小人閑居為不善日記|未成熟の内なるゴジラ――《ゴジラ-1.0》と《映画 すみっコぐらし》|noirse
未成熟の内なるゴジラ――《ゴジラ-1.0》と《映画 すみっコぐらし》
Immature Inner Godzilla
Text by noirse: Guest
※《ゴジラ-1.0》、《映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ》の内容に触れています
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《ゴジラ-1.0》が公開された。監督は山崎貴。《ALWAYS 三丁目の夕日》(2005》や《永遠の0》(2013)などを送り出したヒットメイカーだ。
そもそもゴジラはこだわりの強いマニアを多く持つシリーズだが、さらに庵野秀明と樋口真嗣が手掛けた前作《シン・ゴジラ》(2016)は震災や原発事故を組み込んだ設定が高く評価されており、次作へのハードルも否応なく上がっていた。
そこで山崎は、舞台を戦争直後に設定した。《永遠の0》に《アルキメデスの大戦》(2019)、《海賊とよばれた男》(2016)と、山崎の近作は戦中戦後の映画が多く、ゴジラを得意のフィールドに持ち込もうとしたのだろう。
ここで懸念されたのが山崎の作家性だ。大仰な演出もさることながら、過去を美化する傾向、特に《永遠の0》での特攻を肯定しているように見えかねない保守性で、山崎を嫌う映画ファンは少なくない。
その懸念は当たったと言えるだろう。主人公の敷島は特攻を任じられるが、死ぬ覚悟が出ず、機体の故障と偽って大戸島に着陸、そこでゴジラに遭遇する。零戦の機銃でゴジラを狙撃するよう言われてもやはり怖気付いてしまい、整備班はほぼ壊滅する。
敷島は東京に帰るが、家族は空襲の犠牲となっていて、バラックでひとり暮らしを始める。そこに典子という子連れの女性が現れる。子供は見知らぬ他人から託された遺児で、彼らを見捨てられない敷島はやむなく共同生活を許す。
敷島は大戸島での件を忘れられず、死に損なったと思っている。典子と子供のために仕事に精を出し、次第に彼女と心を通わせるようになるが、一線を越えることはない。死に損なった男には、幸せになる資格がないというわけだ。
そこでゴジラが東京に上陸、典子は放射熱線の爆風に飲み込まれる。生きる希望を失った敷島は戦闘機に乗り込み、ゴジラへ特攻する。攻撃は成功してゴジラは海底へ沈み、敷島も間一髪で脱出。典子も一命を取りとめていたことが分かり、彼女から敷島への言葉で映画は終わる。「あなたの戦争は終わりましたか……?」
ゴジラは多くの研究や分析、批評の対象となっている。そこで一般的に定着しているのは、ゴジラとは戦争や原爆の表象であるという見かただ。《ゴジラ-1.0》も例外ではなく、今回のゴジラは敷島の「終わらない戦争」を終わらせるために上陸してきた戦争の亡霊と言えよう。
問題はその終わらせかただ。山崎作品は得てして「過去の日本人の努力や英雄的な死が今の日本の礎となっている」という美談めいた話が多く、《ゴジラ-1.0》もその系列にある。けれども、仲間を救えなかった罪悪感が特攻行為で贖われたというのでは、観客を納得させることは難しい。
ただ《ゴジラ-1.0》は、過去の美化だけで完結している作品ではないだろう。何故ならここには、成熟と未成熟というテーマが内包されているからだ。
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江藤淳は有名な《成熟と喪失 “母”の崩壊》で、妻がアメリカ兵と関係したのではと疑う夫を描いた小島信夫《抱擁家族》を引きながら、近代化による「母」の崩壊の過程を分析し、無力な男の成熟のため、父性の復権を説いた。
前近代では「母」の胎内に微睡んでいた男たちも、近代においては「父」にならなければならない。その保守性を批判されながらも、江藤のこの見立ては今でもよく参照されているが、これを《ゴジラ-1.0》に当てはめてみよう。
敗戦のトラウマで典子にプロポーズすることもできない敷島が、戦争の亡霊たるゴジラに特攻することで男としての自信を取り戻し、彼女の元へ駆けつけ、疑似家族から本当の家族への一歩を踏み出していく。これは父性の復権そのものだ。
ただ、《成熟と喪失》のポイントは母の崩壊にあるのに対し、《ゴジラ-1.0》では典子という「母」は温存される。そう考えると《ゴジラ-1.0》は前近代を延命させる、安易で保守的な作品で終わってしまう。
けれどもう少し踏み込むことができる。典子が生きていたという展開はご都合主義そのものだが、であればこうも言えるだろう。典子はやはり死んでいて、敷島はその亡霊に取り憑かれているのだと。
《ゴジラ-1.0》の特徴に、アメリカの不在がある。ほとんどのゴジラ作品はアメリカが首を突っ込んできて、米軍がゴジラと戦ったりするのだが、今回はソ連を刺激するとの理由で一切関与しない。その結果、不思議なほどアメリカの存在感がない、虚構めいた戦後が描かれている。
