッバース大統領を無視して、イスラエルの存在を認めない過激なイスラム原理主義組織ハマスが強くなるよう画策してきた。単細胞な宗教集団の方が御しやすいと考えたのかもしれないが、平和活動家が、こんな危なっかしい政策に反対するのは、当然だろう。

ガザからイスラエルにロケット攻撃があると、イスラエルはその何倍もの激しさで反撃して、ハマスの力をそぐ。こうしたお決まりの<戦争>が、2008年、2012年、2014年、2021年と4回繰り返され、数千人のパレスチナ人が殺された。イスラエル軍としては、このやり方でハマスの攻撃力を許容範囲に収めることが出来ると自信を持ち、この戦略を、芝生が伸びすぎないように手入れする「芝刈り」と呼んできた。永久戦争の処方箋だ。
ネタニヤフ首相は、2019年、彼の政党リクードの議員の前で、その奇怪な戦略を説明している。

パレスチナ国家の実現を阻止しようとするならば、誰しもハマスを強化し、ハマスに(カタールの)資金を流させる我々の政策を支持しなければならない。それは、ガザのパレスチナ人とヨルダン川西岸のパレスチナ人を分断する我々の戦略につながる。(『ル・モンド』2023年10月15日)

ところが、イスラエルがハマスを巧みにコントロールし、活用しているとうぬぼれている間に、ガザにはモンスターが育ってしまった。そして、10月7日、モンスターは目を覚ましたのである。

ハマスの戦果は、千人規模の戦士をイスラエルに侵入させ、軍人と民間人1400人を殺したことだけではない。イスラエル人を最大限怒り狂わせるために、赤ん坊を殺し、首を切り落とし、親の目の前で子供を殺し、子供の目の前で親を殺し、殺戮の場面を録画し、その映像をSNSで流す。前例のない徹底した殺害の残虐性プロパガンダだ。(ナチは、ガス室にユダヤ人を送り込んで殺していることを宣伝しなかった)。
プロパガンダは有効だった。イスラエルは、ハマスのねらい通り、狂ったようにガザを爆撃し、数千の民間人を殺した。中でも、病院が爆撃され(イスラエルの攻撃?パレスチナ側の誤爆?あるいはハマスによる意図的破壊?)500人の死者が出たのは、ハマスにとって好都合だった。たちまちモロッコをはじめアラブ世界の街々で、イスラエルに抗議する数万人のデモが広場を埋め尽くす、怒りの嵐を巻き起こすことに成功したからである。
10年ほど前から、アラブの指導者はイスラエルと付き合った方が経済的にも安全保障上もトクだと考えるようになった。2020年にモロッコ、バーレーン、アラブ首長国連邦がイスラエルと外交関係を結び、サウジアラビアも、あと一歩で国交を結ぶところまで近づいていた。ハマスにとって、パレスチナ問題が背景に退き、イスラエルがアラブ世界に受け入れられるのは、許しがたい事態だ。どうすれば、イスラエル・アラブ接近の流れを止めることができるか? ハマスが考えたのは、イスラエルを怒り狂わせ、ハマスの同胞であるガザの住民をできるだけ大勢殺させることだ! 事態はハマスのねらい通り進み、アラブ諸国民衆のイスラエルに対する怒りのうずが、アラブ指導者の手足を縛ってしまった。

大西洋上で会談するルーズベルト大統領とチャーチル首相(1941年8月10日)

大西洋上で会談するルーズベルト大統領とチャーチル首相(1941年8月10日)

ベストセラー『サピエンス全史』で知られるイスラエルの歴史家、ノア・ハラリは、「1941年8月14日、第二次大戦中の最も暗い時期に、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は、大西洋憲章を発表した」と書いている。最悪の窮地にあるときこそ未来を見通さなければいけない。米英の指導者は、ナチを倒した後にどんな世界を建設すべきかを描いて見せたのだ。
ハラリは、いまペシミズムの淵に沈みかけているイスラエルの同胞に対し、ルーズベルト=チャーチルの姿勢に学ぼうと呼びかけている。

ルーズベルトとチャーチルは、ナチズムを滅ぼす必要性について漠然と話し合ったのではない。同じように、いま、イスラエルにも『ハマスを滅ぼす』と漠然と誓うのではなく、何かさらに深く建設的な目標が、ぜひとも必要なのだ。(『ハーレツ』2023年10月18日)

どんな目標が可能だろう? 軍事力によってハマスの力を定期的に消耗させる「芝刈り」戦略は完全に破綻した。では、ハマスを根絶やしにするのか? 市街戦になれば、数万数十万の住民が巻き添えになる。アルカイーダを追いつめるために始まった対テロ戦争で、25万人の市民が殺されたのだ。たとえハマスとの戦いに勝利したとしても、後には、廃墟と化したガザ地区と、イスラエルへの憎悪しか残らないだろう。

10月7日の野蛮な虐殺の後、もしイスラエルがハマスへの復讐攻撃をしなかったら、何が起こっただろう? 子供の首を切り落とし、老人まで人質として連れ去った無意味な残酷さ、<残酷のための残酷>が人々の記憶に深く刻まれ、パレスチナの大義は血で汚され、サウジアラビアはイスラエルと声を合わせて、ハマスの暴力を非難したのではないか? サウジがイスラエルと国交を結ぶうえでの障碍はパレスチナ問題だったのだが、ハマスの暴挙によってそのハードルは低くなったに違いない。

