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評論|伊福部昭―独り立てる蒼鷺―13. 諸佛は思議を超えたるものなり……『交響頌偈「釈迦」』|齋藤俊夫

13. 諸佛は思議を超えたるものなり……『交響頌偈「釈迦」』
Acintiyā buddhā……Symphonic Ode Gotama The BUDDHA

Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

(Evaṃ) acintiyā buddhā , buddhadhammā (acintiyā) , acintiyesu〈acintiye〉pasannānaṃ vipāko hoti acintiyo. 1)2)

かくの如く諸佛は不可思議なり、諸佛の法は不可思議なり、不可思議を信ずる者の果は[また](大括弧は原文ママ)不可思議なり。3)

今回取り上げる『交響頌偈(じゅげ)「釈迦」』第3楽章で高らかに歌い上げられる、パーリ語南伝仏教による頌歌、『南伝大蔵経』大王統史17章56節の詞である。伊福部の荘重な音楽と一体となって歌われるこの頌偈の圧倒的迫力はまさに「諸仏」の「不可思議」を実現したとしか言いようのないものである。
しかし、伊福部によるこの詞の意訳は上記の訳と相違する。

諸佛は思議を超えたるものなり、諸佛の法も亦思惟を超えたるものなり、
それ故、是等思議思惟を超えたるものを尊信するの境地は、篤き信仰によりて甫めて得られむ。4)

この「それ故~得られむ」の箇所は原文には存在しない、伊福部が付け加えた文言なのである。だがそれゆえにこそ、ここに伊福部の本作に込めた宗教芸術的意図が内在している。その意図を本稿で作品の中に見出したい。

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本作は全3楽章において明確なストーリーや情景をたどったものではないが、作曲者の言葉によればそれぞれの楽章で描かれる情景は

1.〈カピラバスツの悉達多(シッダルタ)〉
ヒマラヤ南麓の迦毘羅城で幸福な王子の生活を送っていた釈迦が、生老病死の四苦に覚め、悟りを求めて、深夜、王城を捨てるまでが描かれます。
2.〈ブダガヤの降魔〉
降魔とは佛教用語で「悪魔を降伏する」と云う意です。この章では、インドの聖地ブダガヤで永い年月、苦行と瞑想を続け、幾多の煩悩と闘い、終に、悟りを得るまでが描かれます。
男声、女声、混声の順に歌われる言葉は、パーリ語佛典に依るもので、その総てが「煩悩」を示す異名同義語です。13 の言葉が用いられますが、女声の箇所は霊肉煩悶を暗示しています。
3.〈頌偈〉
永い苦行の末、悟りに達した釈迦を讃える頌歌で歌われる歌詞は南伝大蔵経、大王統史の一節です。佛法は吾々凡人の思惟を超えたものであると云うような意です。

とある5)
第1楽章ではまだ悟りをひらく前の悉達多太子が出家するまでが描かれ、第2楽章では太子が瞑想により煩悩を滅却し悟りをひらき仏陀となり、第3楽章では仏陀となった釈尊を讃える頌歌が唱和される、とまとめられる。
ここで考察すべきは、悉達多太子が悟りをひらいて仏陀となったことが作品中のどこでどのように表現されているか、さらには仏教、特に大乗仏教の思想が本作品の構成原理として生かされているのではないか、ということである。

ではまず第1楽章〈カピラバスツの悉達多(シッダルタ)〉から分析してみよう。第1楽章の構造の概略は以下の図表1のように表せる。

楽章の半分以上を占めるのは第36-145小節の、それぞれのフレーズがあまり関係を持たずに並べられているように聴こえる、憂いを帯びた箇所であるが、ここは悉達多太子が出家するまでの煩悶に満ちた宮廷生活、城の東西南北の門で生老病死の四苦を目の当たりにする「四門出遊」などが音楽的に描かれているのであろうと想像できる。
重要なのは第1主題(譜例1)、第2主題(譜例2)、第3主題(譜例3)そして終わり近くに現れる「acintiyā主題(短)」(譜例4)である。

第1主題は第2楽章終わり近くと第3楽章で、第2主題、第3主題、「acintiyā主題(短)」は第3楽章でこれと同じ短い形とより長い完全形の2種で再現される。第3楽章でacintiyā主題は本稿冒頭に挙げた頌偈の歌詞の旋律となる。この主題の再現の宗教的意味は後に詳述する。
また、最終小節で現れるF-Cの和音にも宗教的意味があるのだが、これもまた後述しよう。