《抱擁家族》と違い、敷島にはアメリカに対する負い目は感じられない。かわりに彼の苦悩は頭の中に巣食った戦争の亡霊で占められる。では戦争の亡霊たるゴジラを退けたあと、敷島はどう生きればいいのだろうか。
山崎が用意した答えは、死んだはずの「母」たる典子の亡霊と、家族ごっこを続けることだ。山崎は近代で崩壊したはずの「母」を延命させ、映画《三丁目の夕日》のような、まがいものめいた戦後史を打ち立てていく。
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映画《三丁目の夕日》と原作との大きな違いのひとつに、茶川という50代の作家志望の男を、当時30代半ばだった吉岡秀隆に演じさせた点がある。茶川は夢を果たせなかったことで歪んだ中年男となってしまったが、ひょんなことで小学生の子供を育てることになり、次第に丸くなっていく。
原作では数あるエピソードの中のいち挿話に過ぎないが、山崎は茶川を若くすることで、未成熟な男が父となり成長する話に組み換えていく。なおかつ茶川をメインキャラクターにまで据えており、山崎が父性にこだわっていることが窺える。
映画版しか知らない人は誤解しているかもしれないが、そもそものマンガ《三丁目の夕日》は、けして単純なノスタルジー賛美の作品ではない。原作者の西岸良平は常に過去に対し醒めたスタンスを取っていて、夢に破れた人々が「三丁目の夕日」に象徴される美しい過去に呑み込まれていくことを悲喜劇として描いた、かなりシニカルな作品なのだ。
山崎はそうしたシニカルな視点を徹底的に排除しており、かわりに父性の復権をベタに肯定させている。批評家の石岡良治は《視覚文化「超」講義》で映画版《三丁目の夕日》は無菌室の中のようだと表現しているが、たしかにテーマパークめいた、閉鎖的かつ非現実的な空間と言えよう。そしてそこは《ゴジラ-1.0》の、アメリカの影が一切落ちない、虚構の戦後の先にあるものだ。
幻想の母の胎内に微睡みながら父権を獲得するという物語は、ネット右翼を想起させる。そう極端ではなくとも、山崎の打ち立てる戦後の日本像は、多くの観客にとって心地よいものなのだろう。
山崎は過剰な演出や「ドラ泣き」という言葉に代表されるお涙頂戴のストーリーで批判され続けているが、それでもゴジラやドラえもん、宇宙戦艦ヤマト、ドラゴンクエストといった、日本の人気コンテンツの映画化を一手に担い、一方で《永遠の0》、《海賊とよばれた男》、《三丁目の夕日》と戦後史を語り続けていて、そのすべてを興行的に成功させている点からして、国民作家の地位にリーチしていると言っても過言ではないはずだ。それを支えるのは山崎が紡ぐ「母の幻想」にあるのだろう。
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最後にひとつ比較したい作品がある。《ゴジラ-1.0》と同日に公開した《映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ》だ。基本的にはファミリー向けのコンテンツなのかもしれないが、優れた寓話性から、社会を鋭く照射する視座を獲得している。
「すみっコぐらし」とは「たれぱんだ」や「リラックマ」で知られるサンエックスが2012年にリリースしたキャラクターで、映画は今回が3作目となる。すみっコとは、寒がりのシロクマや緑色のペンギンなど、周囲に馴染めず、片隅を好む者たちのことだ。
今回彼らは森の奥の工場に迷い込み、玩具作りの強制労働に従事することになる。最終的にすみっコたちは、工場自体に意志があったことを突き止める。かつては工場が作る玩具はとても人気で活気があった。だが次第に玩具は売れなくなり、工場も廃墟同然になってしまった。すみっコたちは工場を仲間として受け入れていく。
江藤が論じたように、敗戦したにもかかわらずそれを直視しないまま「父」を演じようとした日本は、現在様々な壁に直面している。そこから弾き出された者を、「父」にこだわる山崎が拾うことはないだろう。しかしすみっコたちは、非力かもしれないが、現実に向き合い、社会から弾き出された者を救済しようと試みる。
すみっコの中にとかげというキャラクターがいる。首長竜の子孫なのだが、トカゲのふりをしてすみっコでひっそり生きているという事情の持ち主だ。敷島は内なるゴジラを葬るために再び戦争を欲するが、本当はそんな必要はなく、とかげのように別の道を模索するべきだったのではないか。
山崎は観客が見たいと願う幻を気持ちよく映像化する監督であり、そういう意味では名手なのだろう。しかし彼の映画は、あくまでも幻でしかない。それに比べれば片隅にひっそり佇むすみっコのほうが、よほど社会へ真摯に対峙しているのではないだろうか。
(2023/11/15)
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noirse
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