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一柳慧 追悼コンサート|齋藤俊夫

一柳慧 追悼コンサート
Cosmic Harmony – Hommage à Toshi Ichiyanagi

2023年10月30日 トーキョーコンサーツ・ラボ
2023/10/30 Tokyo Concerts Lab.
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

<曲目・演奏>        →foreign language
一柳慧:独奏チェロのための『プレリュード』
  チェロ:堤剛
エイノユハニ・ラウタヴァーラ:ピアノソナタ第2番『火の説法』
  ピアノ:福士恭子
一柳慧:三味線とヴィオラのための『デュオ』
  三味線:本條秀慈郎
  ヴィオラ:甲斐史子
池辺晋一郎:『ストラータVIII』ヴァイオリンとチェロのために
  ヴァイオリン:印田千裕
  チェロ:印田陽介
ユハ・T・コスキネン:『柳宿(ぬりこぼし)』ピアノのための
  ピアノ:小川至
野平一郎:『Si-Mi』クラリネットとピアノのための
  クラリネット:野田祐介
  ピアノ:飯野明日香
一柳慧:『ピアノメディア』
  ピアノ:飯野明日香
一柳慧:『コズミック・ハーモニー』チェロとピアノのための
  チェロ:堤剛
  ピアノ:飯野明日香

 

一柳慧、誰もが認める日本現代音楽史上の偉人である。だがその作曲家としての個人史には不可解な不連続もまた認められる。60年代のジョン・ケージ・ショックから『オペラ横尾忠則を歌う』に至る過激な実験音楽、70年代初頭の傑作『ピアノメディア』以降のより表現主義的・表出的な伝統回帰(といってもそれはロマンへの回帰といった生ぬるいものでは決してなかった)、晩年の自己の音楽への過激な執着とも言うべき曰く言い難い作風、この流れには幾つもの不連続点が内在してはいまいか。今回の演奏会では1972年作曲の『ピアノメディア』、1995年作曲『コズミック・ハーモニー』、2012年『プレリュード』、2018年『デュオ』と、一柳の創作史では後期から晩期に当たる作品が主だが、前述の不連続を強く感じたと同時に、筆者は何か一柳の人間性、ヒューマニティとでも言うべきものも同時に感じとった。

独奏チェロのための『プレリュード』は2012年に堤剛のために書かれた作品である。古びた茶器の、その「古び」を味わうような、「わび」「さび」のラディカルさを味わうような感触。一柳、堤、両人とも年を経て、なれど音楽に執着する、前述の晩年の作風に息を飲んだ。

生前に一柳と交流があったと筆者は今回初めて知ったラウタヴァーラのピアノソナタ第2番『火の説法』、第1楽章の輝かしい超高速パッセージで奏者・福士恭子の実力に舌を巻いた。調性とか無調とかの差別を超えてなお光る音の中に熱い炎が閃く。第2楽章はラウタヴァーラ独特の旋法的和声がはろばろと拓かれ、だがやがて切なく独吟を始める。狂乱に飲み込まれつつも静かに紡がれる詩……が、それも凶兆に飲み込まれる。第3楽章、低音域で鬼が踊る。暴力的なまでの和音、いや、クラスター?が降り注ぐなか鬼がどんどんと迫ってきて、頭を棍棒で叩き割るような強打で終曲。まさに火のように燃えるピアノ作品であった。

2018年の一柳作品、三味線とヴィオラのための『デュオ』は西洋音楽の秩序に慣れた耳には「合奏」とは思えない、日本の長唄のような「合奏」が続く。しかし三味線もヴィオラもやけにあだっぽく夜の香りがする。そうしたら西洋的「合奏」も混じり、さらには2人が対位法的に音楽を構築したりもして、洋の東西が混交した摩訶不思議な音楽が展開され、本條秀慈郎の裂帛の気合とヴィオラのロングトーンで了。5年前の作品とは思えないほど若い作品であった。