次に第2楽章〈ブダガヤの降魔〉の分析に進もう。

第2楽章の構造概略は以下の図表2のように表せる。

ここで着目すべきは第182-195小節、第295-308小節に現れる完全5度を2つ積み上げた和音と、第2楽章最終部に現れる完全5度を2つ積み上げたF-C-Gの和音、これらと先頃第1楽章の最終小節で現れたF-Cの完全5度の和音との関係である。
まず第182-195小節、第295-308小節のB-F-Cの和音についてだが、これらの和音の直前に完全5度の和音で歌われる「Pariyuṭṭhāna」という語はどういう意味かを知らねばならない。Pariyuṭṭhānaの語義を複数の辞典で調べると、「 纏(テン):まつわりつくもの。転じて心を纏縛して善を修めるのを妨げるものとしての煩悩の異名。あるいは煩悩が現にはたらいている状態。内心に潜む悪への傾向が現勢化すること」とまとめられる。悉達多太子が瞑想し、悪魔のもたらす煩悩と戦い、そのまつわりつく煩悩が第179-182小節、第291-294小節で Pariyuṭṭhānaの完全5度の和音をとって現れると捉えられる。この Pariyuṭṭhānaに対するB-F-Cの完全5度を2つ積み上げた和音が悉達多太子の獅子吼か、あるいは悪魔の断末魔の叫びかを判明にするのは難しいところであるが、仏典『維摩経』においては

煩悩の中にこそ如来種があると説いている。しかもそれを譬えて、高原の陸地には蓮華を生ぜず、卑湿の淤泥にこそ蓮華を生ずと述べている。ここでは明らかに蓮華を、煩悩の中から現れる仏性・法身に譬えているのである6)

との教理があり、これに従うならば、あえて煩悩の中に身を投じた悉達多太子が完全5度の和音で現れる煩悩(Pariyuṭṭhāna)の中から仏性・法身を得た(悟りを得た)瞬間をこのB-F-Cの和音は表現しているのではないかと筆者は捉えた。本作品中では完全5度音程1つ重ねの和音ではまだ煩悩がまつわりついているが、その完全5度を2つ積み上げることで悟りに至るのではないだろうか。
となると、第1楽章終結部のF-C和音と第2楽章終結部のF-C-G和音の宗教的意味もまた明らかになってくる。第1楽章では悉達多太子はまだ衆生の1人であるがゆえに完全5度音程1つ重ねのF-C和音であったが、降魔を果たした第2楽章終結部では悉達多太子は悟りを開いて仏陀釈尊となり、その悟りを表したのがF-C-G和音だと捉えられるのである。このF-C-G和音を「悟りの和音」と呼ぼう。

第3楽章〈頌偈〉の分析に移ろう。

第3楽章の構造概略は以下の図表3で表せる。合唱が入るのは「頌歌」と記した箇所である。

ここで再び仏教思想に目を向けよう。
大乗仏教の思想に自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)と如来蔵(にょらいぞう)というものがある。自性清浄心とは何かを辞書から引用すると

われわれの心は本来の姿において清浄であるとして、これを心性本浄(しんしょうほんじょう)といい、その心を自性清浄心という。小乗では大衆部(だいしゅぶ)などの説。大乗ではこの心を如来蔵心、仏性(ぶっしょう)と名づける。心は本来は清浄であっても、現実においては煩悩に覆われて汚されている。この煩悩は本来はあるべきものでなく客分のようなものであるから客塵煩悩という。塵は煩悩が微細で動揺することを塵垢に喩えたもの。7)

と捉えられた人間の心の本性のことである。この心の捉え方は原始仏教の経典である阿含経典の「増支部」に既に含まれているとされ8)、次に述べる如来蔵の源流ともなったものである。

如来蔵とは何か、同じく辞書から引用すると

すべての衆生の煩悩の中に覆われ蔵されている、本来清らかな(自性清浄なる)如来法心(ほっしん)のこと。如来蔵は煩悩中にあっても煩悩に汚されることなく、本来絶対に清浄で永遠に普遍なさとりの本性である。9)

と捉えられた人間の心の本性であり、また大乗仏教においてはこれを「仏性(ぶっしょう)」と呼ぶことも多い。さらに大乗仏教ではこの仏性思想をさらに推し進め、

「一切の衆生は如来蔵である」という主張は『如来蔵経』という名の小部の経典ではじめて宣言された。この教説をうけて、『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」の教説が現れたことは、『涅槃経』みずから語るところである。10)

