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プロムナード|おごそかな頬の稜線|秋元陽平

おごそかな頬の稜線
A solemn cheek-line

Text by 秋元陽平(Yohei Akimoto)

もう随分前のことになるが、覚えている。
夜更けに一歳の娘を膝に抱えて、居間のソファでじっとしていた。寝付かせることに失敗して草臥れていたのかもしれないし、入浴のあと、母親が身支度するあいだの空白をただ二人で手持ち無沙汰にしていたのかもしれない。あとは眠るだけという段になって興奮し、いっそう活発に室内を走り回った娘は、抱きすくめられて神妙になっていた。部屋の照明は落としてあって、半透明の掃き出し窓に我々二人、大小の姿が映じていて、そのとき、どうしてだか物思わしげな幼児の、そのふくよかな頬の描く線に、おごそかという形容以外にふさわしいものを思いつかなかった。生命の瑞々しさであるとか、いとけないかわいらしさであるとか、そういうことではない。大げさなひとびとが言うところの、当世流の「尊さ」——それはむしろ、瑞々しさや可愛らしさがその極点に行き着いたという徴にすぎないだろう——でもない。そうした誇張表現ではなく、端的におごそかなのだ。
ヨーロッパには、美しさについて古くから対立的に用いられる二つの言葉がある。ひとつは美(beauté)、花々やアラベスク、色彩のうちに諸物の調和、もっといえばなにかしらの目的に合致しているという快い予感を与えるもの。もうひとつは崇高(sublime)、こちらはいわば破調、乱調の美であって、聳える雄峰や荒れ狂う大洋が、感じる心をはるかに凌駕し、その荘厳において感動させ、また再び茫然とする者を不思議と勇気づける、そうした心の動き。イマヌエル・カントは、有名な三大批判より前に書かれたエッセイふうの美論において、おそらくなんの気なしに、老人は崇高で、若者たちはむしろ美に属する、と書き留めていたと思う。さよう、さよう。では子ども、それも幼児はどうか。
自らのうちに没頭しているもの、在る、ということにつとめようとするものに対する畏敬の念、つまり、一種の崇高なのだろうか。そうとも言えるが、これは小賢しい回答のたぐいだ。手指を動かして何やら口ずさむ児のかんばせをしばし眺めたのち、自分の頬をその頬へぐいと押しつければ、山に近づきすぎればその全体を見通せなくなるように、その偉大な稜線は消え去ってしまい、大きな餅のようなものが視界を覆うのみで、滑稽の感が競り勝つ。けれどもたしかに、睫毛が触れるほどにすぐ隣りあった眼をのぞき込むと、その眼はこちらを見返してはこないで、せわしなくあちこちに動きまわっていて、眼筋の動きが頬越しに震えとなって伝わってきて、その震えの中に自分が入り込み、束の間息を凝らして、無心のように見えるこの小さい生きもののうちを経巡るさまざまな潮騒のひとつひとつに成りきって、それを内側から生きることを想像することで、見る眼と見られる物どもの偉大な結び目になったような気さえするのだ。

(2023/10/15)