池辺晋一郎、ヴァイオリンとチェロのための『ストラータVIII』、妖精か妖怪か、いずれにせよ人ならざるものが遊んでいる。バルトークのように民俗的な汗と血の匂いに機械的な鉄の匂いが交じる。しかしそれでも聴いててちょっと怖くなるような自由で妖精的軽さが保たれ、されど数理的秩序を基にしつつ遊び狂う。チェロ、次いでヴァイオリンが特殊奏法で軋んだ音を連続で発したと思えば、2人揃ってジャッジャッジャカジャカジャン!と合わさって了。作曲家の書法と演奏家の技術が見事に結晶化した快作・快演であった。

ユハ・T・コスキネン、ピアノのための『柳宿(ぬりこぼし)』、薄明の中、静水に垂れる水の一滴一滴とそれが作り出す波紋を見るが如き禁欲的な音楽、つまりケージ・ショック以前の点描音楽と、現代のもっと自由奔放で快楽的な音楽が複雑に組み合わさった音楽。ピアノの音が楽器ではなく何か自然現象のように聴こえてきた。

野平一郎、クラリネットとピアノのための『Si-Mi』、虚ろで実体がないのに触れるとヒンヤリと冷たい音が相転移して熱くなり四方八方から絡みついてくる。鬱々と、鬱勃たる、いや、何と言うか、相当に精神的に危険な表現主義的音楽。音の色彩が狂えるほどに散乱して心の闇が表に出てくるよう。虚無的に消えゆき終曲するまでこちらも異常なほどの集中力を求められる作品であった。

一柳慧1972年作曲『ピアノメディア』は言わずとしれたピアノの傑作にして大怪作。高速で9音のオスティナート音型が最初から最後まで繰り返される中、それを妨害するような種々多様な音型が挟み込まれる。コンセプトはわかっているけど、実際に生演奏で聴くとほとんど演奏家への拷問のような作品であり、筆者は「いまいけぷろじぇくと」を想起してしまい不覚にも笑ってしまった。人間がどこまで機械に近づけるか、人間は人間性をどこまで希薄にできるか、等々と考えることはできるが、どこまで行っても人間がピアノを弾く以上人間は人間でしかないという真実、だがそこにブラックなジョークが伏在している。とにかく、圧倒的な作品であることは間違いなく、筆者の笑いはそれゆえとも言えるだろう。

演奏会最後の作品はチェロとピアノのための1995年の一柳作品『コズミック・ハーモニー』、しかしこの演奏は少々聴いていて辛いものがあった。飯野明日香のピアノは鋭利な刃物のように切りつけてくるが、堤剛のチェロは彼がいくら猛々しく弾こうとしても刃こぼれ錆びているのは否めない。チェロとピアノの苛烈な鎬の削り合いこそが作曲者の意図であり、残念ながら今回それは実現できていなかったと正直に書き記すしかない。

一柳の音楽の人間性、それは音楽への信頼あるいは信愛とも言うべきものに支えられている。どこまで行っても音楽は音楽でしかないが、それゆえに人間は音楽を求めざるを得ないという逆説を最後まで信じ続けた巨匠に哀悼とともに感謝を込めて筆を置きたい。

 

(2023/11/15)

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<Pieces & players>
Toshi Ichiyanagi: Prelude for cello
 violoncello: Tsuyoshi Tsutsumi
Einojuhani Rautavaara: Piano Sonata No.2 “The Fire Sermon” Op.64
 piano: Kyoko Fukushi
Toshi Ichiyanagi: Duo for shamisen and viola
 shamisen: Hidejiro Honjoh
 viola: Fumiko Kai
Shin-ichiro Ikebe: STRATA VIII for violin and cello
 violin: Chihiro Inda
 violoncello: Yohsuke Inda
Juha T. Koskinen: “Nurikoboshi” for Piano
 piano: Itaru Ogawa
Ichiro Nodaira: Si-Mi pour clarinette et piano
 clarinet: Yusuke Noda
 piano: Aska Iino
Toshi Ichiyanagi: Piano Media
 piano: Aska Iino
Toshi Ichiyanagi: Cosmic Harmony
 violoncello: Tsuyoshi Tsutsumi
 piano: Aska Iino