全ての衆生には仏と同じ本性が潜在しており、よって全ての衆生は悟りをひらく可能性を持っているという教理である「一切衆生悉有仏性」の思想へと深化を果たした。

さて、この自性清浄心と如来蔵、そして一切衆生悉有仏性の思想が《交響頌偈「釈迦」》の構造の中にいかに見いだせるかというと、まず、第 1 主題、第 2主題 、第 3 主題、acintiyā主題が楽章を越えて繰り返されるというところに見いだせるのである。第2楽章 313 - 327 小節で第 1 主題が、第3楽章 1 - 18 小節で第 2 主題と第 3 主題が再現されることにより、第 1 楽章 1 - 26 小節の3つの主題の提示部分が再現され、また acintiyā主題は第 1 楽章では短縮された形で、第3楽章では完全形と短縮された形で現れる。そして再現された部分では既に悉達多太子は悟りをひらき仏陀となっているが、第 1 楽章の時点ではまだ悟りは開かれていない。つまり、第 2 楽章で開かれる悟りは既に第 1 楽章、悟りをひらく前の太子の中に第1~3主題、acintiyā主題として潜在していたと考えられるのである。この太子の中に潜在していた清らかなる心は自性清浄なる如来蔵心、仏性であると考えられよう。また、第3楽章の仏陀釈尊を讃える頌偈は衆生によって歌われるものであり、衆生が第1楽章で悉達多太子の体験するacintiyā主題を第3楽章で、さらに全曲終結部で悟りの和音を唱和する、唱和できるということは、衆生の一切衆生悉有仏性を音楽的に象徴し、また音楽によって仏陀釈尊の悟りを衆生に追体験させるものだと言えるのである。

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ここに至って、本稿冒頭の伊福部の「意訳」の意図が判明する。本作品『交響頌偈「釈迦」』は「思議思惟を超えたる」音楽作品であるが、それは衆生には理解不能な、衆生から超越し、衆生と縁を切ったものではなく、誰にでも感得しうる音楽である。「篤き信仰」は本作品で体験される、悉達多太子が仏陀釈尊としての悟りを得る過程と共に得られる。音楽を衆生を導く仏とし、音楽を共有する演奏者、聴衆を仏性を有する一切衆生とする思想、すなわち一切衆生悉有仏性の教理・思想がこの作品を貫徹し構造化しているのだ。

 

1)参照楽譜104頁。なお丸括弧は作品中で省略された箇所、山括弧はその直前に記された、複数形に変化された(文法上これは問題ない)単語の元型(単数形)である。
2)この一節を逐語訳すると以下のようになる
(Evaṃ) :このように、このような
acintiyā:(男性形容詞複数主格)不可思議だ、不思議だ
buddhā:(男性名詞複数主格)諸仏は
buddhadhammā:(中性名詞複数主格)諸仏の法は
(acintiyā ):(男性形容詞複数主格)不可思議だ、不思議だ
acintiyesu〈acintiye〉:(男性形容詞複数処格)(男性形容詞単数処格)不可思議について、不思議について
pasannānam.:(男性形容詞単数属格)信仰の
vipāko:(男性名詞単数主格):熟したものは、結果は、果報は
hoti:(動詞直接法現在単数能動3人称)~である、~になる、存在する、現れる、英語における be 動詞に近い単語
acintiyo:(男性形容詞単数主格)不可思議だ、不思議だ
3)高楠順次郎監修『南傳大藏經 第 60 巻』 大藏出版株式會社、1939年、267頁。
4)参照楽譜104頁。
5)参照CDブックレット。
6)平川彰 『インド仏教史 下』 春秋社、2011(原著1979年)、71頁。
7)総合佛教大辞典編集委員会編集『総合佛教大辞典 上』法蔵館 、1987年、544頁。
8)平川彰 『初期大乗仏教の研究』 春秋社、1968年、204-211頁。
高崎直道 『高崎直道著作集第六巻 如来蔵思想・仏性論1』春秋社、2010年、303-309頁。
9)総合佛教大辞典編集委員会編集『総合佛教大辞典 下』法蔵館 、1987年、1125頁。
10)高崎直道 『高崎直道著作集第六巻 如来蔵思想・仏性論1』 春秋社、2010年、6頁。

註に挙げた以外の参考文献
雲井昭善『新版パーリ語佛教辞典』山喜房佛書林、 2008年(改訂版)(原著 1997年)
多屋頼俊、横超慧日、舟橋一哉編著『新版 仏教学辞典』 法藏館、 1995年
中村元 『広説佛教語大辞典 上・中・下・別巻索引』東京書籍、2001年
水野弘元 『仏教要語の基礎知識』春秋社、1972年
水野弘元 『パーリ語文法』 山喜房佛書林、1973年(補訂第 6 版)(原著 1955年)
水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』 春秋社、2005年(増補改訂版)(原著 1968年)
村上真完、及川真介 『パーリ仏教辞典』 春秋社、2009年
Childers, Robert C. 1987(複製第 2 刷)(原著 1875). A Dictionary of the Pali language. (チルダース、R C 『パーリ語辞典』)臨川書店。
Edited by Geiger, Wilhelm. 1958. The MAHĀVAṂSA. London: Luzac & Company, LTD published for the PALI TEXT SOCIETY.

参照楽譜
伊福部昭 《交響頌偈「釈迦」》自筆総譜のファクシミリ版、新井彩可、新井俊定編集、解説:片山杜秀、勝崎裕彦、大正大学出版会、2012年。

参照録音音源
『伊福部昭 交響二題』石井眞木指揮、新交響楽団、栗山文昭合唱指揮、合唱団 OMP、千葉大学合唱団、fontec、FOCD9086、1996年。

(2023/11/15)

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