かつて南アフリカでは、暴力から非暴力へ、抗議行動の大転換が起こった。アパルトヘイトによる白人支配を終わらせようと、テロ活動が続いていたが、1988年、A.N.C.アフリカ民族会議は、レストラン、スポーツ会場、ショッピングセンターなどの一連の爆破を、「自分たちがやった」と認め、今後このような作戦はやめさせると誓った。A.N.C.の論理は単純明快、「市民を巻きこむのはいけない」なぜなら「革命家たる我々が尊重する倫理的価値観は、闘争においても思いやりある行動を取ることを要求する」からだ。
なぜA.N.C.はハマスのような暴力の連鎖に引き込まれずにすんだのか?
ニューヨーク大学の社会学者ジェフ・グッドウィンによると、第一に、A.N.C.の反アパルトヘイト闘争は、アパルトヘイトをなくした後に、どういう社会をつくるかという将来のビジョンと一体になっていた。彼らは、白人を南アから追い出すために闘うのではない。多人種共生の民主主義が彼らの目標であり、白人にその将来ビジョンを受け入れさせなければいけない。そのためには、白人たちを恐れさせ、トラウマを与える行動は慎まなければいけないと気付いたのである。
第二に、A.N.C.の倫理的闘争に、広い支持が得られ、たとえば米国議会はアパルトヘイト政権に対する制裁を決めた。世界がかれらの倫理的闘争を支持したために、A.N.C.としては、その方針をぶれずに続けることが出来た。中と外が交互に補強し合う、良い力学が働いたのである。

パレスチナ自治を認めたオスロ合意、クリントン大統領の前で握手するラビン首相とアラファトPLO議長(1993年9月)

パレスチナでは、南アのような力学は働かない。平和解決、倫理的闘争への国際的共感は得られず、すぐに萎んでしまう。
1987年に始まった市民の抵抗運動インティファダは、はじめほとんど暴力を伴わなかった。イスラエルとパレスチナの2国共存のビジョンを示したオスロ合意を、パレスチナ人の80パーセントが支持し、イスラエルに対する武力闘争支持は20パーセントに下がったときもあった。(1996年)
ところが、イスラエルは占領地への入植をやめないし、パレスチナの権力は分裂し腐敗し、ハマスとアッバース政権は互いに殺し合うほどの仲だったし、ユダヤ教もイスラムも狂信的原理主義がはびこるし、和平は遠のく一方だった。欧米の政府は、いまも<ピース・プロセス>という言葉を口にするけれど、10年来そんなものは存在しないことを知っている。
こうして、パレスチナ人は非暴力の抗議が無力であり、国際社会は倫理的闘争を支援してくれないことを思い知らされる。平和解決への失望は、暴力への回帰、そしてハマスへの期待をもたらしたのである。

野蛮なテロと過剰な報復、一気にエスカレートした暴力の連鎖はどこに行き着くのだろう?……暴力の果てに、平和的共存しか道はないことに気付くのではないか? 最悪の挫折は変化のきざしをはらんでいるのだ。
1973年にも、イスラエルは今回同様、祝日に隙を突かれ、シリアとエジプトの攻撃を受けた。そのあとのイスラエルは、いまと同じように和平とはほど遠い状況だった。ところが、1977年にエジプトのサダト大統領が、突如イスラエルを訪問し、国会で中東の平和についてスケールの大きな演説をした。両国は平和条約を結び、イスラエルは戦争で手に入れたシナイ半島をエジプトに返した。戦争の結果、イスラエルには、はじめて、その存在を承認してくれるアラブの隣人ができたのである。

名著『オリエンタリズム』で知られるエドワード・サイード(コロンビア大学、比較文学教授)は、1979年に「ハイジャック、自爆テロ、学校やホテルの爆破にはぞっとする」とパレスチナ・ゲリラの暴力を非難した。約束の地に強い愛着を持つイスラエル人をたんなる入植者と見なすのは誤りであり、「ユダヤ人を恐怖におとしいれて、中東から逃げ出させようと暴力に訴えるのは、無駄であり、不道徳だ」というのだ。サイードにいわせれば、パレスチナの戦いに欠けているのはA.N.C.のような倫理的高さであり、そのために、自分たちの戦いの大義をアピールすることに失敗し続けるのである。

南アフリカ初の全人種参加の総選挙で投票するネルソン・マンデラ氏(1994年4月)

ネルソン・マンデラ(A.N.C.議長)が、彼自身の戦いの道義的意味について倦むことなく繰り返していたように、私たちもパレスチナ問題がいまの世界の主要な道徳的大義であることを、はっきり意識しなければならない。大義はそれに相応しい形で守られるべきであり、裏取引したり、巧妙な妥協をさぐったり、あるいは政治的利益のために利用されるべきではない。パレスチナ人は、自分たちの大義の高みにまで、自らを高めなければならないのだ。(『ル・モンド』2002年4月11日)

最初にご紹介した、救命士ダラウシェさんは、パレスチナの大義の高さに生きた一人だったに違いない。これからさらに沢山の血が流され、非人間性の淵に沈み込んだとき、サイードの遺言にあらためて耳を傾ける人が出てくるだろう。
(サイードはユダヤ人の指揮者・ピアニスト、バレンボイムと協力して、ユダヤ人音楽家とアラブ人音楽家が一緒に演奏するウェスト=イースト・ディヴァン管弦楽団をつくった。サイード死後の2005年にパレスチナのラマラで公演があり、ぼくはそのテレビ中継をパリで聞いたが、パレスチナでは放送されなかったようだ。)

(2023/11/15)